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「スポーツ写真集」という新たな地平へ!

写真集を買いました。羽生結弦氏の2021-2022シーズンを追った報知新聞社刊行の一冊「羽生結弦2021-2022」です。レコード盤サイズの大型の判型と166ページに及ぶ大ボリューム。手に取ったときのズシリと伝わる重量感は、「紙」や「物体」の手ざわり、画面だけでは得られない感情を呼び起こさせるものでした。重い。重たい一冊でした。



<写真集>羽生結弦2021-2022
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僕はこの写真集を見ながら、写真集とはこういうことなんだなと今さらながらに気づく部分がありました。この一冊だけが気づかせてくれたわけではなく、先日発売されていたスポーツニッポン新聞社によるもう一冊「YUZU'LL BE BACK IV 羽生結弦写真集2021〜2022」で受けた印象との合わせ技で感じる部分がありました。

この2冊、内容としては大筋で同じです。そうなるのは当然で、羽生氏を撮影できる機会は、みんな基本的に同じタイミングしかありません。試合があり、試合のための公式の会見があり、練習があり、本番がある、それだけ。大きく言えば昨年の全日本選手権、今年の北京五輪、そして刊行時期的に間に合うならばファンタジー・オン・アイス2022、同じ機会に撮影した写真を入れるしかないのです。

同じ機会の同じ場面の写真が基本的に同じ順番で並ぶ。単純に「それって意味あるのかな?」と思ってしまうような2冊ですが、だからこそ、機会が限られていた同じような写真集であることによって、より鮮明に「写真家」という存在が際立つ、対照的な2冊になったなと思います。写真が単なる記録ではなく、著作性のある芸術であるということを、ありありと感じられる2冊だなと思います。

両者が選んだ表紙の1枚は、北京五輪のエキシビションでの「春よ、来い」からの1枚です。「YUZU'LL BE BACK IV」はそれをモノクロで使い、実際にはやや視線を下げてうつむいていたであろう瞬間を、写真を横にして使いました。「羽生結弦2021-2022」はカラーで鮮やかに、視線を上げた瞬間を使いました。

まずひとつ一般的な違和感を挙げると、両者は揃って写真の選択が世間ズレしています。広く一般世間に向けるならば、表紙にふさわしいのは4回転アクセルに挑んだ「天と地と」です。そのほうが一般のお客さんの目にも止まるし、何よりこの期間の競技スポーツとしての象徴的な瞬間であるのは「天と地と」のほうでしょう。4回転アクセルに挑み、北京五輪の試合が決着した日です。「天と地とを選ぶべきである」とまで言ってもいいくらい。営業部や上層部に意見を聞けば、そう指摘されたでしょう。

しかし、両者は揃って「春よ、来い」を選んだ。それはスポーツの記録としてではなく、ひとりの人間である被写体を追ってきた、写真家(や記者)という別の人間が介在しているからの選択なのだと感じます。北京五輪という大きな出来事は決して「天と地と」で終わったわけではなく、むしろそのあとに被写体にとっての大切な出来事があり、そこまで含めて束ねるならば「春よ、来い」を選ぶのが自然で、当然で、唯一の選択肢だった。競技ではなく人間を見守る視線からすれば、そうなるほかなかった。そういう一致なのかなと思います。
ただ、表紙に選んだ1枚は同じ場面であっても、両者の視線は対極的です。表紙がモノクロである「YUZU'LL BE BACK IV」は表紙とのギャップを狙うかのように、むしろ明るくこの期間をまとめようとします。表紙は鮮やかな「羽生結弦2021-2022」は逆にこの期間の悲しみや痛みのそばに立つような構成です。それこそが、単なる記録ではなく、写真家が生み出す写真集なのだなと感じる所以です。

ともに同じ場面を見て、同じ場面を撮影したはずです。しかし、「YUZU'LL BE BACK IV」は「あえてそれには触れまい」とする意志が介在しています。北京五輪のショートを終え、フリーを迎えるまでの時間について、この写真集はわずか2枚の掲載に留まります。そのうち1枚は、赤い影が画面下に広がり、白くぼんやりとした視界に羽生氏が薄っすらと写るものです。スポーツの記録として見ればイメージ写真に過ぎる薄くぼかされた1枚は、そこで何があったかは知っているが、あえて触れまいとする意志です。

一方で、「羽生結弦2021-2022」はその時間について20ページほどを割きます。フリー「天と地と」について24ページを割いていますので、ほぼ同じ分量を充てています。その途中には氷のかけらが練習着全体についた1枚と、右足の裾を険しい表情で直す羽生氏の姿を並べておさめた見開きがあります。そこで起きたことにあえて目を向けようとする意志です。

そうした対極的な視線がより際立つのは、フリーの演技を終えたあとです。エキシビションを迎えるまでの時間、大会を終えたあとの時間、それをどう切り取るか。その点において、「YUZU'LL BE BACK IV」の視線は明るい。なるべく明るくあろうと努めている。サブリンクで自分と歴史に刻みつけるように演じた歴代のプログラムをとらえた一連のくだりは、「SEIMEI」で腕を広げて終わるのではなく、ほかの選手のバックフリップを撮影してあげる交流や、両手で作ったハートマークのカット、パンダの帽子を被った可愛らしい姿で締められていました。

「SEIMEI」で腕を広げてそのくだりを終えた「羽生結弦2021-2022」のほうが、この場面の意味合いに沿う構成かもしれないなとは思います。ただ、何かこう、少し明るくなるような、和らぐような気分が、あえて数カットを足した「YUZU'LL BE BACK IV」には生まれていると思いました。そして、その「SEIMEI」で腕を広げた場面ですらも、「YUZU'LL BE BACK IV」はほんのりと笑顔に見えるような瞬間を選び、「羽生結弦2021-2022」は万感こみ上げるような瞬間を選ぶことで、「私はこう見た」あるいは「私はこう見たい」という意志が、対照的で鮮明であるなと思います。

エキシビションの「春よ、来い」を経たあと、「YUZU'LL BE BACK IV」はビンドゥンドゥンと戯れる場面や、お姫様抱っこをされて笑顔を見せた場面、スタンドに向けて「ありがとうございました!謝謝!」と叫ぶ笑顔の1枚を並べてこの大会を終えます。「羽生結弦2021-2022」はスタンドすら黒く染まるような撮影法で、被写体以外にはそこに誰も存在しないかのような描写をし、暗闇に消えゆくような「謝謝」でエキシビションを締めます。まるでまったく違う日に撮影されたかのような2冊です。

奥付に添えたラストカット。「YUZU'LL BE BACK IV」は北京の人たちが道沿いに並ぶ姿を、車両のなかからおさめたカットを入れました。「羽生結弦2021-2022」は羽生氏がリンクから出る際に、氷に手を置く姿を入れました。「YUZU'LL BE BACK IV」は被写体の姿ではなく、被写体と同じ車両で移動する機会はなかったでしょうから被写体の存在すらそこにはない1枚です。そんなところもまた「私はこう見た」「私はこう見たい」がよく表れている選択だなと思います。

きっと、両者とも同じようなことを感じてはいたのでしょう。「プロのアスリートになる」と知っていたわけではないでしょうが、この大会のあとに何らかの転機が訪れるであろうことをきっと思っていた。この大会は喜びだけではなく悲しみや痛みも伴う時間であったことをきっと感じていた。ただ、それをどうとらえ、どう表現するかはそれぞれだった。

「YUZU'LL BE BACK IV」は痛みや悲しみはそっとその場に置き、ことさらに取り上げることはせず、それだけに囚われる必要はないだろう…という観察者としての視線を束ねています。被写体本人は自分自身を見られていないだろうけれど、君はちゃんと笑っていたよ、と。たくさんの人がいて、たくさんの人に見守られて、楽しい瞬間もあったのではないか、と。「私たちにはこういう君も見えていたよ」と伝えるように。

「羽生結弦2021-2022」は被写体本人に見えていたものを探るように、試合以上に長く、重く、幕間の瞬間をとらえていきます。どこが被写体にとって記憶される瞬間なのか、どんな感情を伴って刻みつけられた時間なのか。第三者としてではなく、可能なら被写体本人になりたいと思いながら、「君にはこう見えていたんじゃないか」と尋ねるように。

どちらがいいということではなく、同じ出来事の何を見て、どう切り取り、何を印刷して何を伏せるかで、写真家は心を表現するのだと伝わってくるような2冊でした。1冊だけならここまで鮮明に感じられなかったかもしれませんが、ほとんど同じ2冊が生まれたことで、改めて写真集とはいいものだなと思いました。記録映像だけでは掘り起こせないところまで、心を掘り起こすものだなと思いました。



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そうした「写真集」と呼べる形にまでなることは、とても幸せなことだなと思います。現地にはカメラマンがたくさんいます。世界中のカメラが同じ場面を記録しています。集めて並べれば大体同じものはできるでしょう。ただ、それは意志が介在しない、バラついた群像に過ぎません。ひとりの同じ人間が、すべての場面を見つめてきたからこそ、そこには人間の意志が込められます。「私はこう見た」「私はこう見たい」という意志が。

スポーツの撮影は特殊です。スタジオに被写体がやってきて、狙ったシチュエーションで撮影できるわけではありません。試合や大会があり、その運営の制約に従って撮影することしかできません。暗い会場、高速で動く被写体、広いスタジアムでの位置取り、何がそのスポーツにとって際立った瞬間であるかの知識…スポーツカメラマンとしての専門的な経験がなければ、撮影の腕だけあっても撮れないものが数多くあります。数枚の見事な写真を撮るだけなら数多の写真家ができるでしょうが、スポーツとして欠かせない場面を全員が撮れるわけではない。

新聞社、通信社、芸術ではなく報道として撮影に臨む人でなければ、すべての必要な場面に立ち会うことはできません。その人たちは報道として、ひとりの被写体だけではなく、たくさんの被写体と向き合う責務も同時に背負っています。五輪ともなればなおのこと。プレスのパスは限りなく少なく、撮影すべき場面は果てしなく多い。いつ、何が起きるかわからないなかで、身体はひとつしかない。でも、自分がシャッターを切らなければ、その場面は記録に残らない。

そういう立場の人たちが、自分の意志を込められるくらいにまでひとりの被写体に向き合い、その被写体だけを追う読み手が「この場面はあるだろう」と思う場面をちゃんとおさめた写真集が、1冊だけではなく生まれる。1冊だけではないからこそ、「すべてが報われたわけではないとしても、何も報われなかったわけではない」という複雑な出来事が、複数の意志によって複雑なまま表現されたように思います。とてもありがたく、稀有なることだなと思います。

スポーツの写真を集めた書籍、これまでにもたくさん買いました。スポーツ選手の写真集、これまでにもたくさん買いました。ただ、そのどれとも違うものが羽生氏の周りには生まれているなと思います。スポーツをする人である被写体をとらえた写真集。スポーツの記録というだけでもなく、人物のポートレートというだけでもない、特別なものが生まれているのだなと。「新聞社に籍を置くスポーツ写真家」による「スポーツ写真集」というジャンルでさえあるな、と思います。僕も素人なりにカメラを構えるクチですが「頼みます」と託せる相手がいて、ちゃんとその作品が共有されるのは幸せなことだなと思います。

とまぁ、長々と書いてきましたが、まとめるとどちらも「いいね!」ということです。

そのときの気分によって、どんな視線で振り返るかによって、手にとるものを選んでもいいのかなと思いました。笑顔で振り返りたいときは「YUZU'LL BE BACK IV」を、しんみりと噛み締めたいときは「羽生結弦2021-2022」を、同じドリンクの別々のフレーバーを楽しむようにして。

こういう企画が成立したことについては、魅力あふれる被写体と、見事に撮影した写真家によるところだと認識しつつも、買ってきた読み手も胸を張っていいのかなと思いました。買って、育ててきたぞ、と。なかなか羽生氏と同じようなわけにはいかないかもしれませんが、こういう感じのものが「ジャンル」として定着していくようになればいいなと思います。僕などは振り返りたい競技や試合がたくさんあるタチなのですが、こうやって意志がこもったものってなかなか作ってくれないんでね。難しいだろうなというのはわかりつつも。あったら欲しいんだよ、とは機会あるごとに伝えていきたいなと思いました。

「これいいですね!」と。


被写体と写真家と読み手のサステナブルな関係、大事にしたいものです!