なぜ待機児童問題の議論は難しいのか~ニコニコ生放送「父が考える、保育園問題」から - BLOGOS編集部
※この記事は2016年04月08日にBLOGOSで公開されたものです
話題を呼んだ匿名ブログ『保育園落ちた日本死ね!!!』をきっかけに、保育園の待機児童問題がクローズアップされている。ブログの内容は衆院予算委員会でも取り上げられ、政府与党も緊急対策を打ち出したばかり。子育て対策は、夏の参院選でも争点の一つになりそうだ。去る3月25日、『ニコニコ生放送』では、「父が考える、保育園問題」として、東浩紀氏(作家・思想家・ゲンロン代表)、駒崎弘樹氏(認定NPO法人フローレンス代表理事・全国小規模保育協議会理事長)、川島高之氏(NPO法人コヂカラ・ニッポン代表/NPO法人ファザーリング・ジャパン理事)、西田亮介氏。(東京工業大学准教授)の4人による議論を放送。保育園制度の成り立ちから、労働力不足、職場での理解の問題まで、幅広く語り合った。
・「父が考える、保育園問題」東浩紀×川島高之×駒崎弘樹×西田亮介 - ニコニコ生放送
本稿では、このうち、待機児童問題を語ることの困難さについての議論をお届けする。
■今や共働き世帯の方がメジャー
東:そもそも、子育てにまつわる話を公の場でするのはとても難しいことなんですよね。細かいことを伝えていかないと理解が得られない一方で、それぞれの家庭にそれぞれの実体験がありますから。逆にそれらを総括して、一般論まで落としこんで話をしようとすると、本当に凡庸なことしか言えなくなってしまいます。うちの子が保育園に入ったのは2歳からでしたが、なんとか子育てができたのは、妻が家でも仕事が出来る小説家だったことが大きい。僕自身も、朝出社して、夜帰ってくるというようなタイプの仕事ではなく、時間が比較的自由に使えましたから。
西田:それでも子どもが保育園に入れなかったとしたら、やはりなかなか仕事に専念するというわけにはいきませんね。
川島:テレワークなどが可能な企業はまだまだ限られていますから、保育園に入れないとなると、共働きを継続するのは厳しいですよね。子育てと仕事、両方とも人としての権利ですから、それを両立できない環境自体、国として対処しなければならない問題です。
西田: 1990年代半ば、共働き世帯と男性は仕事・女性は主婦という世帯の比率が逆転し、現在では共働きの世帯の方が多くなっています。とくに年長世代の人たちなどには、この「共働き世帯の方が主流になっている」という事実が知られていないのかもしれません。
駒崎:「女性は家にいて、子育てに専念しないと母親失格だ」というような言説もありますね。でも、「専業主婦」が生まれたのは近代以降のことで、ボリュームが出始めたのは第二次大戦後なんですよね。それも1970年代にピークを迎えてからは減る一方です。ちょうど僕たちの親世代は、専業主婦が一般的という時代に生きてきましたから、それが伝統であるかのような認識を持ってしまっているのかもしれません。
川島:もっと言えば、江戸時代はいわゆる「イクメン」だらけでした。お父さんが子育てをして、子どもを抱っこしながら近所の人と世間話をする光景が、ごく当たり前でした。
駒崎:農村社会では夫婦とも働くのが当然でしたが、拡大家族が基本でしたから、おじいちゃん・おばあちゃんや、おじさん・おばさん、近所の人も含めて子育てをしていました。ですから、これほどまでに核家族化が進んで、子育ては親だけがする時代というのは、歴史上ほとんど存在しません。
にもかかわらず、「伝統」を履き違えた保守的な言説がまかり通ってしまうことによって様々な弊害が生まれている背景があるのではないでしょうか。
西田:その保守的な言説や政策は、ある意味で55年体制的な発想との相性が良かったところがあります。田中角栄内閣から大平正芳内閣にかけて、日本の現代的な社会保障制度の基礎が固まっていますが、そこでは夫は経済成長を支えるエンジンで、子育てや両親の介護は妻に任せるものとして想定され、制度設計が行われていました。
駒崎:例えば「配偶者特別控除」という政策で103万円の壁や130万円の壁を作り、「家にいる女性」と「死ぬほど働く正社員の夫」という組み合わせで高度経済成長にキャッチアップしていくことができた、と。その成功体験ゆえに、モデルチェンジに失敗してしまっていると思います。
川島:今、その成功体験を持った人達が社会や職場で意思決定出来る立場にいるので、「男は仕事、女は家庭」、それありきで部下に接したり、会社を経営したりしてしまっているわけです。ただ、この成熟社会の中では、そうした観念や長時間労働は変えていかないとまずい。
西田:子どもの面倒を誰が見るのか、という時に、家庭や保育所にとどまらず、「社会の中に預ける」という発想もありえるということでしょうか。
川島:もちろん大家族で見るというのもOKですし、近所のおじさん、おばさん達と一緒になってやるのもOKでしょう。逆に「専業主婦はイカン」というのも変な話ですからね。
西田:それぞれの考え方を支えるための制度の多様性が今のところ不十分ですね。これも今後の課題と言えますね。
■子ども・若者政策の優先度が上がらない理由
西田:あえて極端な話をしてみたいと思います。もちろん潜在的にはもっと多いと指摘もされていますが、待機児童数の「2万人」って、社会問題のボリュームとしてはそれほど多くないのではないかという考え方もあると思いますが、いかがでしょうか。たとえば、若年無業者という働くことができない若者の存在が知られていますが、50~60万人という規模なんですよね。これは15歳~34歳までの数字ですから、39歳までを含めると、200万人に達するという試算もあるくらいです。ゼロの数が違う。
このように、現代社会において、社会問題は数多に存在しますが、そのなかでなぜ待機児童問題のプライオリティを高いと考えなければならないのでしょうか。
駒崎:僕は、子ども・若者って、カテゴリーの中では一緒のところにあると思っているんです。それらが予算を取り合うのではなく、枠自体を広げようというのが、僕の提案です。
そういうことを言うと、「財源はどうするんだ」という反論が必ず来るのですが、「3万円を1000万人に配る」というような単年度の景気対策として毎年のようにやっているわけですから恒久財源として捻出できないことはありません。それ以外にも、例えば日本の相続税率はベルギーの半分です。控除もたくさんありますから、相続税がかかる範囲を広げるだけで、1兆円くらいは捻出が可能です。
そのような”小さい増税”をしていくことで、若者や子ども達に再配分していくことができるわけですから、そこは知恵を尽くしてやっていこうと。そのためにも、政治の中で優先順位を上げてもらわなければいけません。
東:「ボリュームが多くない」という問題ですが、例えば、東京都議会議員のおときた駿さんがブログで指摘しているように、障がい児の親は、障がい児のための政策にずっと向き合っていくわけです。議員への働きかけなど、政治な行動も継続的にやっていくと。だからこそ障がい児向けの支援・整備は着々と進んでいくわけです。
それに比べ、「育児」というのは、ある一時期を過ぎれば終わってしまうんですよね。たとえば10年間にわたって待機児童問題の当事者になる親はそれほど多くないでしょう。そういうことも、なかなか改善が進まない大きな理由だと思うんです。
駒崎:社会運動論的に言えば、例えば身体障がい児の親同士だったら、業界団体があったりして、連帯もしやすいんですけど、0歳児の親と高校生の親は同胞という意識が形成されづらく、連帯がないんです。今回は「保育園に入れなかったという親たち」、今回は「学童に入れなかった親たち」という具合に、課題ごとに分断されてしまい、リンクできていないんですよね。
東さんのご指摘の通り、親たちにとって、問題が2年~3年単位で移行していってしまうがゆえに、喉元過ぎれば…ということで、大きなムーブメントにはなりづらいんです。ですから、非当事者も関わっていくことがすごく重要です。
東:基本的に、子どもがいない人達というのは、この件に対して非常に冷淡ですよね。それに対して「国全体の問題なんだから考えろ」と言っても、「もっと考えなきゃいけないこといっぱいあるよね」という反論が来てしまう。待機児童問題の切実さについて、「子どもがいない君たちも理解して」と言うのは、今の社会構造の中では、とても難しいことです。
それだけでなく、「結婚した方がいいよ」とか「子供をつくった方がいいよ」ということも、ポリティカル・コレクトネスに反するわけで、もはや言えないわけですね。そういう世界において、待機児童問題を非当事者に向けて広げていくっていうのは、なかなか難しいだろうなと思います。
西田:もうひとつ、増税と絡めて論じるのも連帯の観点からいえば疑義を感じることがあります。財源を考えたときに、お子さんをお持ちでない人達からすると、当然、増税には負担感が出てくる。「なんで、自分達には子どもがいないのに負担しなくちゃいけないんだ」と反発してしまう。感情を契機とする連帯すらも難しいのではないかとも思えてきます。
東:僕は1971年生まれなのですが、同世代で結婚している人の割合はすぐに見つかるのに、子供がいる人とそうでない人はどういう割合なのかは、調べてもデータがなかなか出てきません。それは今回のような議論をする上で、ものすごく重要だと思っています。
つまり、子どもを持っている人が多数であるならば、国全体にとっても子ども対策が必要だという議論がしやすいですし「子育てを支援するために、子どものいない人からも税金を取るよ」という意見も言いやすい。でもそうでなければ、当然、数として負けていくわけですよね。
そうすると、0歳児や子どもにも、架空の選挙権を与えて、親が代理で投票出来るという制度でも導入しない限り、子どものいる人達の投票だけでは政治を動かせないと思うんです。少子化がある段階まで達すると、必然的にそういう状況になってしまいます。
駒崎:今のように人口ピラミッドが逆三角形になっている状況は、人類が史上体験したことのないことなんです。民主主義って、人口ピラミッドが三角形だった時にこそワークしていた仕組みで、長期的な利益を優先して、短期的には損をしてもいいよねという決断がしやすかった。若者が多ければ、「将来、俺達が年を取った時に有利になるように」という、長期的な視点を持ちやすかったんです。
ところが人口ピラミッドが逆になり、高齢者層がマジョリティーになると、「50年後のことは知らんがな」と、この5年後、10年後のことが良ければいいというような短期的な合理性が最大化してしまう。これが今の社会全体の意思決定の仕組みになってしまっています。
東:日本って、ずっと「若者文化」が注目され続けている国なんですよね。それはつまり、マーケティング的にも、文化的にも、若者が多い時代の成功体験ゆえなんですよね。その感覚がまだ抜けていないので、20代女性が「流行の先端」だとみんな思っている。でも合理的に考えれば、若くない人達に焦点を当てた方がいいんですよ。
実際、独身男性の消費規模が非常に大きくなっていますから、これからはむしろ、20代女性ではなくて、50代独身男性だと広告代理店の人も言ってるんです。恐らく、メディアも広告代理店もそういうことに薄々気がつき始めています。
つまり、どんどん減っていく若い人達に注目することは、ほとんど得にならない。政治の側は今も一応「若者の投票率アップ」「若者にウケる政策」などと言ってはいいますが、本音のところでは高齢者を取りに行ったほうがいいんですよね。
西田:日本の戦後の社会保障の設計図は、もともとGHQの社会福祉指令を起点にしています。当初は、「高齢者介護」は入っておらず、戦傷者などに対する施策が中心でした。
そこから時代が変わっていく中で、高齢者向けの社会保障が整備されていくなど、人口動態の変化を先読みする形で、場当たり的に改善してきたという背景があるんですよね。そういう意味では、若者や子どもに特化した施策が出始めたのは、ここ15年くらいのことですね。
東:これは絶対に不可能ですが、思考実験的に言えば、「60歳以上は選挙権停止」くらいやらないと劇的には変わらないと思います(笑)。若者に「選挙行こう」と言って、いくら投票率が上がったってダメなんですから。
■若者の間に横たわる格差問題
(沖縄県40代女性からの質問):今後、「恋愛できず、結婚できず、子供をつくれない貧困層」と、「恋愛できて、結婚できて、子供をつくれる富裕層」に日本が二極化する中、「保育園に入れないで困っています」という問題は、「仕事は時給800円のコンビニバイト、”希望は戦争”」的な未婚男性から見れば、優先度の高い問題だとは決して感じられないと思います。待機児童問題をリアルな社会問題だと感じているのは、実は富裕層なのではないでしょうか。父親になれない「結婚待機男性」問題こそ、深刻な社会問題なのではないでしょうか。
駒崎:子どもがいるということ自体が、もはや富裕な方々の、ある意味で贅沢な悩みなんじゃないかっていう問題提起ですね。
西田:先ほどの「親同士の連帯が困難」という問題と関係しますね。
2つ補助線を引くと、独身男性の人にとっても、この社会が維持されなくなるのは困るでしょう、という視点が一つあるでしょう。もう1つは、特に若年世代では4割近くが非正規雇用になっている今、男性だけの稼ぎでなんとかなっている家庭というのは、全体から見ればさほど多くないだろうという視点があります。
さきほども申し上げたように、今や共働き世帯がマジョリティになっているわけですから、必ずしも格差の問題に関連づけることは出来ないんじゃないかという気がします。つまり、より汎用性のある課題だということです。
東:全然違う観点から、すごくラジカルな話をしますけど、最近「ネットワーク理論」を調べているのですが、人間の性行動というのは正規分布をしないんです。つまり「この半年間で何人ぐらいと性交渉を持ちましたか」と尋ねると、すごく多い人と、すごく少ない人に二極化したグラフになるんです。これはすごく重要な事実だと思うんです。
僕達は「みんなが恋愛する」と思い込んでいるし、みんなが性交渉をし、子どもを産むという一応の前提の下、「恋愛」とは別の「婚姻」というシステムを作ってきたわけですが、個人の自由の幅が広くなってしまうと、多くの人達にとって性交渉は面倒なことであって、恋愛もしないという風になってしまうと思うんです。このグラフが意味していることは、そういうことではないでしょうか。
つまり、夫婦が1組あたり2人ずつ産むと…という想定自体が、ちょっと無理のある設定になりつつあって、子どもをたくさん作る人達と、ほとんど作らない人達に分かれて、トータルでみると人口が維持される、という風になるのかもしれない。そして、これはおそらく日本だけではなく、世界的にもそうなるのではないでしょうか。
実際問題、今の世の中では恋愛をして、結婚して、子どもを2人作って…というのが、標準的な幸せの形、ということにされているんですが、そうではない幸せを掴みたい人も、ものすごくいっぱいいるわけですよね。そういう人達に対して、「キミたちも子どもつくれ」と言うのは難しいんですよ。「それだったら、子供を持つのはムリだ」と考える人たちは、別に子供をつくらなくていいと思うんですよね。
だとすると、結局、大事なのは、子どもいっぱいつくる人を支援するシステムが実は必要なんじゃないか、とか、トータルで人口を維持するために必要なことは何か、もっと根底のところから考えなければいけないと思います。
ネットを見ていると、そこの論点設定に誤解がある気がするんです。「みんなが子どもをつくれるような社会を目指すべき」と思っている方もいると思いますが、それは目指すべき社会ではないんですよ。
西田:ただ、機会は開かれていなければならないと。
東:もちろんです。
駒崎:まさにフランスでは子どもが3人いれば、シングルマザーが仕事をしなくても暮らせるような社会保障の制度があります。ある種、出生率を高めるという政策としても合理的だと思います。
僕もラジカルな話をしますと、実は少子化問題って、人類史上、過去にはあんまり起きていません。「国民国家」というものがなかった時代には、人がいないところで作物が収穫できれば、そこへの人口移動が起きるので、人口が減ることはなかったんです。
それが「国民国家」という枠組みを作ったが故に、「じゃあ、そちらに入ります」ということに対して「いやいや、入るなよ」となりました。言わば、この「国家」という枠組みを溶かせば、少子化の問題というのも一緒に溶けていくんですよね。
東:移民奨励問題につながって来ますね。
駒崎:そういう意味で、国民国家としての有り様がある一方で、その基盤が掘り崩されていく人口動態の変化と、移民問題とをどうバランス取っていくかみたいなものが、ある種問われています。
徐々に、実質的な”移民”が定着していって、恐らく数十年後に、「気づいたら移民が入っていましたね」と、なし崩し的になっていくんじゃないかっていう気もします。
東:少子化対策が遅すぎたという指摘もあるかもしれませんが、もし10年前に今のような議論があったとしても、僕の世代はそんなに子どもを作らなかったと思います。ちょっとした空気によって変わるものじゃないと思います。高度な消費社会の中、みんな一人暮らしにも慣れていて、情報があって色んなことが出来る環境から、核家族になって、奥さんが仕事辞めて、子どもを育てて…となれるかというと、なれないわけですよ。
その解決のために、保育園をいっぱい作れば産むようになるかといえば、僕にはそうは思えません。みんな本当は産みたいはずだから、保育園をいっぱいつくれば、みんな産むんだっていう前提は違うと思うんですよね。
子供をつくって育てるということは、すごく時間もコストがかかるし、リスクもある。今の社会では、その道をあえて選ぶというのが”変わった選択”になりつつあるんですよね。そういう前提で物事を考えていかないといけないのではないでしょうか。
(あずま・ひろき)1971年生まれ。作家、思想家。ゲンロン代表取締役。著書に『一般意志2.0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)、『ゲンロン2 慰霊の空間』など。
(かわしま・たかゆき)1964年生まれ。三井物産ロジスティクス・パートナーズ株式会社代表取締役。NPOコヂカラニッポン代表、NPOファザーリング・ジャパン理事。著書に『いつまでも会社があると思うなよ!』(PHP)。
(こまざき・ひろき)1979年生まれ。認定NPO法人フローレンス代表理事、 全国小規模保育協議会理事長。現在、厚生労働省「イクメンプロジェクト」推進委員会座長、内閣府「子ども・子育て会議」委員、東京都「子供・子育て会議」委員、横須賀市こども政策アドバイザー。 著書に『社会をちょっと変えてみた――ふつうの人が政治を動かした七つの物語』(岩波書店 )、『社会を変えたい人のためのソーシャルビジネス入門』 (PHP新書)など。
(にしだ・りょうすけ)1983年生まれ。東京工業大学大学リベラルアーツ研究教育院准教授。博士(政策・メディア)。著書に『民主主義』(幻冬舎)、『メディアと自民党』(角川新書)、『マーケティング化する民主主義』 (イースト新書)など。