※この記事は2016年05月14日にBLOGOSで公開されたものです

 HKT48のなこみく&めるみおが歌う「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の歌詞(*1)を、恵泉女学院大学の学長大日向雅美氏が授業で取り上げ、生徒たちが替え歌を作ったことが話題となっている。(*2)

 僕は知らなかったのだが、元々HKT48の歌の歌詞が女性差別的であるとしてネット上で批判されていたらしい。確かに男性である秋元康が、女の子たちに「頭からっぽでいい」とか「おバカでいい」などと歌わせているのだから、女性差別的と呼ばれるのも当然であろう。

 しかし一方で、そうした経緯を理解しながら、この替え歌を読んだ時に感じた、僕のなんとも言えない「苛立ち」をどう表現したらいいのだろうか。

 そもそも元の歌詞が批判されたのは、それが秋元康のような「強者男性」が、女性に対して「おバカなくらいがちょうどいい」という都合のいい女性像を押し付けたかのように見えるからだ。では、この替え歌はそれに対する反発になっているだろうか?

 僕はこの歌詞からは「大学に対する媚び」にしか感じない。
 地に足をつけて、勉強を頑張って、メイクもしっかりして、ニュースもしっかり見て、そうして大学の要請に合わせた女性として就職活動を頑張って、正社員になって学校の実績に貢献する。この歌詞からはそんな大学側を要求を内面した女性像しか浮かんでこないのだ。

 そんな歌詞に対して「かつての女性解放運動の闘士たちを乗り越えた現代女子学生たちの軽やかな解放宣言」などという、のんきな評価をつける学長の言葉に、さらに苛立つのである。

 ちょうどその頃、恵泉の学生たちよりも、よりアインシュタインを知っているであろう、東京大学の女子学生たちは、もっと社会に媚びた活動をしていた。

 旅行会社の大手H.I.Sが、東大の女子学生のグループ「東大美女図鑑」(*3)と組んで「東大美女図鑑の学生が、あなたの隣に座って現地まで楽しくフライトしてくれるキャンペーン!」というものを実施していたのである。これがネット上で「キャバクラの同伴出勤のようだ」と批判され中止に追い込まれた。(*4)

 僕のこの企画に対する印象も、ネット上のものと同じで、とても下品な企画であると感じた。その下品さは、まさに先程から提示している、「社会に対する媚び」にある。

 そもそも、世の中の強者男性は「本当にバカな女性」など好きではない。過度な茶髪や、ごてごてした「カワイイ」系の服装をした、明らかにバカっぽく見える女性の格好というのは、むしろ「男避け」として機能している。

 水商売でも、安いキャバクラならともかく、クラブなどのそれなりの階層にいる男性が顧客となる世界で売れるのは「頭がよく、「自分は知的である」と思い込んでいる男性と話を合わせられるだけの幅広い知性を持ちながら、少し引いて男性を立てることができる女性」である。「東大美女図鑑」のサイトの「美女紹介」(学生紹介とかじゃなくて、美女紹介……うわぁ……)を見れば、いかにも強者男性が好きそうな、そこそこ知的で、田舎のおじいちゃんおばあちゃんが「孫の嫁にしたい」と言うような女子学生ばかりである。

 H.I.Sの企画、フライトでの同伴というのは、まさに「相手を立てる程度に知性を披露できる女性」という意味で、正しく水商売的であり、多分、東大美女図鑑という存在が目指す意図と合致するのであり、それを企業が大々的に包み隠さず行ったがゆえに、そうした意図の「キナ臭さ」が強く臭いすぎてしまったのだと言えよう。

 かつて「女子アナブーム」というものがあった。
 本来はニュースの原稿を読み上げたり司会進行を行う、どちらかと言えば「ソツのない存在」として立ち振る舞うべきアナウンサーたちが、その本来のイメージとは逆に、おっちょこちょいであったり、少しモノを知らなかったりという、親しみやすい人間性を売りにし始め、それに世間が食いついたのがブームのきっかけであった。

 しかし、ブームが定着すると、「そもそも女子アナとは、男性アナウンサーと比べて少し抜けているもの」という前提が社会的に認知されると、民放各局も最初からそうした基準で女子アナを採用しだすようになった。また女子アナ自身も、所属している局からの独立した後のタレント活動や、スポーツ選手との結婚などを最初から視野に入れて、おっちょこちょいやおバカを演じるのが当たり前になってしまった。もはや女子アナのイメージはそういうものとして、企業や女子アナ個人、そして社会、それぞれの立場に対して内面化されている。

 僕がこの替え歌の話と、H.I.Sの話を見るに、それとおなじことが女子学生にも起きつつあるように思えるのだ。

 さて、こうしたことを踏まえて、恵泉の学長の言葉に戻りたいと思う。
 学長は替え歌の歌詞を「かつての女性解放運動の闘士たちを乗り越えた現代女子学生たちの軽やかな解放宣言」と評した。では「女性の解放」とはなんだろうか?

 かつて女性が「イエのモノ」とされ、子供を産んだり、家の手伝いをするだけのマシーンだった時代において、女性の解放とは「イエ」からの離脱であった。その後さらに「男性に養われる」という女性像を打ち壊し、個人として自立するという意味が、この「解放」という言葉にはあったはずである。

 しかし僕は、あの替え歌には東大の「美女」学生たちや、ブームを内面化した女子アナたちと同じような「社会に対する媚び」しか感じないのである。

 そもそも現在の大学に要求されている機能は「正社員としてふさわしい学生を輩出すること」だ。そして学生も正社員としていい会社に就職するために、大学に入るのである。そうした構図においては、勉強はもちろん、メイクをしたり、ニュースを見ることも、すべて「会社のため」になる行動様式を自ら内面化した結果であるといえる。

 つまりこの替え歌というのは解放とは程遠いどころか、その真逆ともいえる「社畜の歌」なのである。

 一方で秋元康の歌詞は、典型的な「勉強が大事という価値観から脱しよう」という「自由の歌」の文脈である。だがそれは決して他人に迷惑をかけるような自由ではない。一時的に社会からはぐれても、最終的に共同体に回収されることが前提なのである。その象徴がドラマ「glee」でクインを演じたディアナ・アグロンなのだろう。そしてそれもまた「強者男性が女子高生や女子学生あたりに期待する女性性」であることは言うまでもない。

秋元康の作る歌詞は、あくまでも社会に売れることを目指したアイドルソングなのだから、本質的な意味において社会に反発されるような歌詞を書くはずもないのである。

 そしてその両方の歌詞を取れば、それは「社会の抑圧に対してある程度反発しながら、最終的には勉強して男社会を立てられる女性になれ」という、まさに「女性は自由意志によって社畜となれ」という意味合いをハッキリと表してしまう。そういう意味で。この替え歌は秋元康の歌詞の批判になるどころか、実際には追補に過ぎないのである。それを「女性の解放」であると論じてしまうのは、まさにそうした規範が彼女たちに内面化されているからである。

 家から出て、夫という男性個人の軛から逃れ、女性が「解放」として行き着いた先は、企業に雇われて働くしかない社畜だった。

 その規範は内包され、大学に行って良い企業の正社員になることが、自由を手に入れる第一歩であると思い込んでいる。そのためになら女子大生は自分の女性性を売ることも厭わなくなった。女性性と女子学生というブランドを最大限に利用することが、人生のステップアップに繋がる。そんな社会では社畜の歌が高らかに歌われるのだろう。

 だが、それは決して手放しで絶賛されているわけではない。H.I.Sの企画は多くの反発を受けて中止になったし、もっと少数だが、あの替え歌が包有する気持ち悪さに気づく人もいるだろう。

 その気持ち悪さに真正面から対峙した先にしか、本当の意味での解放はないであろう。

*1:「アインシュタインよりディアナ・アグロン」(歌ネット)
*2:女の子はアインシュタインなんか知らなくていい?(恵泉女学園大学)
*3:東大美女図鑑(東大美女図鑑)
*4:H.I.Sの「東大美女が隣に座ってフライト」企画中止 ネットで批判受け(ITmedia ニュース)