南海グリーンの青少年時代|広尾晃さんインタビューvol.1
いまや日記の域を遥かに超え、専門機関顔負けの“メディア”として存在するブログも珍しくはなくなりました。こと野球界でいえば、その筆頭に挙げられるのが、ライター・広尾晃さんが更新を続ける「野球の記録で話したい」でしょう。
昨年、Baseball Journalにご参加を頂いた同ブログは、その圧倒的な情報量で、ポータルサイト・livedoorのブログ奨学金受給対象ブログにも選ばれました。データに基づいた選手や試合の考察、歯に衣着せぬ物言いで綴られるオピニオン、1日3本にも及ぶ更新が、自ずと野球ファンを引き寄せていきます。
また、一度でもブログを見て頂ければ、誰もが思う筈でしょう。広尾さんは「いつ、どこで、どうやって、ブログを更新しているのか?」と。他の追随を許さないアウトプットのスピードもさることながら、話を伺えば、「野球以外にももう一つブログを立ち上げたい」「野球のネタに困ったことは一度もない」「お寺も好きで記事のストックは1万7千ほどある」などなど驚くべき言葉が幾つも飛び出しました。
スポーツ(野球)業界、そしてネット(ブログ)業界必見、広尾さんにインタビューを行いました。
――「野球の記録で話したい」を拝見して、まず驚かされるのが、ブロガーとしてのアウトプットの量とスピードです。
私、いま52歳ですけど、19歳くらいから文章を書いています。30年以上になります。大学を出て、上方落語協会っていう団体で、落語家さんのマネージャの仕事を2年やったんですね。その頃に雑誌に記事を書いていました。
当時は執筆のスピードは速くなかったですけどね。それからコピーライターの養成講座に行って、コピーライターになったんです。その後、流通関係のメーカーで販促の仕事をやって、色々あってIT関係の会社に所属しつつフリーのライターをやっています。
企業の広告宣伝用に書くライターです。雑誌に書くこともありますが、会社案内や社内報、アニュアルレポートなんかも書きました。
「キタ新地のママさんの開店のご挨拶」とか「学校の校歌」とか、某大企業の御曹司がテレビ局に入社するための「作文」なんかも書きましたよ。
――ずっと執筆に関するお仕事には携わってこられたわけですね。
そうですね。10年くらい前からインタビューをする仕事が増えました。インタビューの仕事は、音という三次元の情報を頭の中で整理して、二次元に落とし込んでアウトプットするわけです。頭の中で翻訳するようなものですが、これをしつこくやると書くスピードがメチャクチャ速くなるんですよ。
インタビューは一回勝負ですから、あまり聞き漏らさなくなる。ポイントを外さなくなりますね。だから、今でも議事録をとる役っていうのは、買ってでもやりますね。それをやると頭の中の整理が速くなるので。
しかも、インタビューは、質問をしないといけないでしょ。質問が途切れると、相手のトーンが下がるんですよ。
質問をしながらメモをとりながら次の質問を考える。これを同時にやる。インタビュアーといわれる人はみんなやっていることだと思いますが。
――広尾さんのアウトプット能力が養われた理由は分かりましたが、これと野球のデータ構築はまた違う能力ですよね?
野球の表を作ったりするのは小学校からやってました。ノートに試合の記録を付けていたんです。まだ長嶋茂雄が現役の68年からですね。68年というのは空前のドラフト大豊作の年で、田淵幸一、星野仙一、山本浩二、福本豊、山田久志、有藤通世、藤原満。
有藤さんと藤原さんは近所の近畿大学の野球部の寮にいて、近くでうちのおばあさんがやっていた駄菓子屋でパンや牛乳をよく買いにきてた。近大の寮にも遊びに行ってたので、知ってたんです。その2人がプロに入る。にわかにプロ野球が身近になったんですね。その頃から野球の記録を付けるようになった。『週刊ベースボール』を買い出したのもその頃です。
野球もちょっとやってましたけど、プレーのほうは何の自慢もできません。その頃から南海ファンで、88年にダイエーになって福岡行くまでの間はずっと熱狂的なファンでした。
大阪球場にはよく行ってましたね。浪人していた時期に、予備校が大阪球場の隣にあって、そのビルの最上階から試合が見えるんですよ。当時は二軍の試合も含めてしつこく行ってましたね。
私は明星高校っていう結構野球の強い高校に行ってましたので、甲子園の予選もほぼ皆勤賞でした。
――南海の本を読むと、大阪球場は今で言う歌舞伎町の中に球場があるようなもんだって書いてありました。
そうですね。高島屋から奥に入って、面積が狭いから、球場はすり鉢状になってるんですけど、中に入るとぱっと視野が広がる。最高でしたね。社会人になってから3〜4年は大阪球場に通ってました。みんなが残業をしているのを尻目に18時に会社を出て、タクシーに乗って18時15分に難波に着いて、18時20分に始まる試合に滑り込みで間に合って、ビール飲みながら観るっていうのが至福の時でしたね。
よく見かけたのが、調理師の白衣姿の板前さんが高足駄という高下駄を履いて、恐らく自分で巻いた細巻きの巻き寿司をかじりながらビールを飲んでる。あれは粋でカッコよかったね。
桂春団治師匠が南海ファンで、お弟子さんが応援団にいました。上方落語協会にいた関係で顔見知りでしたから、私も一緒になって鐘や太鼓を叩いたりしました。応援団っていっても、何十人しかいない。
――ベンチの上にいる応援団ですよね?
あれは寂しい人の集まりでね、一般社会で相手にされない人もいた。スタンドの上のほうで勝手にサインを出してるおっさんとかいて(笑)それがたまに当たったりするんですよ。送りバントのサインで失敗したりすると「俺の言うこときくなー」って怒りだしたりする(笑)。あの頃、パ・リーグの一番大きな音響は罵声でしたね。
――ホークスも強くはないチームでした。
野村克也が放出されてからは本当にバラバラ。南海自身もお金を使う気が全くないから、球場のサービスも悪かったけど、選手の待遇も悪かったみたいですね。門田博光さんは近鉄電車で球場に通ってましたよね。僕もよく会いました。ただし、門田さんは500円払って特急乗っていましたが。リー・メイとか、ボビー・トーランなどの外国人選手まで地下鉄で来てました。
――電車通勤ですか?しかも他球団(近鉄)の(笑)
そう。南海にいた頃の野村克也だけは、南海カラーのグリーンのリンカーン・コンチネンタルに乗っていて、あれが球場前の駐車場にあると、あ、来てるなってわかる。野村は運転しないから、奥さんが運転しているんですけど。サッチーの前の奥さんね。それを横目で見ながら球場入るのも楽しかったですね。
野村がいなくなってからは本当に楽しみがなくなりました。
野村克也は、素振りの音が凄い。ぶんって音がする。物凄くバットスピードが速いんですよ。
で、やる気なさそうに構える。また足が遅くてね。足は動いてるんだけど、前に進んでない感じで。特にオールスターなんか出てくると、王や長嶋に比べても、風采が悪い、颯爽とはしていませんでしたね。
<この項、続く>
昨年、Baseball Journalにご参加を頂いた同ブログは、その圧倒的な情報量で、ポータルサイト・livedoorのブログ奨学金受給対象ブログにも選ばれました。データに基づいた選手や試合の考察、歯に衣着せぬ物言いで綴られるオピニオン、1日3本にも及ぶ更新が、自ずと野球ファンを引き寄せていきます。
スポーツ(野球)業界、そしてネット(ブログ)業界必見、広尾さんにインタビューを行いました。
――「野球の記録で話したい」を拝見して、まず驚かされるのが、ブロガーとしてのアウトプットの量とスピードです。
私、いま52歳ですけど、19歳くらいから文章を書いています。30年以上になります。大学を出て、上方落語協会っていう団体で、落語家さんのマネージャの仕事を2年やったんですね。その頃に雑誌に記事を書いていました。
当時は執筆のスピードは速くなかったですけどね。それからコピーライターの養成講座に行って、コピーライターになったんです。その後、流通関係のメーカーで販促の仕事をやって、色々あってIT関係の会社に所属しつつフリーのライターをやっています。
企業の広告宣伝用に書くライターです。雑誌に書くこともありますが、会社案内や社内報、アニュアルレポートなんかも書きました。
「キタ新地のママさんの開店のご挨拶」とか「学校の校歌」とか、某大企業の御曹司がテレビ局に入社するための「作文」なんかも書きましたよ。
――ずっと執筆に関するお仕事には携わってこられたわけですね。
そうですね。10年くらい前からインタビューをする仕事が増えました。インタビューの仕事は、音という三次元の情報を頭の中で整理して、二次元に落とし込んでアウトプットするわけです。頭の中で翻訳するようなものですが、これをしつこくやると書くスピードがメチャクチャ速くなるんですよ。
インタビューは一回勝負ですから、あまり聞き漏らさなくなる。ポイントを外さなくなりますね。だから、今でも議事録をとる役っていうのは、買ってでもやりますね。それをやると頭の中の整理が速くなるので。
しかも、インタビューは、質問をしないといけないでしょ。質問が途切れると、相手のトーンが下がるんですよ。
質問をしながらメモをとりながら次の質問を考える。これを同時にやる。インタビュアーといわれる人はみんなやっていることだと思いますが。
――広尾さんのアウトプット能力が養われた理由は分かりましたが、これと野球のデータ構築はまた違う能力ですよね?
野球の表を作ったりするのは小学校からやってました。ノートに試合の記録を付けていたんです。まだ長嶋茂雄が現役の68年からですね。68年というのは空前のドラフト大豊作の年で、田淵幸一、星野仙一、山本浩二、福本豊、山田久志、有藤通世、藤原満。
有藤さんと藤原さんは近所の近畿大学の野球部の寮にいて、近くでうちのおばあさんがやっていた駄菓子屋でパンや牛乳をよく買いにきてた。近大の寮にも遊びに行ってたので、知ってたんです。その2人がプロに入る。にわかにプロ野球が身近になったんですね。その頃から野球の記録を付けるようになった。『週刊ベースボール』を買い出したのもその頃です。
野球もちょっとやってましたけど、プレーのほうは何の自慢もできません。その頃から南海ファンで、88年にダイエーになって福岡行くまでの間はずっと熱狂的なファンでした。
大阪球場にはよく行ってましたね。浪人していた時期に、予備校が大阪球場の隣にあって、そのビルの最上階から試合が見えるんですよ。当時は二軍の試合も含めてしつこく行ってましたね。
私は明星高校っていう結構野球の強い高校に行ってましたので、甲子園の予選もほぼ皆勤賞でした。
――南海の本を読むと、大阪球場は今で言う歌舞伎町の中に球場があるようなもんだって書いてありました。
そうですね。高島屋から奥に入って、面積が狭いから、球場はすり鉢状になってるんですけど、中に入るとぱっと視野が広がる。最高でしたね。社会人になってから3〜4年は大阪球場に通ってました。みんなが残業をしているのを尻目に18時に会社を出て、タクシーに乗って18時15分に難波に着いて、18時20分に始まる試合に滑り込みで間に合って、ビール飲みながら観るっていうのが至福の時でしたね。
よく見かけたのが、調理師の白衣姿の板前さんが高足駄という高下駄を履いて、恐らく自分で巻いた細巻きの巻き寿司をかじりながらビールを飲んでる。あれは粋でカッコよかったね。
桂春団治師匠が南海ファンで、お弟子さんが応援団にいました。上方落語協会にいた関係で顔見知りでしたから、私も一緒になって鐘や太鼓を叩いたりしました。応援団っていっても、何十人しかいない。
――ベンチの上にいる応援団ですよね?
あれは寂しい人の集まりでね、一般社会で相手にされない人もいた。スタンドの上のほうで勝手にサインを出してるおっさんとかいて(笑)それがたまに当たったりするんですよ。送りバントのサインで失敗したりすると「俺の言うこときくなー」って怒りだしたりする(笑)。あの頃、パ・リーグの一番大きな音響は罵声でしたね。
――ホークスも強くはないチームでした。
野村克也が放出されてからは本当にバラバラ。南海自身もお金を使う気が全くないから、球場のサービスも悪かったけど、選手の待遇も悪かったみたいですね。門田博光さんは近鉄電車で球場に通ってましたよね。僕もよく会いました。ただし、門田さんは500円払って特急乗っていましたが。リー・メイとか、ボビー・トーランなどの外国人選手まで地下鉄で来てました。
――電車通勤ですか?しかも他球団(近鉄)の(笑)
そう。南海にいた頃の野村克也だけは、南海カラーのグリーンのリンカーン・コンチネンタルに乗っていて、あれが球場前の駐車場にあると、あ、来てるなってわかる。野村は運転しないから、奥さんが運転しているんですけど。サッチーの前の奥さんね。それを横目で見ながら球場入るのも楽しかったですね。
野村がいなくなってからは本当に楽しみがなくなりました。
野村克也は、素振りの音が凄い。ぶんって音がする。物凄くバットスピードが速いんですよ。
で、やる気なさそうに構える。また足が遅くてね。足は動いてるんだけど、前に進んでない感じで。特にオールスターなんか出てくると、王や長嶋に比べても、風采が悪い、颯爽とはしていませんでしたね。
<この項、続く>