2020年2月11日に惜しまれつつ亡くなった、野村克也さん(享年84)。1周忌にあたり、15年間近くマネージャーを務めた小島一貴さんが、短期集中連載で「ノムさん」の知られざるエピソードを明かす。今回は、第4回だ。

 監督は「生涯一捕手」を座右の銘にし、現役時代は3017試合に出場したが、これは谷繁元信氏(元中日)に更新されるまで日本プロ野球で1位の記録だった。同じく捕手である谷繁氏に抜かれたとはいえ、プロ野球史に残る名捕手だったのは間違いない。

 また、監督としては3204試合を戦っているが、「どうしても捕手の視点で見る癖がついている」と言っていた。南海で兼任監督として指揮を執った1040試合を差し引いても、捕手の視点で5000試合以上を戦ってきたことになる。

 これだけ捕手としての経験があるためか、監督の捕手論、あるいは配球論は、本当に洗練されていると常々感じていた。

 たとえば、「ストライク、ボールのカウントは12通りある」という。数えれば簡単にわかることなのだが、実際に数えて、カウント別に打者と投手の有利・不利を分類し、配球に活かしていた捕手は、はたしてどのくらいいたのだろうか。

「配球の基本は4つのペアの組み合わせで成り立つ」というのもそうだ。すなわち、外角と内角、ストライクとボール、速い球と遅い球、ストレートと変化球、の4ペアである。これらの話は野球経験者なら、誰もがなんとなくわかっているようなことだが、言葉で整理されると、なるほどと思える。

 南海時代、シンカーを武器とする右サイドスローの皆川睦夫投手に “小さいスライダー”、今でいう「カットファストボール」の習得をすすめ、皆川投手は球界最後の30勝投手になった。これは、上に言う「外角と内角」のコンビネーションを生かすことに成功した例といえる。

 それから約25年後、ヤクルトの監督時代には、スライダーを武器とする同じく右横手投げの高津臣吾投手(現ヤクルト監督)にシンカーの習得をすすめ、高津投手もこれを見事にマスター。「外角と内角」のコンビネーションを生かして、球界屈指のクローザーとなり、MLBでも活躍した。

 これらのエピソードは、「監督が捕手視点で培ってきた野球理論が、四半世紀の時を隔てても通用していた」と証明していると思う。

 もっと根本的に、捕手という存在について語っていた言葉もある。「捕手は打者を疑うのが仕事。勝負事だから、常に騙し合い。だから、捕手をやると性格が歪む。人を信用しなくなる。それで俺もこんなふうになっちゃった(笑)」と。

 それは半分冗談だとして、こう続けていた。

「なぜ捕手だけお客さんに背中を向けて、ファウルゾーンで守っているのか。中に入らずに構えているポジションって、よく考えると不思議だ。これはつまり、『捕手は外から冷静に戦況を見なさい』ということなのではないか」

 野球経験者でも、なかなか思いつかないような着眼点だ。監督ほどの捕手でも、現役時代に試合に熱くなって、本塁突入時に体当たりしてくる相手に肘をぶつけるようにタッチして、鎖骨を折ってしまったことがあるらしい。そうした経験も踏まえて、「捕手は常に冷静でなければならない」と、肝に銘じていたのだろう。

 また、こうも語っていた。

「『いいリードをする捕手なのに打つほうはさっぱり』というのは、よくわからない。打席でも捕手の視点を持っていれば、配球を読むことができる。俺はそれをバッティングに生かしたんだ。捕手じゃなかったら、俺はあんなに打っていない」

 つまり監督のなかでも、あくまで「捕手・野村」あっての「打者・野村」だったということだろう。

 さらには、こんな話もされていた。

「捕手は、『功は人に譲れ』というポジション。女房役だ。自分のリードで投手が好投しても、ヒーローインタビューは投手だけで、捕手は日陰の存在。

 俺は外でも家でも女房役。うちの奥さんは典型的な投手タイプの性格で、ものすごいプラス思考。俺はマイナス思考だから、プラスとマイナスでバッテリーだよ」

 監督は、野球という仕事の現場だけではなく、家庭でも捕手の視点が抜けなかった。それくらい、生粋の捕手だった。「生涯一捕手」という座右の銘は、ダテじゃない。