霞ヶ関官僚が読む本 「私」なるものを正面から意識、明らかに「心」が軽くなる
『脳はなぜ「心」を作ったのか 「私」の謎を解く受動意識仮説』(前野隆司著、ちくま文庫)
『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』(前野隆司著、講談社)
ロボットは「心」を持てるのか。工学博士である筆者の答えは「Yes」。要はプログラミングの問題で、悲しんだり、怒ったり、喜んだり。こういう心の中の質感(クオリア)さえロボットは持ちうるという。そして、先ずは単純なロボットのあかちゃん脳を作成し、その後、様々な学習を通じて成長させるという具体的な方策まで示している。
ロボットは「心」を持てる 天動説から地動説への転換
「心」とは何か。筆者の説明はこうだ。昆虫に「心」はない。餌があれば食べ、棒で突つかれると逃げる。これらはすべて反射行動で、あらかじめ食べたいと「意識」したり、怖いと感じているわけではない。そして、人間の行動も基本は昆虫と同じで、すべてが反射行動。単一の「心」なるものが、意識して行動を起こす(神経系統に命令を下す)のではなく、脳内に無数にある神経系統の一つ一つのモジュール(本書では「小人」と喩えている)が外部からの知覚刺激を受けて反応し、その反応の多数決で最終的な行動パターンが決定されるという。ただし、人はその行動をあとから「こうしたい」と「意識」する仕組みがある点で昆虫とは異なるというのが論理の核心だ。
すなわち、人が指を動かす場合、「指を動かそう」と意識してから指を動かすのではなく、脳内の小人たちからの指令で指を動かし始めたあとで、人は「指を動かそう」と意識するというのである。後から意識しているのに、人が行動の前に意識しているように感じるのは、時間的な「錯覚」と説明する。そして、この理論(受動意識仮説)の正しさをいくつかの神経生理学者の実験結果などを紹介しながら説明している。筆者は、この仮説を心の天動説から地動説への転換と位置づけている。
情緒的質感を感じるのは「幻想」
こうした時間的な錯覚に基づき創造された「私」が、何となく寂しいとか、ワクワクする喜びなどの情緒的な質感(クオリア)を感じるのは、生存に有利となるよう、「エピソード記憶」にメリハリをつけて記憶するため進化の過程で人間が獲得した「幻想」に過ぎないと分析している。
すべての行動を予めトップダウンで集中管理する「私」というものは存在しない。だから、筆者はロボットだってプログラムに基づく反射的な行動をあとから「事前に意識した」と記憶するプログラミングをすれば「私」なるものが生まれると考えているようだ。そして、そもそも実体がない情緒的な質感についても、将来的にはプログラミングは可能になると予想し、ロボットも「心」を持てるようになると説明している。
だからこそ、今を大切に生きよう
心の中に「私」がいて、「私」が意識を持ち、喜怒哀楽を感じる。「私」を私と感じる「私」とは何か。「死」とは何か。こうした人間の根幹に関わる問いかけに、筆者が唱える受動意識仮説の立場から思考実験を繰り返す。そして最後に、仏教の「悟りの境地」と対比しつつ、「「私」というのは所詮幻想に過ぎないのだから「死ぬのが怖い」と思う必要はない。死よりも奇跡の生に目を向けよう。やりたいことからやればいい。生きたいように生きればいい。深くリラックスして、今だけに集中して生きればいい」と締めくくる。
筆者の論理について、はじめは荒唐無稽な仮説と感じるかもしれない。しかし、慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科で教授を務める前野隆司氏の2冊の本をお読みになると、みなさんも「Yesかも知れない」と感じるのではないか。
科学的分析から「心の哲学」に
ロボット工学、脳科学という科学的な分析から始まり、仏教におけるブッダの哲学や「悟りの境地」という「心の哲学」に到る、総合的な学問の集積の書。そして、読みやすい、分かりやすいというのも2冊共通の特徴。
2冊の本を読む順序としては、脳内神経ネットワークを科学的に解説した『脳はなぜ「心」を作ったのか』を読まれたあと、その仮説を前提に「死」を超越し「今をいきいきと生きる」ための思考方法を紹介した『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』を読まれることをお勧めする。
私は、この2冊の本に接し、人生で初めて「私」なるものを正面から意識したような気がするし、明らかに「心」が軽くなった。その感じが、筆者の指摘する幻想であろうと、なかろうと。
総務省(課長級)From Paris