*10歳から自宅の愛知から大阪の関西将棋会館へ。同行する裕子は同会館のベンチで聡太の帰りを待つ。「聡太が階段を下りてくるときが一番緊張します。表情を見れば勝ったか負けたかわかります。聡太の表情を見る瞬間まで“どっちかな”なんて考えてしまって」。岡村智明=撮影

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将棋界の歴史を塗り替えた、14歳棋士・藤井聡太四段。2年前の『プレジデントFamily』(2015夏号)では、中学1年生だった藤井さんに密着取材していました。今回、特別に当時の記事を再掲載します。性格は、ずば抜けた負けず嫌い。入門当初は、師匠に勝とうと考え込みすぎて、体調を崩したこともあったそうです。そんな藤井さんが「天才」となった道のりとは――。

*記事内の年齢、段位などは2015年取材当時のもの(文中敬称略)。

■朝4時半、自宅のある愛知から母と大阪へ通った

対局の日、藤井聡太と母・裕子は、朝4時半に起床し大阪に向かう。緊張と集中からか、行きの電車ではほとんど会話がない。

「奨励会に入ってから、月に2度、愛知県から大阪の関西将棋会館に聡太の付き添いで行っています」

奨励会とは、将棋のプロ養成機関で、10歳から25歳までが所属する。6級からスタートし、勝率などによって昇段、四段になれば正式なプロだ。所属するのは、県トップレベル以上の実力者たち。現在、東京・大阪の合わせて150人が所属しているが、プロになれるのは1年間でわずか4人。聡太はここに10歳から通っている。

「関西将棋会館には何度も同行していますが、3階より上には入ることができません。アマチュアの将棋大会では、近くで聡太の顔を見ていられたのですが、今は見送りだけですね」

裕子は階段を上っていく聡太を見送り、2階のベンチで帰りを待つ。

5階は江戸城で将軍の面前で将棋を指した空間を模した畳敷きになっており、永世名人の揮毫(きごう)が飾られている。

▼「○○を昇段させたくないから、僕とやらせてくれ」

対局前の午前9時、奨励会員たちは将棋盤を並べ、駒を磨く。高校生くらいの年齢の若者たちに囲まれ、12歳の聡太はかなり目立つ存在だ。

盤を並べ終わると、奨励会幹事の藤原直哉七段より昇段発表がある。

藤井聡太初段が二段に昇段しました。おめでとう」

拍手が起こるが、力は全くこもっていない。全員が下を向き、嫌そうな表情を隠そうともせず「パ……チ、パ……チ、パ……チ」と手を合わせる。

「実力だけがものをいう場ですから、みんな最年少二段の藤井君を意識しています。ここは見た目は子供でも、中身はプロと同じ勝負の世界です。対局の組み合わせを決める私のところに“誰々を昇段させたくないから、僕とやらせてくれ”という直談判もあるくらい。負けてトイレで泣いている子がいるのは日常風景です」(藤原七段)

■二段に昇段して1局目の対局は118手で敗北

先手と後手を決める振り駒が終わると、場が緊張感に包まれる。誰も身じろぎもせず、無言で将棋盤を見つめている。

「始めてください」

藤原七段が合図をすると、対局室の少年少女たちが一斉に「お願いします」と挨拶をし、対局を始める。「パチ……パチ……」、広い対局室に将棋の駒音だけが鳴り響く。

聡太も前傾姿勢になり、対局前の少年の表情とは別人のような顔つきになる。口は真一文字に結ばれ、力のこもった鋭い目つきで盤を見下ろす。相手は5歳年上だ。

対局は聡太が先手。相手は勢いに乗っている聡太を意識してか、神経質そうに扇を閉じたり、開いたりを繰り返す。聡太は上目づかいで、時折相手の顔をじっと見つめる。

両者とも初手から慣れたしなやかな手つきで、駒を盤面に打ち下ろしていった。聡太の手が5手目で止まり、しばらくそのままになった。

「相手がどんな戦法を使ってくるか、じっくり考えたかった」

聡太は長考の理由をそう語った。この日の第1局は、互いに矢倉戦法というプロでもよく指される戦い方に駒を組んだ。1手出遅れた聡太が、先に陣を攻められ、昇段して1局目の対局は、惜しくも118手で敗北。負けた後は、言葉少なに盤面に駒を並べ直し、互いに良かった手、悪かった手を批評する。聡太は曇った表情で自分の手を振り返り、何度も首をかしげていた。一方、相手は安堵(あんど)の表情を浮かべている。

▼「(聡太は)理由もなくリビングの梁に向かってジャンプしています」(母)

午後の対局では、本人が「苦手でどう指していいか難しい」と語る三間飛車を指しこなし勝利を収めた。

帰りの電車に乗ると、聡太の表情がほころび、母や記者たちと雑談をするようになった。対局中の険しい表情を忘れさせる穏やかな顔つきである。

「昔から数字を覚えるのが好きで、自宅から大阪までの鉄道ダイヤも覚えてしまいました。この駅からだと、あと13分で乗り換えです」

聡太の口調は一見、非常に大人びている。しかし、裕子から見るとまだまだ子供のようだ。

「構ってほしいのか、家事をしているとそばに寄ってきて、話しかけてほしそうにしている(笑)。最近は背が伸びてきたのが嬉しいのか、理由もなくリビングの梁(はり)に向かってジャンプしたりしています」

■「6連敗したときは無言で新幹線で泣いていました」(母)

家での生活は、もっぱら将棋中心。宿題は学校ですべて終わらせていたので、親は最近まで学校で宿題が出ていることすら知らなかったそうだ。

聡太が将棋に初めて触れたのは、5歳の頃。祖母が入門用の「スタディ将棋」(くもん出版)を持ってきたのが始まりだった。いとこ全員の中で、聡太だけが興味を示したという。

「どんどん強くなっていって最初は戸惑いました。プロ制度の仕組みなんて何も知らなかったですし……」(裕子)

小学1年の終わり頃にはアマチュア初段、大学の将棋部で代表に入れるレベルの実力になっていたという。

「子供大会だけでなく、一般の大会にも出ていたので、年齢がいくつも上の子や大人と対局することになります。聡太は相手の年齢に関係なく、負けるのが悔しかったようで、泣いて対局場の椅子から動かなかったこともありました。負けず嫌いは昔から変わっていないですね。奨励会で6連敗をし降級となったときには、無言で新幹線で泣いていました」

▼師匠に勝とうと考え込みすぎて体調を崩した

師匠の杉本昌隆七段も、聡太の勝負への執着はずぬけているという。

「入門したての頃、私に勝とうと考え込みすぎて体調を崩したことがありましたよ」

実は今回の取材前に、取材を延期してほしい旨の連絡があった。

「聡太が“取材までに二段に上がりたい”と宣言して、取材を先送りにさせていただいたんです」

自信に満ちた発言をしたり、自らの功績を語ったりすることがない彼の、将棋への執念を感じた。

■幼稚園児の聡太「しょうぎのめいじんになりたいです」

彼は現在、最年少プロ(14歳7カ月)にすら手が届く位置にいる。しかし、裕子の心中は少し複雑だ。

「聡太が勝負師になっていくのが、さみしく感じるときがあります。以前は、対局の結果を私から聞いていたのですが、プロに近づくにつれ、聞きづらくなってしまいました。子供向けの大会で泣いていた頃であれば、かける言葉もありましたが、今はかける言葉が見つからないです」

今年の春から、聡太は中学に進学し、奨励会には一人で行く。

「2人分の新幹線代がかかるともったいないじゃん」

はにかみながらそう話す聡太の顔は、親と距離を取りたい年頃の少年のものだった。

三段になると東京にも行かねばならない。プロに近づくにつれて、親子の距離も少しずつ離れていく。

「応援するしかないですよね。彼には前しか見えてないですから」

聡太が幼稚園のときに書いた“しょうぎのめいじんになりたいです”という画用紙を見て、裕子はつぶやいた。

(タカ 大丸 撮影=岡村智明)