繁華街にも爪痕、自粛ムードも…私が見た熊本地震(3) - BLOGOS編集部
※この記事は2016年05月05日にBLOGOSで公開されたものです
大谷広太(BLOGOS編集部)
(前回の続き)4月26日。実家は「赤紙」であるから住むことは出来ないし、仮に住めたとしても、家の中の片付け作業にはどれくらいの時間がかかるのか、見当もつかないくらだ。しかし私の両親としては、このまま親類の家に身を寄せ続けるわけにも行かない。実家の建物の残債はどうなるのか。撤去の必要が生じた場合、費用負担はどうなるのか。私たち家族の不安は募る。
隣の益城町と並んで、西原村も未だ「り災証明書」発行の見通しが立たないということ(5月1日から申請受付を開始した)、仮設住宅についても、どうなるかわからないという。それでも、住むに避難所しかなく、仕事再開の見通しも立てられない農業や酪農の方々と比べれば、私たちはまだ恵まれていると言えるのかもしれない。
発災から10日以上が経過し、被災した方々の疲れもピークに達している。
私の妹は、避難所で被災者の方が皮肉を言い合ったり、行列の順番をめぐって口論になったりしているのを見た。同じ「被災者」という立場であっても、それぞれの境遇には様々な差があるし、次第にそれが見えてくる。身寄りがどれだけいるのか。家の被害はどの程度なのか。身体の調子…などなど。そうしたことから、些細なことが感情を刺激するのだと思う。
ちょうど、警視庁の女性警察官によるチームが来て、お年寄りたちの相談に乗っていた。「ありがとうございます。私も東京から来ています。」と立ち話をした。避難所で連日入浴設備を提供している海上自衛隊の部隊は、八戸から来ているということだった(村内の他の避難所には、伊丹から来た陸上自衛隊の部隊が来ていた)。また、相馬市からのボランティアもいた。宮城県から震災を経験した市役所職員も入ってきているということだった。
市役所、県庁に就職した友人たちも、寝る時間もあまり取れないという話だった。避難所では、保育園や学校の先生も動員されていた。そうした公務員の方々へのケアも必要だろう。
■祖母は熊本を離れることに
この日、祖母について父と伯父が相談の上、神奈川県にある伯父の家に預けることに決めた。出発は28日となった。避難所では近隣住民や親戚と一緒だから、精神的には楽しいことも多いようだったが、身体的には一日中座っているか横になっているかで、足腰は弱ってきている。そこで、私と弟が付き添うこととなった。年齢のこともあるし、もう熊本に戻ることはないかもしれない、というのが、私たちの見解だ。そこで、集落に、伯父が車で祖母を連れてきた。救助されたとき、辺りは真っ暗闇で、ただ「周囲の石垣が崩れていたことしか覚えていない」と言う祖母に、「最後になるかもしれないから」と、集落を見せるためだ。
車を降り、潰れた自宅の前まで自分の足で歩いていった祖母は、「悔しか」とつぶやき、顔を覆って泣いた。祖父の墓のことは伝えなかった。
西原村では、地元の小中学生が防災無線の放送を行っている
実家については、これ以上出来ることもなく、集落の人たちのように、重機を使った道の啓開作業が出来るわけでもなかった。少しだけ無力感を覚えた。
■熊本市内に入る
夕方から熊本市内に行ってみることにした。営業しているというビジネスホテルに手当たり次第電話をかけてみた。どこも満室ということだったが、お湯が出ない、という条件で営業しているホテルが空いていたので、2泊分予約した。
17時ごろ、東区の熊本市電(=路面電車)の停留所まで送ってもらい、そこから市街地へ向かった。時間帯のせいか、車内は益城方面から来たと思われるボランティアのステッカーを服に貼り付けた若者と、応急危険度判定のために岡山市など他県の自治体から来た作業服の人たちが9割位を占めていた。彼らは市役所前で降りていった。この電停からは、進行方向右手に熊本城の長塀が見える。数十メートルにわたって倒れていた。
繁華街では、どの飲食店も、前震のとき、また本震のとき、客の安全確保などで大混乱に陥ったそうだ。熊本には九州有数の歓楽街もある。着の身着のままで客と店員が外に飛び出した、という話も耳にした。
あるショットバーでは、酒の瓶だけでなく、グラスも殆どが割れてしまい、被害額は数百万円、お店を開けるメドも立たないということだった。
私が訪れた立ち飲み店では、「お腹、空いとらんね」と、無償でおにぎりや味噌汁、サラダを提供してくれた。心遣いが本当に嬉しかった。
こうした繁華街で働く従業員たちの多くもまた、自宅が何らかの被害を受け、断水が続く中、それでもお店を開けるべく頑張っていた。しかし、地震以後、出張で熊本を訪れる人が減っているという実感があるという。全国から応援にきている自治体の職員の方々も、まだ飲食店に訪れる余裕はないのだろう。
皆、それぞれが物質的にも精神的にも傷を負っている。それは客も店員も関係無い。私も「頑張りましょうね」と言って、店を後にした。
■自粛ムードが蔓延
久しぶりに再会した友人によると、営業の継続が難しくなる飲食店は少なくないだろうし、彼もまた車中泊と水を避難所に汲みに行く生活が続き、会社も営業再開はしたが、今後の仕事に地震の影響は避けられないだろうと言っていた。
また、もう一人の友人は熊本市の中でも沿岸部に住んでいたため、東日本大震災のことが頭をよぎり、奥さんと急ぎ車に乗り、高台へ向かって走らせようとしたという。ところが周囲の人たちも同じことを考えていたのだろう、すぐに渋滞が起き、なかなか進まなかったそうだ。「ここで津波が迫ってきたら…本当に怖かった」。
システム関係の仕事をしており、これから被害の大きかった自治体での仕事が始まるという先輩は、4月、5月に予定されていた結婚式や宴会が相次ぎキャンセルになっていることを教えてくれた。職場の朝礼ではこうした状況に触れ、「皆ひとしく被災者ではあるが、元気な人、余裕のある人は、”自粛”のような動きをすべきではない。どんどん食べて、どんどん飲んで、経済を回さなければ、いずれ回り巡って、自分たちに跳ね返ってくる」と訴えた。しかし、反応は様々で、やはり自粛ムードは拭えなかったという。無理も無いことと思うが、私のような立場の者は、どんどん食べて、飲むべきだと思った。
さらに、全国紙の熊本支局に勤務する知人にも会うことができた。前震の発災直後に被害の大きいエリアに入り、異例の対応ながらSNSを使って支局に写真をどんどん送ったという。激務の中、伝統的・典型的な災害取材や記事の作り方の中にも、新しい考え方や手法をすこしずつ取り入れようと努力しているようだった。
■就職活動の合間に…ボランティアに参加する若者たち
小雨の中、花畑公園にあるボランティアセンターに向かう。9時からの受付だが、すでに行列ができていた。並んでいるのは、明らかに高校生や大学生風の人たちだった。交通整理や手続きなどをするのは、地元の大学生たちだった。
平日で社会人の参加が難しいという事情があるにせよ、これほど多くの若者がボランティア活動に参加していることに驚いた。
地下道で住所や氏名を記入する。この日が初参加の人と、前日までに参加経験がある人とで受付が別になっていたのだが、後者に並ぶ人の方が多いようで、驚いた。
まず、30人ほどのグループに分かれ、活動に当たっての心構えなど、説明を聞く。作業は主に二種類あり、ひとつは被災した方の家に出向き、片付けなどを行うこと。もうひとつは、避難所での手伝いをすること。
「避難所に行きたい方は?」と挙手を求められたが、すでに避難所は見ているし、せっかくだから力仕事の方が良いのではないかと思い、そちらに参加することにした。友人・知人同士で来ている人たちはできるだけ一緒に活動が出来るよう、人数の調整をしながら班分けを行う。それぞれ、バスや路面電車、あるいは自家用車に分乗して、現場へ向かう。私のグループは、目的地が近い3班がマイクロバスに同乗し、それぞれの目的地近くにあるスーパーの駐車場まで送ってもらい、そこから徒歩で現場に向かうというものだった。
私の班のメンバーは10名。私ともう一人が、社会人かつ県外からの参加者だった。残りの8名は、高校のクラスメイトのグループと大学生たちだった。中には高校1年生もいて、「学校が休校で、することがないから」と参加の理由を教えてくれた。
また、寮が崩壊し、犠牲者が出たことが報じられた、東海大学農学部の学生が1人いた。聞けば彼は4年生で、福岡に家族と避難しているのだが、たまたまこの日だけは就職活動も無いので、朝から鈍行で熊本に戻り、この活動に参加しているということだった。「きょうはジャージですが、昨日と明日はリクルートスーツなんです」と、少し照れながら話してくれた。
派遣先では、高齢者の家のキッチンの片付けを手伝った。ガラス戸の戸棚が倒れていて、中の食器も割れた状態で散乱していた。帰る時間は厳守だが、最寄りのバス停を通る本数は、臨時ダイヤとなっていて、1時間に1本程度。1時間強しか作業が出来ないので、「続きは明日、またボランティアに来てもらうようにします」と言って辞去する。帰る頃には、雨脚が強まっていた。
花畑公園に戻り、作業報告をする。事務局の外国人のボランティアの方と立ち話をする。日米ハーフの女性で、母親が栃木県出身ということだった。普段はアメリカで学生をしているそうだが、今回のニュースを見て、わざわざ熊本まで駆け付けたという。事務作業ではなく、片付けなどで貢献したいという思いを持っているが、日本語が完璧ではないことを心配していた。県出身者としては、ここまで駆けつけてくれたというだけで、感謝するほかない。
■痛ましい熊本城の姿を目の当たりに
夕方、熊本城の北にある銭湯に行くことにした。市街地からなら、城内を通る「御幸坂」を通って行けば、それほど遠くないはずなのだが、実際には城内のあちこちが通行止めとなっていて、城跡に沿って外周を行かなければ辿りつけないことがわかった。大きく迂回しながら、城を一周する形で歩いた。途中、「二の丸公園」までは入れるということがわかったので、天守閣に近づけるところまで近づいてみることにした。小学生時代から高校時代まで、この公園には様々な思い出がある。小雨も降り、人影もまばらな公園からは、崩れた石垣や櫓が見えた。なんとも言えない気持ちになった。
■子どもたちの心に深刻な影響
翌28日、祖母を連れて、東京へ戻る日が来た。
母は村内の保育園の仕事に復帰した。園長はお母様を亡くしたとのことだった。子どもたちの精神的ダメージは深刻で、小学生になる同僚の子どもが手を掴んで離さず、その子も一緒に通勤してきたとか、毛布に包まって出ようとしない園児がいるとか、一連の地震や避難所生活の恐怖が与えた子どもたちの心に与えた影響は甚大だ。ケアが待たれる。
熊本空港は、弟を迎えに来た日よりも幾分活気を取り戻しているように思えた。搭乗口の前で、父、伯父、祖母を並べて写真を撮った。
離陸直後、益城町の家々が見えた。
機内で祖母は「1月にも神奈川の家を訪れていたのだが、その時よりも何倍もしんどい」と言った。キャビンアテンダントの方々も、心配して声を掛けてくれた。祖母は「仮設住宅ができたら戻るんです」と言った。私は「それはどうでしょうかね」などとは言えず、「早く戻れると良いですね」と言うキャビンアテンダントの方々に、ただ笑顔を作ることしか出来なかった。
■おわりに
家族は被災をしたが、私自身は前震も本震も経験してはいない。当事者でもあるようで、取材者でもあるような、微妙な立場である。今回、記事として公開することについても悩んだのだが、ただ時系列に書き留めた、個人の備忘録のようなものでも、残しておく意味は幾らかはあるのではないかと思い、この場を借りることにした。
ある飲食店で、今回の地震について東京の人たちがどう感じているのか、尋ねられた。
私は「東日本大震災のときは、東京も揺れたし、多くの人が帰宅難民の経験もした。数日間は、スーパーからは物が消えたりもした。だから自分たちも”被災者”というか、少なくとも”当事者”という意識があったと思う。しかし、今回はそうではないから、自分が九州出身者でもない限り、どこか遠いところで起きた事だと、あまりピンと来ていないんじゃないかと思う。」と答えた。すこし不満気な表情をしていたか思う。
しかし、これに対し「それは仕方がないと思う」と、やや意外な答えが帰ってきた。「九州人である自分たちは、東日本大震災の時に、完全に他人事だったから」と言うのだ。「むしろ”報い”みたいなものなんじゃないですかね、変な言い方だけど」と。はっとさせられた。
発災からの数日間、全国から取材陣が集中的に投入されたと思う。私の実家の集落にも、入れ替わり立ち替わり、多くの記者やテレビ局のクルーが訪れていた。ただ、発災から一週間くらいが経つ頃には、全国放送では扱いも小さくなり、東京へ戻ってからは「情報が足りない」と思うことが多い。復旧・復興には時間がかかる。私の家族や友人たち、そして熊本の人々の本当の戦いはこれからだ。
熊本や大分のことが忘れられないために、1年後、5年後、10年後と、それからどうなったのか、私も折に触れて現地の「いま」を共有していきたいと思っている。(おわり)