世界2位の快挙から20年……
今だから語る「黄金世代」の実態
第1回:小野伸二(3)

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 1999年ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会。U-20日本代表は、歴史的な快進撃を披露して決勝進出を果たした。

 1999年4月24日、ワールドユース決勝のスペイン戦。累積警告による出場停止となった小野伸二は、ベンチでひとりだけ白いユニフォームを着て、ピッチで戦う仲間たちへ声援を送っていた。

 開始5分、日本はGK南雄太がオーバーステップによる反則を取られてゴール前で間接FKを与えてしまい、早々に先制ゴールを許した。以降、スペインが完全にボールを保持。シャビを中心としたパス回しに、日本はまったくついていけなかった。おそらく、スペインの支配率は70%を超えていたことだろう。

 結局、日本は手も足も出ず、0-4という大敗を喫した。

 小野は茫然と試合を見ていた。

「スペイン戦に関しては、日本の選手が力を出し切れていなかった、というのが間違いなくありました。初めての決勝の舞台、しかも相手がスペインということで、少し浮き足立っていた。

 ただ、それを差し引いても、スペインはうまかったし、強かった。それまで戦ってきたチームとは違って、選手全員が堂々とプレーしていた。(ピッチ上で)戦った選手はそれを強く感じただろうし、いい経験になったと思うけど、僕は『優勝したかった』という気持ちが強かった。

 やっぱり優勝しないと……。負けたら意味がないですし、このチームだったら優勝できるだろうって思っていたので、本当に残念でした」

 チームの中には、準優勝で満足している選手もいたし、小野と同様、頂点に立てなかったことに悔しさを露わにする選手もいた。


日本の若き精鋭たちがワールドユース準優勝という快挙を遂げた。photo by Yanagawa Go

 しかし、当時の日本は前年に初めてワールドカップ(フランス大会)に出場したばかり。サッカーの世界ではまだ”ひな鳥”みたいな国だった。U-20というカテゴリーではありながら、そんな国の代表チームがFIFA主催の国際大会で準優勝に輝いたのである。それは、世界に大きな衝撃を与えた。

「準優勝できたのは、運がよかったのもある。強豪のアルゼンチンやブラジルが勝ち上がってきませんでしたからね。とくに(優勝するためには準決勝で)ブラジルが勝ち上がってこなければいいな、と思っていたら、本当にそうなった。

 あの大会では、自分が考えていることがそのまま現実になることが多くて、そのつど『これはイケるな』と思っていました。

 あと、みんなが試合で自分の特徴を出して、力を出し切っていた。大会のベスト11には僕とモト(本山雅志)が選出されましたけど、日本の選手全員が選ばれてもおかしくないくらい、みんないいプレーをしたと思う」

 それでも、スペインに圧倒的な差を見せつけられたのは確かだ。それから、小野の気持ちにも大きな変化が生じた。負けず嫌いの本能が喚起されたのだ。

「スペイン戦を終えて、もっとうまくなりたいと思ったし、世界にはまだまだうまい選手がたくさんいるなってことがわかった。それに、ただ楽しいだけじゃなく、もっともっと戦わないといけない、ということも感じた。

 じゃあ、それを日本で……というと難しい。海外への意識がそこで生まれたし、(1年後の)シドニー五輪でまた世界と戦いたい、と思っていた。そこに向けては、実際にいい感じでやれていたと思います。あのケガをするまでは……」

 小野が言う「あのケガ」というのは、ワールドユースから数カ月後に始まったシドニー五輪アジア1次予選で起こったことだ。最後のフィリピン戦(1999年7月4日)で、悪意に満ちたタックルを食らって、左膝靭帯断裂という重傷を負った。人生初の大ケガは、小野のサッカーに暗い影を落とした。

「あのケガで、僕はすべてを失った。シドニー五輪もそうだし、足の感覚だけじゃなく、サッカーのイメージ全体が消えてしまった。

 あそこから、自分が持っているイメージ、練習でも試合の時のようにやれていた感覚がなくなって、『あれ、なんでだろう?』と迷いながらプレーするようになってしまった。

 その時、自分は『それまでの選手だったんだなぁ』と思いましたね。それほど、あのケガは僕のサッカー人生にとって、大きなターニングポイントになりました」

 天才肌と言われた小野のサッカーの源は、高い技術であり、豊潤なイメージとアイデアだった。それが、映像として浮かばなくなったということは、まさに死活問題だ。あのケガ以降、小野はずっと苦しみながらプレーをすることになる。

「ケガをする前と後では、違う感覚を抱えてサッカーをやっていました。でも、そのシーズンに(当時所属していた)浦和レッズがJ2に落ちてしまい、翌2000年のシーズンではキャプテンを任されて、1年でチームをJ1に上げないといけない、というプレッシャーのなかで戦うことになった。

 あれで、精神的にかなり強くなりましたね。その時、『過去の自分にいつまでもこだわっても仕方がない』『また新しい自分を作るしかない』と切り替えることができたんです。そう意識が変わったから、オランダにも移籍できた」

 小野はその後、2001年にオランダのフェイエノールトに移籍。UEFAカップ(現UEFAヨーロッパリーグ)で優勝するなど、輝かしい成績を残した。

 しかしそれ以降も、小野はケガに苦しめられた。あのときの大ケガが、小野の体にさまざまな歪みを生み出して、安定していいプレーを続けることを妨げる原因となっていたのだ。


自らのサッカー人生を一変させた「ケガ」について振り返る小野

 今年、小野は40歳を迎えるが、北海道コンサドーレ札幌でプレーを続けている。

 ワールドユースでともに戦った仲間はすでに多くの選手が引退し、昨シーズン限りで小笠原満男も現役から退いた。「黄金世代」の現役プレーヤーは年々少なくなってきている。

「あのナイジェリアから20年が経過して、まだサッカーを楽しみながらやれているので、ほんと幸せな環境にいるなって思います。同世代もまだプレーしている選手が多くいるし、ヤット(遠藤保仁)は常にスタメンで出ている。そういうのを見るとうらやましいし、すごく刺激になりますね」

 そう言って、小野は優しい笑みを浮かべた。

 ガンバ大阪の遠藤以外にも、稲本潤一(SC相模原)、南(横浜FC)、本山(ギラヴァンツ北九州)、永井雄一郎(FIFTY CLUB)らは、まだ現役でプレーしている。彼らがプレーで注目を浴び、話題に挙がるたびに「『黄金世代』はすごい」とニュースになる。サッカーファンをはじめ、サッカーをあまり知らない人でも、小野や稲本の名前は知っており、「黄金世代」という呼称は世間一般に広く定着している。

「黄金世代」と称されることについて、小野はどう思っているのだろうか。

「あまり気にしたことはないですね。『黄金世代』って呼ばれても、『あ〜、そうなんだ』って感じ。でも、嫌な感じはしない。僕らが出てきて、日本サッカー界に何かしらの貢献ができているのなら、僕らが出てきた意味があるのかなと思う」

 小野は乾いた口調でそう言った。その中心にいる選手にとって、「黄金世代」という呼称に特別な思いを抱くことはないのだろう。

 しかし「黄金世代」は小野を筆頭に、ワールドユース以降、2000年シドニー五輪の主力となり、2002年日韓共催W杯、2006年ドイツW杯でも多くの選手がメンバーに名を連ねていた。日本サッカー界において、一大勢力となり、大きな風を吹かせた。

 小野にとって、「黄金世代」とはどういう存在だったのだろうか。

「いい刺激をもらった仲間ですね。僕はいつも、同世代を意識していました。同じチームにいる時も、離れている時も、ライバル意識を抱いていた。

 タカ(高原直泰)をはじめ、イナ(稲本)、ヤット、(小笠原)満男、モト、(中田)浩二らと、昔から戦ってきた選手がいるなかで、僕はこの世代の中では誰にも絶対に負けたくない。僕はこの世代の中でトップになりたいと思ってやってきた。 

 みんな、貪欲だし、サッカーを楽しむという気持ちが強い。そんな仲間が僕を成長させてくれたんです」

 20年の時が経過した今も、それは変わらずに続いている。

 所属の札幌では、ひと学年上の河合竜二が今年1月に現役引退を発表、稲本がSC相模原に移籍したことで、小野がクラブ最年長の選手になった。

 それでも、技術はまったく錆びついていないし、イメージやアイデアは誰よりも豊富だ。ピッチに立てば、その存在感はグッと増すばかりである。

「もっとサッカーを楽しみたい。若い世代には、技術とかイメージでは負ける気がしないんで。僕らの世代が少しでも長く、日本サッカーを盛り上げていきたいと思います」

 おそらく、小野の技術はこれからも長く、他人に負けることがないだろうし、サッカー人としての魅力や完成度は、今後さらに増していくだろう。

 そんな小野には、ひとつの夢がある。

「ナイジェリアのワールドユースで戦ったメンバーで試合をやりたいんです。まだ、みんな動けるじゃないですか。チャリティーとか何でもいいので、あのときの仲間と一緒にサッカーをやりたいですね」

 小野は嬉々とした表情でそう言った。

「黄金世代」の同窓会――。

 それは20年前の、ワールドユース・ナイジェリア大会のときと同じように、最高に楽しいサッカーになるに違いない。

(おわり)

小野伸二
おの・しんじ/1979年9月27日生まれ。静岡県出身。北海道コンサドーレ札幌所属のMF。日本サッカー界屈指の「天才」プレーヤー。1995年U-17世界選手権、1999年ワールドユース、2004年アテネ五輪に出場。W杯出場は3回(1998年、2002年、2006年)。清水市商高→浦和レッズ→フェイエノールト(オランダ)→浦和→ボーフム(ドイツ)→清水エスパルス→ウエスタン・シドニー・ワンダラーズ(オーストラリア)