大谷翔平はベーブ・ルースになれるか。メジャー史に見る二刀流の苦難
メジャーリーグ機構と日本野球機構、そしてメジャーリーグ選手会による新ポスティングシステム交渉が合意に達し、いよいよ日本ハム・大谷翔平選手のメジャー挑戦が本格的に動き始めました。
メジャー挑戦を表明した大谷翔平はどこのチームを選ぶのか
はたして、大谷投手はどのメジャーチームのユニフォームを着るのか――。今オフはその話題で持ちきりですが、それと同じく注目されているのは、「大谷選手はメジャーでも二刀流を貫くことができるのか?」という点です。過去の歴史を振り返ってみると、ピッチャーとしてもバッターとしても能力に秀でた選手が幾人もメジャーの世界に飛び込んできました。
1973年にはカレッジ・ワールドシリーズ(大学野球選手権)に出場。ピッチャーとして登板した初戦では14奪三振の完封勝利を記録し、さらに準決勝でも15奪三振という快投を演じました。そして、打ってはシリーズ4試合で打率.467・1本塁打。投打にわたってすばらしい成績を残しています。
その結果、「ドラフト史上最高の二刀流プレーヤー」と話題になったウィンフィールドは1973年、ドラフト1巡目全体4位でサンディエゴ・パドレスから指名を受けました。ただし、その指名は投手ではなく外野手としてのものでした。ちなみに、ウィンフィールドの能力を高く評価したのはメジャーリーグだけではありません。同年に行なわれたNBAのドラフトではアトランタ・ホークスから、さらにはNFLのドラフトでもミネソタ・バイキングスから指名され、3つのプロスポーツでドラフト指名されるという離れ業を成し遂げたのです。
最終的にパドレスと契約したウィンフィールドは、ドラフト指名からわずか2週間後にマイナーリーグを経験せずにメジャーデビュー。ずば抜けた野球センスで早々にレギュラーの座を奪取し、オールスターに12回選出されるなどメジャーを代表するスラッガーとなりました。1995年まで現役を続け、メジャー22年間で通算465本塁打、3110安打を記録。見事に殿堂入りを果たしています。
そしてもうひとり、往年のプレーヤーで挙げるならば、2001年にイチロー選手がシアトル・マリナーズへ入団したときのチームメイト、ジョン・オルルドでしょう。
オルルドもワシントン州立大学時代から「二刀流プレーヤー」として注目を集めた逸材でした。ピッチャー兼一塁手として活躍し、1988年の大学2年時にはアメリカ大学野球史上初めて「1シーズン15勝・20本塁打」をマーク。1987年〜1988年と2年続けてNCAA年間最優秀選手に選出されるなど、大学球界で確固たる地位を築いたのです。
翌1989年、オルルドはドラフト3巡目全体79位でトロント・ブルージェイズから一塁手として指名されました。指名順位が低かった理由は、その年のはじめに脳腫瘍の手術を受けたオルルドの将来が不安視されたためです。
しかし、オルルドはそんな周囲の不安を一掃する活躍を見せました。同年9月、マイナーを経験しないままメジャーデビューを果たし、5年目の1993年には首位打者を獲得。さらにはゴールドグラブ賞に3度輝くなど、攻守にわたって才能の高さを知らしめたのです。
一方、現役選手のなかでアマチュア時代に二刀流プレーヤーとして活躍していたのは、アトランタ・ブレーブスのニック・マーケイキスとニューヨーク・ヤンキースのアーロン・ヒックスが有名でしょう。
マーケイキスは2001年、シンシナティ・レッズからピッチャーとしてドラフト35巡目全体1056位で指名されました。しかし、そのときは入団を拒否し、カレッジでピッチャー兼外野手として活躍します。そして2003年、ボルチモア・オリオールズから外野手としてドラフト1巡目全体7位でプロ入りしました。
マイナー時代の2004年にはギリシャ代表としてアテネ五輪に出場し、中畑清監督率いる日本代表とも予選リーグで対戦しています。マーケイキスは5番・DHでスタメンに名を連ね、さらに9回にはピッチャーとしてマウンドにも上がりました。時速94マイル(約152キロ)の速球を武器に、城島健司選手(当時ダイエー)や中村紀洋選手(当時近鉄)など日本代表の主軸を相手に無失点に抑えています。
その後、2006年にメジャーデビューを果たし、これまで2度のゴールドグラブ賞を受賞。シュアなバッティングが売りで、今年8月には通算2000安打を達成し、現在も攻守にわたって活躍しています。
そしてもうひとりのアーロン・ヒックスも、ピッチャー兼外野手の二刀流でした。カルフォルニアの高校時代には最速97マイル(約156キロ)をマークし、剛腕ピッチャーとして名を轟かせていたのです。
その才能にほれ込んだオークランド・アスレチックスは2008年、ヒックスをピッチャーとしてドラフト1巡目で指名したいと申し出たそうです。しかし、ヒックス本人はバッターとしての挑戦を希望し、その年のドラフト1巡目全体14位でミネソタ・ツインズから指名を受けました。その後、2013年にメジャー昇格を果たし、2015年のオフにヤンキースへ移籍しています。
2016年4月、レフトを守っていたヒックスのバックホームの球速が105.5マイル(約170キロ)を記録して大きな話題となりました。その強肩ぶりはメジャー屈指で、スイッチヒッターとしての器用さもあるので、あらためてヒックスの野球センスの高さを感じさせます。
しかし、ここまで紹介してきた4人の経歴を見てお気づきのように、プロ入り前に超人的な能力を発揮して二刀流を実践していた選手たちも、メジャーの舞台にあってはマウンドに上がることができていません。
かつてのメジャーリーグは、ウィンフィールドほど投打に才能の優れた存在であろうとも、プロに入ったときには必ずどちらか1本にポジションを絞るのが当たり前でした。なぜならば、過去に成功した例がほとんどないからです。この100年間で成功を収めたのは、「野球の神様」ベーブ・ルースのみ。アマチュア時代に投打で活躍しても、プロの舞台で二刀流を成功させた選手は皆無に近いのです。
1914年、ボストン・レッドソックスのベーブ・ルースはピッチャー兼外野手としてメジャーデビューを果たしました。ピッチャーとして1915年に18勝をマークし、1916年には23勝12敗・防御率1.75で最優秀防御率のタイトルを獲得しています。一方、バッティングでは1918年に初のホームラン王に輝くと、その後はマウンドに上がる回数を減らし、1920年にヤンキース移籍後はバッターに専念。最終的に首位打者1回、本塁打王12回、打点王6回という偉大な記録を残しました。
では今後、メジャーの世界で二刀流プレーヤーが誕生することはないのでしょうか――。そんな折、今年のドラフトではふたりの二刀流プレーヤーが指名されました。
まずひとりは、シンシナティ・レッズからドラフト1巡目全体2位で指名されたハンター・グリーン。高校時代に最速102マイル(約164キロ)の剛速球を投げて話題となった18歳です。高校3年間の通算防御率1.62、バッターとしては打率.324をマーク。投打ともに優れた才能を併せ持っており、レッズにはピッチャー兼ショートとして入団しました。
グリーンは今年8月にルーキーリーグでデビューし、ピッチャーとして3試合に先発。合計4イニング3分の1を投げて7失点という成績でした。一方、投げない日は指名打者として7試合に出場して打率.233。二刀流として挑んだ1年目は平凡な結果に終わりました。シーズンを終えたグリーンは、「来年以降はピッチャーに専念する」とコメント。プロの世界でこのまま二刀流を続けるのは難しいと判断したのかもしれません。
そしてもうひとりは、タンパベイ・レイズからドラフト1巡目全体4位で指名されたブレンダン・マッケイ。ルイビル大学時代にピッチャー兼一塁手として活躍した21歳です。
マッケイは大学1年から3年まで、3年連続でジョン・オルルド賞を受賞。ジョン・オルルド賞というのは全米大学野球界の「最優秀二刀流プレーヤー」に贈られる賞で、大学3年のときはゴールデンスパイク賞(大学球界MVP)も受賞しています。カレッジフットボールでいえばハイズマン賞のようなものなので、つまりマッケイは大学球界ナンバー1という鳴り物入りでプロ入りしたのです。
その後、マイナーのシングルAでデビューしたマッケイは、ピッチャーとして6試合に先発して1勝0敗・防御率1.80をマーク。バッティングでは36試合に出場し、打率.232・4本塁打・22打点という成績を残しました。マッケイは来シーズンも二刀流に挑戦する予定です。
他にも今年、サンディエゴ・パドレスのクリスチャン・ベタンコートというパナマ出身の26歳がピッチャー兼キャッチャーとして開幕メジャー入りを果たしました。しかしその後、ベタンコートはピッチャーに専念すると宣言。メジャーの世界で投打ともに結果を残していくのは、かなりの至難の業なのでしょう。
今は大谷選手の登場により、メジャーでも二刀流というスタイルに寛容になっているように見えますが、結果を出せないと、それをずっと貫くのは難しいかもしれません。しかしながら、メジャーという最高峰での挑戦であるからこそ、これだけアメリカでも大きな話題となっているのです。大谷選手がどのチームを選び、どんなプレーを見せてくれるのか。来シーズンは全米中が彼の一挙手一投足に注目することになると思います。
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