かつて野球害毒論が広がった背景を解説します(写真:dramaticphotographer/PIXTA)

人気スポーツの1つである野球。ただ明治時代には、新渡戸稲造や乃木希典などの著名人が、野球は社会や若者に悪影響を与えると猛批判していました。なぜなのでしょうか。近著に『奇書の世界史』がある奇書研究家の三崎律日氏が解説します。

前回:英国知識人を見事に騙した「嘘の台湾誌」の内容

新渡戸稲造、乃木希典らが東京朝日新聞上で批判

『野球と其害毒』は、1911年8月29日から9月19日まで、「東京朝日新聞」紙上で掲載された連載コラムです。アメリカよりもたらされ、日本で熱狂的ブームとなっている「野球」なる運動への批判をまとめたものです。連載の第1回目に新渡戸稲造を迎えたことで巷間に大きな論争を巻き起こしました。

新渡戸のほかにも、旧陸軍大将にして当時の学習院長の乃木希典や、東京大学医科整形医局長の金子魁一などそうそうたる顔ぶれです。彼らはいずれも、「野球」なる遊戯が、社会や若者にとっていかに悪影響となりうるかをそれぞれの立場から論じています。各回の小見出しだけをかいつまんでみても、

「巾着切り(スリ、泥棒)の遊戯」第一高校校長 新渡戸稲造
「全校生の学力減退」攻玉社講師 広田金吾
「徴兵に合格せぬ」順天中学校校長 松見文平
「選手悉く不良少年」曹洞宗第一中学校校長 田中道光
「必要ならざる運動」学習院長 乃木希典

このように、非常に強い言葉で批判を浴びせています。何より連載第1回目の新渡戸稲造の談話は世間に大きな波紋を起こしました。というのも当時、新渡戸が校長を務める第一高等学校は、自校内に野球部を持つうえ、早稲田、慶応と並ぶ強豪校として名高かったからです。

新渡戸稲造が展開した野球批判は、おおよそ次のようなものでした。

・野球は賤技なり剛勇の気なし
・相手を常にペテンにかけよう、計略に陥れよう、塁を盗もうなど、眼を四方八面に配り神経を鋭くしてやる遊びである
・ゆえに米人には適するが英人やドイツ人には決して出来ない
・英国の国技たる蹴球のように鼻が曲がっても顎骨が歪んでもボールに嚙り付いているような勇剛な遊びは米人にはできない
・日本の野球選手は礼儀を知らない。過日の軽井沢で行われた外国人との試合において不調法な野次を飛ばして試合が中止になったという
・海外では「スポーツマンライク」と言って非常に礼儀正しいことであるが、これを日本語に訳して「運動家らしい」と言うとなんというか礼儀も知らぬ破落漢の様に聞こえるのも日本の運動家の品性下劣から来ている

野球批判をしたいのか、お国批判をしたいのかよく分からない内容です。ちなみに「外国人に野次を飛ばして怒らせた」というのは、まったく逆の構図で、向こうから野次を飛ばしてきたのだ、と当時試合に参加した選手から反論が上がりました。

野球害毒論のなかでも、ひときわ強い語調で野球を批判しているのが、順天中学校長の松見文平です。

・野球の問題を訴える人々は、野球に一分の利がありつつも害の方が多いという論調のようだが私は根本から野球其物を攻撃したい
・野球選手が勉強ができないというのは熱中のあまり勉学を怠るためと言われているがそうではなく、掌へ強い振動を受けるためにその振動が腕から脳に伝わって脳の作用を遅鈍にする
・また野球をやりすぎれば、右手右肩だけが発達し、指は曲がったり根元ばかりが太くなり指を併せることができなくなり、結果的に徴兵に合格しなくなってしまう

元スター選手の批判に対して本人が異議

野球の弊害を訴えたのは教育者だけではありません。9月5日、「旧選手の懺悔」という表題で野球を糾弾したのは、河野安通志という人物です。かつて早稲田大学で剛腕を振るい、早慶戦第1試合から中止となる第9試合までを先発で完投した名選手でした。河野の発言の要旨は次のとおりです。

・選手が練習のために学業をなまけ落第する
・私も早稲田などに入らず商業高校にでも入っていればよかった
・日本野球の悪習として、選手が華美な服を好むというものがある
・海外遠征などでアメリカにかぶれ、向こうの妙な格好を日本に伝播してしまったことは懺悔せずにはいられない
・試合において入場料を取るなどという行為は中止すべきと思う

かつてのスター選手が語った「懺悔」に、世間は大きく動揺しました。ところが、この意見に異議を唱える1人の男が現れました。それは河野安通志、本人だったのです。

「旧選手の懺悔」から3日後の9月8日、東京日日新聞に「野球に対する余の意見」という記事が掲載されます。そのなかで河野は、怒りとともにおおよそ次のように述べました。

・東京朝日新聞に掲載された自分の「懺悔」は事実ではない
・自分が記者の名倉聞一にインタビューを受けたが、掲載されたようなことは一切言っていない
・選手の服が華美というのはたしかにそう思わなくもない
・しかし入場料については当然の措置だ。きょうび演奏会も演説会も入場料を取る
・これは名誉の問題であり、以上の文を「野球と其害毒」と同ページ、同サイズの活字で8日までに掲載してほしい。されない場合は即刻法的な手続きに出る

河野の抗議を受けた東京朝日新聞は、その2日後の9月10日、紙上に河野の「反論文」を掲載しました。本人の希望どおり、同ページ、同サイズの活字での掲載ですが、せめてもの反抗か、他の記事と比べて行間が狭く、ルビ(ふりがな)もなく若干読みづらい構成になっています。

「害毒論」が生まれる下地はあった

『野球と其害毒』は、今日の野球を基準としてみればあまりにも強引な批判と言えます。しかし、当時の「野球」というスポーツが置かれた状況を鑑みると、たしかに「害毒論」が生まれる下地はありました。

第一高等学校野球部は、国内における野球発祥の場所というだけあり、各大学の追随を許さない強さを誇っていました。しかし無敵の牙城を崩したのが、早稲田大学、慶応大学の2校です。1904年に早稲田大学が第一高等学校を破ると、早慶戦の時代へと突入します。

早稲田大学教授の安部磯雄が率いる早稲田大学野球部は、アメリカへ遠征を行いました。バントやスライディング、ワインドアップ投法など、これまで見たことのない本場の技術を日本に持ち込んだことで、大学野球のレベルは飛躍的に向上したのです。

安部が持ち帰ったのは野球の技術だけにとどまりません。「本場の応援法」は、各校ごとに応援団を結成し、カレッジソングを熱唱。カレッジフラッグを振り回し、時には相手チームに野次を浴びせるというものです。そして、重要な試合の前には相手校へ脅迫まがいの不審電話まで相次ぐ始末。応援方法が異常性を帯びていったことで、早慶戦が「状況不穏のため」として無期限休止となることもありました。

また、有力チームの選手たちにファンがつき、さらには「追っかけ」も現れるなど、さながら人気アイドルのような様相を呈します。選手のなかには、半端に覚えた噛み煙草を口に含み、茶色い唾を吐く者。試合に勝てば、ファンの金で飲み屋を渡り歩く者などが現れました。野球を取り巻く状況に、当時の父兄らが眉をひそませたのも十分うなずけます。

そんななか、当時国内唯一の全国紙であった東京朝日新聞社は、大阪で急激に発行部数を増やす新聞社がついに東京へ進出するという噂を耳にします。そして1911年、大阪毎日新聞は東京日日新聞を買収し、国内2番目の全国紙へと躍り出ます。

ちなみに、東京朝日新聞が「野球と其害毒」を連載したのは、東京日日新聞の買収と同じ年です。これは、大阪の脅威に対抗するために、当時良くも悪くも衆目を集めていた「野球」を記事として利用したのではないか、という見方もあります。

しかし、すでに圧倒的な人気を誇る野球の批判記事を好んで読もうという人は少なく、「野球擁護論者」たちに完全にやり込められてしまう形となりました。

一方、大阪に拠点を置く大阪朝日新聞は、東京での連載終了後に、野球の好意的な記事を徐々に増やしていきました。そして4年後の1915年、「国内野球を正しい方向へ導くため」として、全国中等学校野球大会を主催するに至ったのです。

当時の大阪朝日新聞社説には次のようにあります。

攻防の備え整然として、一糸乱れず、腕力脚力の全運動に加うるに、作戦計画に知能を絞り、間一髪の機知を要すると共に、最も慎重なる警戒を要し、しかも加うるに協力的努力を養わしむるものは、吾人ベースボール競技をもってその最なるものと為す

大阪朝日新聞(1915年8月18日付)より引用

現在のさわやかなイメージは害毒論へのアンチテーゼ

理性や感情が入り乱れる野球批判の論調を見ると、2000年代に話題となった「ゲーム脳」などといった各種「害毒論」が思い出されます。


野球にしろ、ゲームにしろ、世の中に突然現れたものは、人々への影響力が強ければ強いほど「善い・悪い」だけでなく、「快・不快」の議論にも晒されるのはまた面白い側面でもあります。

現在の高校野球にある「さわやかな」イメージも、もとをたどれば「害毒論」に対するアンチテーゼとして大阪朝日新聞が作り上げたものです。そう考えれば、そもそも「害毒論」がなければ、現在の野球はもっとアングラなスポーツになっていたかもしれません。

対論が存在するというのは、その題材をさらなる高みへ導くための大切な要素であると言えるでしょう。