サッカーのリフティングやドリブルなどの技術を、魅せるパフォーマンスに昇華させたフリースタイルフットボール。その業界でサッカーのワールドカップのように、世界最高峰の大会と位置付けられているのが「Red Bull Street Style」である。

2008年には横田陽介(Yosuke)が準優勝し、2012年には徳田耕太郎(Tokura)が世界一に輝くなど、同大会で日本人は4年間で2度ファイナルの舞台に立ったことから、国内でもフリースタイルフットボールの注目度は上昇傾向にある。そしてTokuraが世界を制した4年後、再び世界の舞台で爪痕を残した若きフリースタイラーがいた。

 

2016年にイギリス・ロンドンで行われたRed Bull Street Styleで準優勝し、世界2位を記録したKo-sukeこと高橋幸佑。近年は国内タイトルを数多く獲得し、2015年にはアジア大会で日本人初優勝を果たした24歳だ。

現在、日本で一番勢いのあるフリースタイラーといっても過言ではないKo-sukeだが、普段は東京工業大学の大学院生として、勉学にも励んでいる。そんな2つの顔を持つ彼が世界2位に輝いた要因はどこにあるのか。フリースタイルフットボールの初期時代を歩んできたKo-sukeのルーツと、世界大会前の心境を探りながら検証していくとともに、世界を舞台に戦う上での“真の目的”に迫った。

 

サッカー王国・静岡でフリースタイルフットボールと出会うまで

フリースタイルフットボールは、サッカーのリフティングを活用したスポーツであり、そのプレーヤーはサッカー経験者が大きな割合を占めている。サッカー王国・静岡で生まれたKo-sukeも同様に、中学時代まではサッカーの道を歩んでいた。

 

「小学校の休み時間でいくつか男子の過ごし方があって、スポーツはサッカー組とドッジボール組に分かれていました。その時から僕はサッカー組に入っていて、中学生になってからも周りの仲の良い人たちと一緒にサッカー部に入ったんです」

 

部活動を始めた中学1年生の終わり頃には、既にリフティングを数百回、できるようになっていたという。そうして部活動に熱中していたKo-sukeがフリースタイルフットボールと出会ったのも、サッカーを本格的に始めた中学時代だった。

 

「リフティングを上手くなるためにいろいろと調べていたら、インターネットで外人が技をやっている動画や、フリースタイルフットボールのバイブルと出会ったんです。それから練習を始めて、中学校のクラスの卒業会で初めて人前で披露しました」

 

その後は地元・浜松市の高校に進学し、勉強の合間にフリースタイルフットボールを継続していたが、SNSを通じて「浜松で練習しているなら、良かったら一緒に練習しない?」と声が掛かり、他のフリースタイラーと接点を持つこととなる。しかし、当時はフリースタイルフットボールが日本で普及されて間もない“初期時代”だったこともあり、フリースタイラーとの接点は限られていたという。

 

「周りに3〜4人くらいしかフリースタイラーがいなかったので、動画を見ながらソロで練習することが多かったです。中学の時は目標もなく、テレビゲームよりはマシでしょ、くらいの感覚で楽しんでいて(笑)。 高校からは一緒に練習する人が増えて、競う相手ができたので幅が広がりましたね」

 

静岡のフリースタイラーと共に練習を重ねているうちに、静岡県を拠点に活動するチームへと誘われる。そして加入後は本格的にパフォーマンス活動を行うようになった。

公の場でパフォーマンスをする機会ができたことで、「それまでは自分の趣味でやっていたことが、周りの人に対してもアプローチできるようになって、社会に活用する意義が出たことは大きかった」と、自身のモチベーションに大きな影響を与えたことを語っている。

 

だが、フリースタイラーとして大会やパフォーマンスで活躍する場が増えたとはいえ「勉強を捨てる意識は全くなかった」と述べる通り、勉学との両立には抜け目がなかった。

 

「もともと勉強で負けるのが嫌いだったんです。知性で負けた時の劣等感がすごくて、人間で負けたみたいな気分になることもあって。頭の良い人はやっぱりかっこいいから憧れられるじゃないですか。高校受験の時も負けたくないという思いで勉強していたんですが、いざ受験したら全然問題が解けなくて悔しい思いをしましたね」

 

高校受験で痛感した悔しさから、中学卒業を前に予備校の「高校の部」へ通い始めた。そして、大学受験では進学先に東京工業大学を選ぶこととなるが、その背景には両親から受けた恩恵があるという。

 

「元から少し英語と数学ができたんですが、両親がそれぞれ英語と数学が得意で、そういう遺伝的な気質があるんじゃないかと思っていて。だから、自分も勉強を頑張れば子供に影響するかもしれないし、将来子供が楽になるんじゃないかなと」

 

現在は東京工業大学大学院の物理電子システム創造専攻に所属し、科学分野の研究を行いつつ、フリースタイルフットボールの技術も磨いてる。

 

 

「勝ちたい」と強く思えた背景にある、憧れた背中の存在

東京工業大学に進学後も、高校時代までの延長上で「趣味」としてフリースタイルフットボールを続けていたが、大学2年生の時に転機が訪れる。

2012年に行われた全国大会に出場し、激戦の末にベスト8へと名を連ねたのだ。しかし、自身が残した結果以上に感化されたのは、憧れた先輩たちの背中だった。

 

「その大会に当時尊敬していた先輩が出ていて、すごくかましたのに負けてしまって、会場の裏で泣いていたんです。その時に人が負けたのを見て自分も悔しくなって、その先輩くらい本気で戦いたいなって思いましたね。そこから練習時間も増えていって、来年の大会で勝ちにいくことを目標にやっていました」

 

2012年には、Ko-sukeより1世代上のTokuraが、日本人初となる世界一に輝いた。その姿を見て「上手くいけば世界で戦えるかもしれない」と感じたことも、バトルで勝つことへのモチベーションに繋がっていたようだ。

練習を積み重ね、1年後に再び迎えた全国大会では、前年のベスト8を超えるベスト4という結果を残した。そうして着々と階段を昇っていったKo-sukeだったが、主要なビッグタイトルを手にしたのは、意外にも日本ではなくアジアの舞台が先だった。

2015年、大学院1年生の時に出場したアジア大会で、世界で活躍するアジアの難敵を下し、日本人初のアジア制覇を果たしたのだ。

そしてアジア王者として迎えた2016年の日本大会で、遂に日本一の座を掴むこととなる。歴代の日本王者を下し、見事に世界大会の切符を手にしたが、日本を制することは「世界でベスト8になるより難しい」と語る。

 

「日本人が世界で勝つ時は、オリジナリティやクリエイティビティが評価されて勝つことが多いですけど、日本大会ではみんながそれを前提として持っているから難しいんです。日本で勝つなら飛び抜けて上手いか、上手さとオリジナリティ、クリエイティビティの全てが噛み合わないと勝てないので。総合力が試されるし、運次第といっても過言ではないです」

 

日本人のオリジナリティやクリエイティビティは世界でも高く評価されており、『日本のフリースタイルフットボールが世界一』と評する世界のフリースタイラーは数多い。

 

【▷次ページ】世界大会での敗因と、勝敗以上の目的。そして次なる目標とは?

 

世界大会での敗因と、勝敗以上の目的。そして次なる目標とは?

「半端な上手さでは勝てない」という日本フリースタイルフットボール界の頂点に立ち、世界最高峰の大会・Red Bull Street Styleへの出場が決まったKo-suke。大会までの6カ月間は今まで以上に練習時間を増やしたが、その中でも他のストリートスポーツのジャンルから刺激を受けることが多かったという。

 

「勝つ方法としては圧倒的なフレッシュさを求めていて、その中でダンスやフリースタイルバスケットボールなどの動画は見ていましたね。ダンスをしていたフリースタイラーとも練習をして、どういう観点で技や雰囲気を作っているのか、一緒に練習することで受けるインスピレーションは大きかったです」

 

数々のオリジナルムーブを有し、目新しさを武器に臨んだ世界大会。グループリーグでは本場・ヨーロッパの強豪を次々と下し、3戦全勝で難なく予選を突破した。その後は決勝トーナメントでも快進撃が続き、日本人3人目となる決勝進出を果たす。

 

決勝戦で待ち受けていたのは、世界トップレベルのスキルを持つフリースタイラーだった。フリースタイルフットボールの大会は主に1人30秒ずつの3ターン形式で行われるが、Ko-sukeは日本人の弱みを(※)スキルと分析している。

※3回転以上の跨ぎ技やアクロバティックな技など、日本人に比べて欧州や南米のフリースタイラーは、身体能力を生かした技能が高い傾向にある。

 

スキルに丈けたフリースタイラーは30秒間でミスが多くとも、一つの大技でインパクトを与えることができるのが強みだ。Ko-sukeはスキルへの対策として「目新しいオリジナルの技を、30秒間の流れに凝縮することで、一つの大技以上のものを作ること」を挙げていた。

しかし「それを実現することができなかった」と述べているように、最終的には惜しくもファイナルの舞台で敗れ、世界準優勝に終わった。その敗因の裏側には、世界大会までの6カ月間に及ぶ準備期間での「計画性」にミスがあったようだ。

 

「バトルで必要そうなスキルをたくさん作ってみたけど、実際にバトルを組んでみると要らないものが多かったと思っていて。たくさん技を作るよりも、本当に必要なもののクオリティを上げることに時間を割いていれば、結果は変わったかもしれないですね。1つの新しい技を見せるよりも、1つの淀みを消すことに価値があると感じました」

 

今までの集大成となる世界大会へ「自分が見せられるものを全て持って行きたかった」というKo-sukeだが、結果的には準備期間の最終段階で、準備してきたものを削る決断に至った。しかし「それに気づくのが遅かったので、計画性が甘かった」。

 

とはいえ、世界2位という爪痕を残したことで「当時は悔しさがあったけど、今となっては達成感がある」と充実ぶりを話している。その理由には、世界で結果を残すことによって周囲に影響を与える“インフルエンサー”としての役割があった。

 

「世界大会はもともと勝つことが目標ではなくて、自分のフリースタイルフットボールを一番大きな舞台で見せることで、周囲に影響を与えたかったんです。自分を見て、誰かが新しく何かを感じて、可能性が広がってくれれば良いなと。影響を与える手段として勝つことがあって、結果的に勝てなかったことは悔しいですけど、少なからず周囲に与える影響はあったのかなと思っています」

 

帰国後はメディアへの露出も数多くあり、既存のフリースタイラーだけでなく、フリースタイルフットボールの普及自体にも貢献したといえるだろう。

次なる目標として日本での全国大会を2連覇し、再び世界への挑戦も期待されるKo-sukeだが、あくまでも勝つことに比重は置いていない模様だ。

 

「当然優勝はしたいですけど、勝敗というのはその人自身のフリースタイルフットボールの本質には関係がなくて、一番大事なのは自分が何を見せるか。だからこそ、自分が良いと思うものを常に高めていくことが今の目標です」

 

貫いたスタイルの先に何が見えるのか。競技人口も認知度も向上し、発展途上にあるフリースタイルフットボール界に、どのような影響を与えていくのか。Ko-sukeが持つインフルエンサーとしての役割が、フリースタイルフットボール界の成長を支える一端を担っていく。