先祖代々の墓所も壊滅…私が見た熊本地震(2) - BLOGOS編集部

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※この記事は2016年05月04日にBLOGOSで公開されたものです

大谷広太(BLOGOS編集部)

前回からの続き)4月17日夕、東京に帰宅した。 熊本便は欠航が続いており、帰っても必然的に住む場所に困るということになるため、母はそのまま福島に留まることを決めた。父は私たちと一緒に東京の私の家に滞在し、状況を見て帰ることにした。

地元の友人達の中には、断水、車中泊、小さい子ども連れでの避難所暮らしなど、過酷な生活を強いられているという人もおり、とても胸が痛んだ。

19日は私の誕生日だった。親に直接祝ってもらうのは10代以来絶えて無かったので、なんだか気恥ずかしかった。お昼、私が勤務する渋谷で、地元出身の若者たちが募金活動をするという話が伝わってきた。同じく渋谷に勤務する同級生や先輩と示し合わせて、わずかな時間ながらお手伝いした。みな、仕事や授業の合間に駆け付けたとのことだった。頭が下がる思いがした。

この日、飛行機の運行が一部再開され、佐川急便とヤマト運輸は熊本市向けの集荷を再開した。帰宅後、車を借りて佐川の営業所にわずかながら妹や友人へ食糧や生活必需品を発送した。

そして父は翌20日に熊本に戻ることを決めた。現地の様子を直接見て、伯父はじめ親類とも話をし、再び23日に東京に戻ること、母もそれに併せて東京まで来て、私たち家族とともに今後のことを相談することを決めた。

■1年ぶりに見た故郷

そして私は妻と息子を東京に残して、24日に両親と熊本に戻った。弟も、25日に熊本に戻ることとなった。

熊本空港着陸の直前、ちょうど左手に熊本市龍田あたりの家々が見えた。屋根がブルーシートで覆われた屋根だらけの光景に、地震は本当に起きたのだという思いを強くする。

西原村へ向かう車中、父は「帰ったら昔のままだったらいいと思ったのだが…」とつぶやいた。一足先に現地で改めて家の様子を見て、「涙も出なかった」「もう笑うしかない」と言っていた。擁壁が崩落し、家の前に停めてあった自動車は道路まで出せない状態が続いていたが、集落の人たちが応急的に整地してくれ、なんとか降ろすことが出来たという。

まず、祖母と伯父が居る避難所へ向かう。ひっきりなしに消防、警察、自衛隊の車両が行き交う。避難所となっている小学校の体育館前は炊き出しや何かの行列で混雑している。中には祖母・伯父ほか、近所の方々がいた。母と膝を尽き、「助けて頂いてありがとうございました。」と挨拶するが、それ以上は言葉が詰まって何も言えなかった。皆、表情は穏やかだったように思う。

そこから車で5分ほど、大切畑地区へ向かう。道路が寸断されているため、農道を経由して向かう。車を集落の中へ進める。ヘッドライトが暗闇の向うを照らすと、壊れた家々、崩れた石垣が視界に入ってくる。あまりの光景に言葉がない。辺りの電気は消えていて、詰め所となっている農機具倉庫の灯りだけが見える。車を降りて、皆さんに挨拶する。

大津町にある祖母の妹夫妻の家に泊まった。居間の時計は本震のあった時間帯を指して止まっていた。屋外のエネファームが倒れて壊れているため、お湯は出ない。台所も戸棚が倒れ、割れた食器などが散乱したまま手がつけられない。途中のコンビニで買ったおにぎりを皆で食べ、21時過ぎには就寝した。深夜、震度4の余震があり目が覚めた。



翌日、改めて大切畑地区に入る。帰省は1年ぶり、ちょうど昨年のゴールデンウィーク以来だ。見ての通りの田園風景で、私が育った熊本市、ましてや今住んでいる東京に比べれば本当に田舎である。

社会人になってからようやく、田舎の良さもわずかながらわかってきた気がしたが、それでも住むとなると、様々な人間関係や交通の便の問題など、ハードル少なくはない。しかし、帰省の度に息子は自然がいっぱいのこの環境を心から楽しんでいるようだったし、それが半ば失われてしまったと思うと、やはり悲しいとしか言えない。











22日から始まった「応急危険度判定」で、もちろん祖母宅は赤紙(崩壊)、同じ敷地にある我が実家も赤紙(周辺地盤の崩落の危険)が貼られていた。



祖母の中は南西角に向かって斜めに傾いていて、居間は辛うじてその形を保っていた。祖父母の写真が見えて、痛々しかった。



私の実家は他の家屋に比べて築年数も新しく、耐震も考慮されているため崩壊は免れたが、地盤とともに家全体がずれていて、帰省のたびに皆でバーベキューをした芝生の庭は、崖下に向かって崩れ、大きくひび割れていた。家の中にもひび割れがあり、テレビは台ごと1メートルほども動いていて、どうしたらこんなに家具が動き、ずれるのかと、思ってしまう酷さだった。



家の中から思い出の品や当面必要な衣料などを取り出してまとめる。あれもこれもと言っていては尽きない。足の踏み場も無く、ガラスも散乱しているので、遠慮無く、衣類や布団、本などの上を土足でゆかなければならない。歩みを進める度、割れたガラスと床板が擦れてバリバリという嫌な音が鳴った。



午後は弟を空港へ迎えに行った。まだ間引き運転のような状況で、欠航便もあった。到着便から出てくるのは、作業服を来た、各自治体からの人たちが目立った。連日捜索が報じられている、南阿蘇村で行方不明になっている大学生の方は、弟の同級生の兄弟だということだった。

なお、集落の様子を把握するのに、国際航業による各種資料、広島大学救急集中治療医学によるドローン空撮映像がとても役に立った。

・【速報】平成28年(2016年)熊本地震 - 国際航業株式会社

■壊滅した墓地

裏手にある集落の墓地に行った。





墓所そのものが崩壊していて、なぜこのようになるのか理解できない。”前震”のときには一番上の墓石が落ちただけだった祖父の墓も「無くなった」と言って良い状況だった。骨壷までが砕け、濃灰色の墓所の上に、遺骨が散乱していた。東日本大震災の際には、母方の祖父の墓も被害に遭った。なんという巡り合わせだろうと思った。妹、弟と、ただそこで手を合わせるしか出来なかった。

誰もが現地点では衣食住で精一杯だ。墓所のことは一番後回しにせざるを得ないだろう。



■必要な情報はどうすれば得られるのか



やや話はそれるが、当然のことながら私の祖母のような高齢者は回し読みする新聞と、設置されたテレビがメディアとの接点だったようだから、同じ避難所に居ても、得られる情報にはバラつきがある。自治体や首長もFacebookやTwitterを活用してはいるが、やはり届かない方々は避難所のホワイトボードに頼るしかない。

インターネット上の情報についてはデマ、特定の団体の是非が問題とされているようだった。
私が見たところ、情報収集・発信ともにFacebookを活用している人が多く、地元の友人・知人たちがシェアしていた投稿については、誤った情報よりも、有用な情報の方が多かったように思われる。

それらは例えば企業や団体による炊き出しの時間や、入浴施設の営業時間・混雑状況といった情報、物資の入手が容易なスーパーの情報で、NHKや地元紙でもカバーが難しい、非常にピンポイントなものだ。

ただこうした情報は賞味期限が短く、それゆえ新聞よりもネットに向いているのだが、とりわけ不足物資の情報は、シェアがシェアを呼ぶまでのタイムラグもあるし、道路状況から配送にも通常より時間がかかっていたことなどから、残念ながらミスマッチを呼んでしまう結果にもつながったと思われる。

また、被害の激しかった益城町、西原村については、マスメディアでの露出も多かったため、全国からの支援物資は多く、一方であまり報じられない大津町、高森町や熊本市東区など、隣接自治体では食糧の不足が慢性化しているという話も聞いた。

とはいえ、発災から数日経つ頃には、テレビのニュースで地震報道に割く時間も減っていき、地元放送局でも画面の”L字”に流れるテロップが頼り、といった状況になり、詳しい情報を知りたい立場としては、やや不満だった。そんな中、たとえばJ-COMのニュースは、視察した大臣や首長の会見を長尺で放送したり、給水場の情報、交通機関の運行情報などを丁寧に放送したりして、被災者や、遠隔地に居て関心のある人にはとても役立つのではないか(東京に戻ってから、私も視聴した)。

このような課題は、マスメディアとネットが上手く役割分担すること、受け手のリテラシーの向上で、改善が期待できる面もあるのかもしれない。(続く)