マツダの第6世代商品群。2012年CX-5以降、2015年デビューのロードスターまでを総称してこう呼んでいる。2017年に発売した2代目をマツダは6.5世代と呼ぶ。

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フォード傘下を離れ、短期間に8車種を開発する必要に迫られたマツダ。もの造り改革の結果が、2012年のCX-5以降の製品群だ。この改革を支えたのが「コモンアーキテクチャー」である。商品の特性を揃えて一括企画し、工場の同じラインに複数の車種を流す。どうやってこんな“離れ業”を生み出したのか? キーマンの一人、マツダ・藤原清志専務に聞いた。

→ マツダ「目標を追わず理想をめざす」理由:藤原清志専務インタビュー(前編)http://president.jp/articles/-/22346

マツダの社員はみな同じことを言う

――私は取材していて、マツダの人がみな同じ事を言うのに驚いています。これが例えば「顧客第一主義」みたいな標語なら同じ事を言っても不思議はないんですけど、藤原専務がさっきおっしゃった「よそと関係なく、掲げた理想に向かって開発するだけです」みたいな意味のことを、それぞれが自分の言葉や表現で言うんですよね。失礼ながら最初は変な宗教みたいでちょっと気持ち悪かったのですが(笑)、本来会社にとって、自分たちがそれぞれの持ち場で何をやるべきなのかを社員全員が分かっているのは大きな強みだと考えると、これはちょっとマツダ恐るべしと思っています。もうちょっとさかのぼって良いですか? 国内販売網を5チャネル化して失敗するより前はどうだったんでしょうか。

【藤原】(5チャネル化は)1980年代後半からですね。その頃われわれの世代は、言われたことをやるだけで精一杯。仕事が山のようにあって、新入社員が図面を描いて、承認を受けて、出す。だけどそれがどのクルマに使われるのかもわからない。仕事に追われまくりの状態で、自分がどんな仕事をしているのか全然わからない。現場にいた人間は「もう二度とあんなことはやりたくない」と言います。そんな時代でしたね。

――「穴を掘れ、そして埋めろ」みたいな、意味を確認できない仕事……。

【藤原】そうです。その前はゆったりしていました。“赤いファミリア”が出た時代は為替も良かった時代なので、統制もされず、もうちょっと後にファミリアのフルタイム四駆をやったり、RX-7のサスペンションで前例のない事を試したり、自由でしたね。

――つまり、課題そのものが存在していなかったわけですね。

【藤原】そうです、そうです。

――まとめると、1980年代頃まではあまり目標とかそういう意識なしに自由に仕事をしている時代があり、80年代後半5チャンネル化推進中は拡大戦略を採った結果自分たちが何をしているかわからないくらいの多忙時代があり、90年代前半にそれが破綻して会社全体がお葬式状態になった時代があり、そして96年にフォード傘下に入ってからは、フォードの方針に沿って言われた通りに数値目標を達成するしかない時代があったということで良いですか?

【藤原】その通りです。コモンアーキテクチャーに向かっていくきっかけになったのは、やはりフォード時代ですね。仕事が上から言われた数値目標の達成でしかない。クルマを作っている気がしませんでした。われわれ小さい会社としての生命維持装置というか、本能みたいなものが「これは何かおかしい」と警鐘を鳴らしている感じがずっとありました。私自身も「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」とずっと思っていました。われわれの持っているものがずーっと出せない。もっと性能的に尖らせたいと思っても「ここはコンペティティブで良い」と言われる。コンペティティブで良いっていうのは、他社と一緒で良いってことです。エンジニアにとってそんなことを言われるのは、仕事をするなと言われているようなものですよ。「良いものを作りたい」、「競合車に負けたくない」と思うのがエンジニアです。それをグッと押し込められて動くなと言われている気分でしたね。

■「ブランドとは何か」を教えてくれたのはフォードだった

――なるほど。ただ私の聞く限り、マツダのエンジニアの人たちは、フォードにとても感謝している部分もありますよね?

【藤原】そうです。これはマツダだけじゃなく、フォード傘下から外れた会社(注:ジャガー、ボルボ、ランドローバーなど)全部なんですが、フォードがブランドの方向付けをしてくれた。われわれもそうですが、みんなそこで何がブランドの原点かを確認して、それを大事にしています。

――それはフォードが「マツダはこういう方向で行け」と言ったということですか?

【藤原】いいえ。彼らは、それをわれわれに考えさせてくれました。押しつけるのではなくて。そこをやったのは、フォードから来たマーティン・リーチです。われわれにヒアリングしてくれて「マツダの魅力を、ロードスターで感じた世代、赤いファミリアで感じた世代、RX-7で感じた世代、ロータリーで感じた世代。それぞれ違うけれど、みんなに共通している根っこがあるなぁ」と。そういう、マツダが元々持っていたものを(マーティン・リーチが)ピックアップしてくれて、当時マツダの社長だったマーク・フィールズが「よしそれで行こう」となった。それは割と一直線に決まったと聞いています。私自身が現場にいたわけじゃないですけど。だから私は彼らのことは大好きで、マツダの恩人だと思っています。

――そうして「Zoom-Zoom」ができた。それがフォード時代の光の部分ですね。そしてリーマンショックでフォードが撤退する。そこからコモンアーキテクチャーで行こうとスムーズに決まったんですか?

【藤原】いや、それは簡単には決まってないです。最初にスコープ(車種展開)を決めたんです。デミオからCX-9までの8車種を作ろうと。われわれは変な会社で、(販売台数の割合が)日本25%、アメリカ25%、ヨーロッパ25%、その他25%。今は中国が入ったので全部が5分の1ずつになりましたが、いずれにしても「ここ」という強いマーケットがないんです。全部大事。それを全てカバーしようとすると、デミオからCX-9までどうしても作らなくてはならない。世界の販売店とこれからずっと一緒に仕事をしていこうと思ったら、必要なクルマは8車種ある。さあどうやって作ろうかと。その当時フォードから出向してきた経営企画責任者がまだ残っていて、当然「プラットフォーム流用でやればいい」というんですよ。「モンデオをベースにアテンザを作り、フォーカスをベースにアクセラを作り……とやれば良いじゃないか?」って。「いやいや、そんなことするからおかしくなるんだと。われわれは縦に共通化したいんだ。そうしないと5万台、10万台、15万台のバラバラのクルマを作ることになる。そんなに生産効率の悪いビジネスはない」。そう言うと「いや、デミオからCX-9まで同じ部品を使って作ろうとしたら大変なことになるだろう?」と言うわけですよ。「そうじゃない、同じ部品は使わないんだ。同じ製造ラインで作れるように、同じ特性でそろえることが大事。だから固定と変動なんだ」と言ったんです。その辺からだんだんとコモンアーキテクチャーのコンセプトが出来上がっていったんです。

■コモンアーキテクチャーの原点は80年代のマツダの工場にあった

――横(共通部品)ではなくて縦(特性、製造しやすさ)で統一する。どこからそんな発想が出てきたんですか?

【藤原】それは昔(編注:80年代)のマツダの工場にあったんですよ。ファミリア、カペラ、ルーチェを作っていた時代に、三面回転式の治具台座を使って、今で言う混流生産が行われていたんです。

――驚きました。世の中ではフォルクスワーゲンのMQBプラットフォーム(注:2012年発表)がコモンアーキテクチャーの原点だと言われているのですが、そうではないんですね。

【藤原】あれはわれわれからするとコモンアーキテクチャーじゃなくてコモンプラットフォームです。縦の共通化じゃなくて、横のバリエーション展開を増やすためのアーキテクチャーです。

――つまりマツダでは、大量生産が主流の時代にライン一本をフル稼働させられない苦肉の策として、縦のラインアップを全部混流生産で作る技術が生まれたということなんですね。

【藤原】ひとつのクルマがたくさん売れないという悲しい性が生んだ技術です(笑)。3車種を流せるラインを作る時に、縦の全モデルの中で「固定する部分と変動する部分」を決めるという発想ができたんです。

――それは驚愕の事実です。スクープといっていいのでは。

【藤原】車体側が回転式の治具台座を使って(混流生産をして)いた時に、どうやったらエンジンでも同じ事ができるんだと、エンジンの生産技術者が一生懸命考えていたんですね。20年ぐらいかかってエンジンもそれができるようになりました。で、車体とエンジンの両方を混流生産できるようになって、コモンアーキテクチャーにつながっていくんです。当時それを学会で発表したら、「何ですかそれは?」と誰もまともに受け取ってくれませんでした。

――コモンアーキテクチャーは、生産側が作った技術だったんですか……、ちょっと驚きます。

【藤原】そうです。普通はコモンアーキテクチャーみたいなことを開発がやろうとすると生産に怒られるんですが、ウチは逆なんです。「なんで開発はそんなことやってるの? いちいち専用にしないで汎用でやればいいのに」と。だから、コモンアーキテクチャーを発明したのは工場の人たちです。彼らはすでに混流生産でやっているのに、「開発側は毎回毎回違うプラットフォームを持って来て、失敗するとまた新しいものを持ってくる。あいつら何も懲りてない」と(開発が)怒られていました。まあ、一貫性がないから信用されていなかったということです。それを開発側が生産側に寄って行った。お客さまのために機能を上げたいと真剣に考えるなら、生産と一緒に考えないとダメだということになった。コモンアーキテクチャーの実現に向けて大きいのは、開発が反省したことですね。

■生き残るにはコモンアーキテクチャーを成功させるしかなかった

――開発と生産とで、目的を統一し、コミュニケーションも増えたということですね。しかし、そうは言っても成功体験ができるまでは簡単に共有できないというか、方向の統一はできないですよね。大変失礼ながら、成功体験ができたのは最近じゃないですか。それまではどうやっていたんですか。

【藤原】それはもうそれしかなかったからです。2012年にフルSKYACTIVのCX-5が発表される前は、2008年のリーマンショックがあって2011年の東日本大震災があって、とにかくずーっと赤字の垂れ流しで、もう死ぬって言う状況でした。取りあえず耐えろ、CX-5まで耐えろ。生き残る選択肢はこれを成功させるしかないんだから。みんなで一生懸命やったじゃないか、コモンアーキテクチャーで。このあとこれが成功すればアテンザが出て、アクセラが出て、コモンアーキテクチャーの成果がバーッと出るはずだと。

――これでダメなら討ち死にだってことですね?

【藤原】そうそう(笑)。ですからCX-5が出て(2012-2013 日本)カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した時、私はホントにホッとしました。

――それからアテンザ、アクセラが無事に売れて、デミオでまた(2014-2015 日本)カー・オブ・ザ・イヤーを取りましたね。

【藤原】そうです。それでロードスターでまた受賞(注:2015-2016 日本カー・オブ・ザ・イヤー、2016 ワールド・カー・オブ・ザ・イヤー)。これで私も卒業だと(笑)。

――ただ、その分これから高い期待に応えていかなくちゃならないですよね?

【藤原】期待されすぎて倒れそうですよ。

――マツダはこれからも変な会社であり続けないといけない。それも大変ですよね。変な会社であり続けることは、ものすごく難しいんじゃないですか?

【藤原】難しいです。30代後半から40歳くらいのエンジニアを集めて大事に育て、次のリーダーを作っていかなくてはなりません。そういう世代のグループを意図的に集めてチームを作らせています。

――楽しそうですね。

【藤原】楽しいです。

――その前には散々地獄の時代があったわけですからね。

【藤原】私がいる時代には二度と地獄は見たくないです。

――何かその後なら良いみたいじゃないですか?

【藤原】あはは! その後は知りませんよ。

→ マツダ「目標を追わず理想をめざす」理由:藤原清志専務インタビュー(前編)http://president.jp/articles/-/22346

(池田 直渡)