「母の退職金で開業」から36年…伝説のサンドイッチ店マスターを支えた、3人の女性の物語
東京は銀座、歌舞伎座の裏にある喫茶店「アメリカン」が、私は大好きです。かれこれ5年ほど、月に1度のペースで通っています。
銀座の一等地にあるとは思えぬ、パンチの効いた店内(失礼)がまた魅力的。
壁という壁に貼られているのは、店主・原口さん(以下、マスター)の出身地である「佐賀県」に関連するポスターと、来店した著名人のサイン。
かと思うと、謎の木彫りの置物やぬいぐるみが置かれていたり……とにかく情報量が多い!
ところで「アメリカン」は、ボリューム満点のサンドイッチで大人気のお店です。
テレビ・新聞・雑誌・インターネットと、取材はひっきりなし。お昼時には連日行列ができ、スープがなくなると営業を終了する人気ラーメン店のように、15時前後には食パンがなくなるので営業を終了します。
食パン約1斤を使用したジャンボなサンドイッチは、具材もてんこ盛り!
そんなお店に毎月通うなかで、マスターの意外なボヤキを耳にしました。
「“大きいサンドイッチの店”って言われるのは、実は複雑な気分なんだよ」
こんなにもわかりやすい「デカ盛り」なのに!?
なぜ「うれしい」ではなく「複雑な気持ち」になるのか気になって、お話を伺ってきました。
やけくそから誕生した「巨大サンドイッチ」
アメリカンは、最初から「大きいサンドイッチのお店」だったわけではありません。
「俺たちの世代(マスターは1951年生まれ)は、アメリカへの憧れがあったからね。音楽とか、車とか。それで“アメリカン”にしたの」
さらに「珈琲“館”みたいでいいだろ?アメリ“カン”」と少しだけ口を滑らせた瞬間を、私は聞き逃しませんでした。まさかのダブルミーニングだったとは…!
アメリカの風を感じる喫茶店メニューとして、サンドイッチやケーキを提供し、開店当初はバブルの恩恵も受けて大盛況でした。
しかし、バブルが崩壊。一転、閑古鳥が鳴く日々に。
抱えていたスタッフの方には辞めてもらわざるを得なくなり、お店に残ったのはマスターと、いまも勤めているミドリさんの2人だけに。それでも時間を持て余す毎日だったといいます。
暇すぎてパチンコ屋に行き、「パチプロになろうかな」なんて思っていたこともあるそう。不遇の時代は長く、2000年代に入ってもなお、好転しませんでした。
「生活保護の申請をしたこともあるよ!カカア(奥様)と娘が稼いでるからダメって断られたけど」
追い討ちをかけるように、2010年から3年にわたって歌舞伎座のリニューアル工事が行われました。
店のすぐ近くにある歌舞伎座のおかげで、数少ないお客さんがいらしていたというのに!工事でしばらく休館するとなれば客足への影響は必至、閑古鳥さえ鳴かないお店になってしまいます。
ところが歌舞伎座のお客様と入れ違いに、工事現場の方々が訪れるようになったのです。逆に言えば、彼ら以外にお客さんはいないということなのですが。
「それでヤケクソになって、サンドイッチを大きくしたんだよ」
言わば「持ってけドロボー」状態でしょうか。極厚の食パンに、てんこ盛りの具。従来のサンドイッチの概念を覆す「立方体サンド」は、このとき誕生したのです。
「ヤケクソ」という心情とは裏腹に、巨大サンドイッチは評判を呼びました。それが最近になってメディアに取り上げられ、大行列につながるわけです。
一時のブームで終わらず、ずっと人気を集め続けているのは、見た目のインパクトを上回る「おいしさ」あってこそ。
パンは焼き立てを直送してもらっているからフワフワもちもちだし、1番人気のタマゴサラダにいたっては、1つ作るのにタマゴを5〜6個使用(1日で600個消費!)しています。
「大きくなったのはなりゆき上のこと!こだわっているのはおいしさ。だから“大きいサンドイッチの店”よりも“おいしいサンドイッチの店”って呼ばれたいよね」
「大きい」と言われることに複雑な気持ちを抱えていらしたのは、そういう背景があったからだったのですね。
35年以上になる「アメリカン」の歴史において、巨大サンドイッチが販売されてからまだ10年足らず。
それまでの25年、つまり人気になる前のアメリカンを想像できない私は、創業当時のヒストリーが気になり、伺ってみることに。
開業資金は「お母さんの退職金2,000万円」
もともと食品メーカーに勤めていたマスターは、そこでメーカー直営喫茶店の企画・展開の仕事を担当していました。
30歳目前という年齢で多くのことを任され励んでいたものの、会社がその事業を手放すことになってしまいます。
部署は解体となりチームメンバーが異動を命じられるなか、熱意の向けどころを奪われたマスターは脱サラを決意。俺は俺で、喫茶店をやる!
「男で30くらいだとさ、なんとでもなるという妙な自信があるもんだよ」
威勢よく始まった「喫茶アメリカン物語 〜開業準備編〜」でありますが、二言目には、
「でも、なんともならなかったな」
……そりゃあそうです。開業のために前々から準備していたわけでもなく、突然に脱サラだなんて無謀です。(しかも、当時マスターには2人のお子さんがいらしたのですよ!)
そこで頼りにしたのが、佐賀の実家にいるお母さんでした。ちょうどその前年に長く勤めていた小学校教員の職を離れ、退職金をもらったばかりだったのです。
「サンドイッチの店ばするけん、お金を貸してほしい。いまいくらあると?」
なかなか答えないお母さんにしつこく尋ね続け、返ってきた答えは、
「……2,000万くらいかね」
マスターは容赦なく畳み掛けます。
「それ、全部貸さんね!」
「「全部!?」」
思わず、回想シーンのお母さんと私の声がハーモニーを奏でました!
なんて遠慮がないんだ!2,000円じゃないんだぞ!世のお母さん方、男の子の言動とはこういうものなのですか!?
「ありえない…」という目でマスターを見つめる私をよそに、
「それで2,000万借りて、ビジネス街で土地を探したんだけど大変で……」
……マスターの話はあっという間に次のステップに。
お母さん、2,000万円まるっと貸しちゃったんだ!!(驚)
お小遣いにしては多すぎますよ!宝くじ価格!佐賀には「がばいばあちゃん」しかおらんのですか!
お店を訪れるたびにマスターのパワフルさに目を見張っていましたが……お母さんも豪傑だったのですね。
2,000万円を手に入れたものの、無職の30歳青年に貸してくれる物件などありませんでした。いまから35年以上前の話です。
SNSなどなく、名刺がすべて。マスターは肩書きがない「丸腰の自分」で戦わねばならなかったこの時期を「惨めで、いちばん辛かったころ」だとお話しされていました。
約半年かけ、ときに心折れながらもなんとか東銀座の現在の物件を探し出し、1983年5月に開業にこぎつけたのです。以来ほとんど休むことなく、35年超もの長きに渡って営業し、いまに至ります。
しかし前述の通り、その歴史のほとんどはバブル崩壊の煽りをうけての不遇の時代でした。
物件を探している最中だって、バブル崩壊後だって、いつだってお店をたたむ決断はできたはず。それでも辞めずに続けたのは「お母さんへの恩義」ゆえ。
「母親が生きている間は、絶対に店を続ける」
どんなことがあっても、その決意は揺らがなかったそうです。
アメリカンを支えた2人の女性
とはいえ、気合いと根性だけで続けられるほど、商売は甘くありません。なにより必要なのはお金。
「アメリカン物語」は、家計を支えてくれた奥様の話に及んでいきました。
「そのころ団地に住んでいたんだけど、たまたま生命保険のセールスレディがうちに来て。で、うちのカカア(奥様)がその人をやりこめちゃったんだよ!」
マスターと奥様は実は同級生。佐賀の中学校で同じクラスだったときも、奥様は1番頭がよかったのだとか。
「そうしたら、セールスレディから“一緒にやらないか”って勧誘されて。最初は週に2〜3日のアルバイト感覚で仕事をしていたのに、いつの間にかトップセールスに上り詰めたんだ」
保険のセールスで好成績を収めた結果、本社に引き抜かれて本格的に働き始めることになった奥様。そこでマスターに代わって家計を支えてくれたのです。
「中学生のころから、いつだって俺のほうが下。店がテレビに出るようになっても、絶対に俺のことを褒めないんだよ。むしろ”私がいたからあなたは好きにやれているのよ”なんて言われてさ。事実だから、言い返せないんだけど」
と、笑うマスター。
……なんてかっこいい奥様なんだろう!
私ならそうとう恩着せがましく振る舞うか、さっさと別れてしまうことでしょう。ちっぽけな自分が恥ずかしい!私もパートナーがやりたいことを応援できる人間になりたい!
よし、この流れで「不遇の時代のお店」を支えてくれた方のお話も伺ってみましょう。私が大好きな「ミドリさん」についてです。
いちファンとして語らせていただきますが、アメリカンはマスターのお店であり、ミドリさんのお店でもあるとも思うのです。マスターが厨房での仕事に注力できるのは、客席を鮮やかにさばいていくミドリさんの存在あってこそ。
小柄でいらっしゃるのに存在感がハンパない!お店に伺うと必ず声をかけてくださるのが、毎回とても嬉しいのです。ハツラツとした声にいつも元気をもらっています。
そんなミドリさんは創業時からのアメリカンスタッフ。マスターとの出会いは前職の食品メーカー時代、フランチャイズ喫茶店運営の仕事をしていたころに遡ります。
アメリカン開業に際し、当時OLをしていたミドリさんに「夜だけ手伝って」と声をかけたのが始まり。以来、アメリカンとマスターとミドリさんは運命共同体です。
「バブル崩壊後10年は、ミドリと2人きりで店をやってたよ。売上なんていまの3分の1!店の支払いとあいつの人件費でいっぱいいっぱいだったな」
おそらく、たくさんのお給料を渡すことはできていなかったでしょう。でもミドリさんはずっとアメリカンで働き続けてくださった。
マスターひとりでは心が折れてしまうことでも、ミドリさんがいたから「お母さんが生きているうちは店を続ける」という自分との約束を守ることができたんだな……なんて思っていると、胸にこみ上げてくるものがあります。
「ミドリが辞めるって言ったら、アメリカンは終わり。いつもそう思ってる。俺の片腕どころじゃないよ。ミドリがいなかったら、とっくに店は潰れてる」
2019年1月、アメリカンが突然の休業
マスターはこうして、お母さん、奥さん、ミドリさんに支えられ、「アメリカン」を一代で35年以上続く人気店に成長させたのです。
「よく35年も続いたと思うよ!病気したら続けられないからな。腰痛はあるけど」
体調不良の思い出を強いて語るならば、開業したばかりのころ、(たぶん銭湯で)痔ろうになって手術したときくらいだそう。健康が資本だとよく言いますが、それを体現されているのがすごい。だからお店に入ると元気が湧いてくるのかしら。
そんな「アメリカン」が2019年1月、初めて1週間ものあいだ臨時休業をしました。
佐賀のお母さんが逝去されたのです。
あのとき借りた2,000万円は結局返しきれなかった、とマスターは語ります。
「でも35年以上店を続けられたことと、人気が出てテレビや新聞やインターネットでたくさん紹介されるようになったことは、お母ちゃんへの恩返しになったんじゃないかと思ってる」
お母さんが生きている限りは、店を続ける。
そう決意してやってきた35年の時間を振り返ってみれば、順風満帆だったのはお店が人気になってからの僅かな時間。働き盛りの時期には、お店の営業がふるわず、周囲と比べては辛い思いをしていたのではないでしょうか。
「辛かったけど、不幸だった感覚はないな!」
カラッとした笑顔でマスターはそうおっしゃるのです。
「金がなくても、みんながいれば楽しいとか、あるだろ?安い酒でも、しょうもない肴でもおいしいんだよ」
サボりながら、遊びながらの喫茶店経営だったけれど、いまやすっかり仕事人間。佐賀の友人や若いころにつるんでいた仲間たちからは、「どうせまだ遊んでいるんだろ?」なんていじられることもあるそうですが、実際のところは仕事で大忙し。
「いまがいちばん元気だよ。ギャンブルもタバコもやめてしばらく経つけれど、毎日充実してる。すっかり仕事人間だね」
平日は毎朝5時にはお店で仕込みをスタート。それだけでは時間が足りないから、日曜日も10時間くらい仕込みに励むのです。お休みは土曜日だけ!それもこれも、すべては「おいしいサンドイッチ」のために。
「明日もお客さんがたくさん来てくれる、と思うと楽しみになる!やる気がでる!あと5年はやりたいね」
2019年5月、「アメリカン」は創業36周年を迎えます。
「伝説のサンドイッチのお店」として
毎月訪問し続けている「アメリカン」ですが、私は大人気店としての姿しか知りませんでした。不遇の時代の長さに驚くとともに、お店を続けたマスターの一途な気持ちに圧倒されました。
でもそれが実現できたのは、お母さまの支援と、マスターを理解して支えてくれた奥様とミドリさんの存在あってこそ。
思うに、マスターには「なんだか目が離せない雰囲気」があるのです。私も一度訪問してサンドイッチのおいしさに魅了されて以来、回数を重ねるたびにお店の魅力、すなわちマスターから発せられる「何か」に引き込まれていたのです。
訪問時は、サンドイッチと同じくらい、「マスターの手書きポスター」を楽しみにしています。
巨大サンドイッチ誕生の理由が「ヤケクソ」というのも、マスターらしいお話です。だけど見た目のインパクトなんて、きっかけに過ぎません。単に「デカイ」だけなら、こんな長きに渡って注目されることはなかったでしょう。
私はこれからも毎月訪問し、「あと5年はやりたい」というマスターを応援し続けます(無理はしないでね!)。これからブログでアメリカンへの訪問日記を書く際は、「おいしい、伝説のサンドイッチ店」として紹介していきます!
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