by Edna Winti

ルイ16世の王妃であり、フランス革命でギロチン台の露に消えたマリー・アントワネットの発言として最も有名なセリフが「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」です。このセリフは、フランス国民の困窮とはかけ離れたぜいたくな暮らしをしていたというマリー・アントワネット像を象徴する言葉として知られていますが、現代ではマリー・アントワネットの言葉ではないということが判明しています。このセリフについて、科学系ニュースメディアであるLive Scienceが解説しています。

Did Marie Antoinette really say 'Let them eat cake'? | Live Science

https://www.livescience.com/let-the-eat-cake.html

マリー・アントワネットはオーストリア大公だったマリア・テレジアと神聖ローマ皇帝のフランツ1世の娘マリア・アントーニアとして、1755年に生まれました。そして1770年、15歳の時にルイ15世の三男であるオーギュスト王太子と結婚し、フランス語読みの「マリー・アントワネット」で呼ばれるようになりました。その後、1774年にオーギュスト王太子がルイ16世に即位したことで、マリーはフランス王国王妃となりました。



経済悪化の一途をたどるフランスでは、ぜいたくな暮らしをしたり外国貴族と浮名を流したりしたマリーに対する評判は最悪でした。マリー自身も王国の財政状況を把握していなかったといわれており、それを伝えるエピソードの1つとして、パリの農民が非常に貧しくてパンを買う余裕もないというニュースを聞いて「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したことが知られています。

なお、「お菓子を食べればいいじゃない」というセリフは厳密には正確ではなく、マリーのセリフとして伝えられているのは「Qu'ils mangent de la brioche(ブリオッシュを食べればいいじゃない)」というもの。ブリオッシュは牛乳と砂糖を加えたパンで、普通のパンと比べるとやや高価ではあるものの、お菓子とは別です。とはいえ、マリーの経済感覚が国民とかけ離れていたことを示していることには変わりません。



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しかし、そもそもマリーが「ブリオッシュを食べればいいじゃない」と発言したこと自体が史実である証拠はありません。この発言の初出は、「社会契約論」「エミール」などで知られる思想家ジャン=ジャック・ルソーの自叙伝「告白」であるとされていますが、ルソーは「農民にはパンがないと言われ、とある偉大な王女(d'une grande princesse)が『ブリオッシュを食べればいいじゃない』と発言したことを思い出した」と記述しているのみで、具体的に誰の発言なのかは明かしていません。そもそも、ルソーの「告白」が1769年に出版された作品であり、マリーが結婚する前に書かれたものであることから、この発言がマリーのものでないことは明白です。

また、「告白」が自叙伝という体でありながら創作が多く入り交じった作品であり、同時代に書かれた他の記録からは同じようなエピソードが発見されていないため、このエピソードそのものがルソーの創作であるというのが通説。18世紀フランスの女流作家であるアデル・ドスモンは回顧録「Mémoires de la comtesse de Boigne」の中で、ルイ15世の娘であるヴィクトワール・ド・フランスが「凶作でパンを食べられない農民の話を聞いて『(パンよりもはるかに安価な)パイ生地も食べられないなんて!』と涙を流しながら語った」というエピソードを紹介しており、これがルソーが紹介したエピソードの元ネタなのではという説も存在します。



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最初に「ブリオッシュを食べればいいじゃない」をマリーの発言とはっきり示したのは、1843年に出版されたフランスの雑誌に掲載された記事といわれています。つまり、マリーが処刑されてから半世紀の間、「ブリオッシュを食べればいいじゃない」というセリフはほとんど注目されておらず、マリー・アントワネットとも紐付いていませんでした。

クレアモント大学院大学の非常勤講師であるデニス・マイオール=バロン氏によれば、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」という発言が注目されるようになったのは、ナポレオン3世率いるフランス帝国が普仏戦争に1870年に敗北し、フランス第三共和政が樹立してからだとのこと。マイオール=バロン氏は、第三共和政を押し進めた共和派がフランス第二帝政への攻撃の一環として、ブルボン王朝とマリー・アントワネットに対するネガティブキャンペーンを展開していたと指摘しています。この時、共和派は「国民にケーキを食べさせよう」というスローガンを掲げていたそうです。



なお、オックスフォード大学の近代史学教授であるロバート・ギルデイ氏は、マリーがフランス革命で処刑された理由として、「フランス革命は、女性を政治的権力から排除しようとしていました」と指摘しています。ギルデイ氏によれば、フランス革命におけるマリー・アントワネットの排除には性差別的な側面があり、1791年に「女性および女性市民の権利宣言」を発表した女権運動家のオランプ・ド・グージュがギロチンで処刑されたことからもそれがうかがえると述べています。