日本が被った「空襲」といえば、太平洋戦争中に実施された米国の苛烈な航空爆撃が連想されますが、本土を初めて空襲したのは、実は米国ではありません。2018年は、その「本土初空襲」から80年にあたります。

80年前、戦っていた相手といえば…?

 今年2018年5月20日(日)、日本本土初空襲が行われてから80年になります。


マーチン(現ロッキード・マーチン)が開発したB-10爆撃機。中華民国のほか、オランダやアルゼンチンなど各国へ輸出された(画像:アメリカ空軍)。

 私たち日本人が「戦争」をイメージする場合、多くの人はまず「空襲」を思い浮かべることでしょう。しかし、この80年前の本土初空襲の事実はほとんど知られていないようです。80年前の1938(昭和13)年というと1939(昭和14)年の第二次世界大戦や1941(昭和16)年の太平洋戦争勃発前です。いったい誰が太平洋戦争前の日本を空襲したのでしょうか。

 意外に思われるかもしれませんがその正体は中国(中華民国)空軍のB-10双発爆撃機2機でした。徐 煥升大尉を隊長とするB-10および12人の飛行士たちは5月19日深夜に浙江省寧波を離陸、ラジオ局の電波を利用した航法で夜間飛行し、熊本、佐賀、佐世保、福岡など九州北部のいくつかの都市に対して未明の空襲を実行。そして2機とも翌朝には無事帰還に成功しています。

 この空襲による日本側の被害は皆無でした。なぜならば2機のB-10が本土の都市部に投下したものは爆弾ではなく、100万枚にも及ぶ日本軍を非難したチラシと照明弾であったからです。しかし、中国側にとってはそれで十分でした。この作戦の発案に自ら携わった中国国民政府の蒋介石にとっては、首都南京を占領され、また徐州会戦に敗北した報復のためにも「日本本土を空襲した」という既成事実だけが必要だったためです。

マーチンB-10はこんな爆撃機

 B-10はアメリカのマーチン社において開発された「全金属製」「単葉翼」「引き込み脚」「爆弾倉」「閉鎖式コックピット」といった近代的航空機に必要な特徴を備えた革新的な爆撃機であり、最大速度340km/hは帝国陸海軍の主力戦闘機にほぼ匹敵する驚異的な高性能機でした。一方、最大航続距離約2000kmは非武装でようやく日本本土を往復できる程度であったため、中国空軍は爆弾を搭載する能力を削ったうえで燃料タンクを増設しました。


爆弾を投下するアメリカ空軍のB-10爆撃機(画像:アメリカ空軍)。

 仮に爆弾を搭載していたとしても、夜間に適切な照準を行うための装置も持っていなかったので、市街地の灯火を頼りに爆弾を投下したとして、クレーターをいくつか作るのがせいぜいだったでしょう。

 前年1937(昭和12)年には日本側が本土から発進させた帝国海軍の三菱九六式陸上攻撃機によって中国を爆撃していますが、中国空軍にとってその逆を行うことは非常に困難であり、実際問題としてチラシを投下するのが限界だったともいえます。

 いずれにせよ、チラシの威力は爆弾の破壊力よりもはるかに巨大でした。蒋介石はこの作戦を「人道爆撃(轟炸)」と称しました。つまりチラシしか撒けなかったという事実を逆手に取り「日本軍が中国人を殺しても、我々は日本の民間人を殺さない」というプロパガンダに見事転換してみせたのです。そして「人道爆撃」は国内外に大きく宣伝され結果として中国軍、民の士気は大きく高まり、また国際世論においても同情を誘うことに成功します。

「人道爆撃」成功の、その後

 この「人道爆撃」は少数の中国空軍が桁違いに強大な航空戦力を持つ大日本帝国陸海軍に対して完全な勝利を得た伝説の戦いとなりました。作戦を指揮した徐 煥升大尉はのち台湾空軍大将、台湾空軍最高司令官にも就任しており、いまもなお台湾空軍にとっては特別な歴史であり続けています。面白いことに、まったく無関係であるはずの中国本土側の人民解放軍空軍においても、自分たちの輝かしい勝利と見なしているようです。


1938年から1939年にかけ生産された、B-10爆撃機の輸出モデル(画像:アメリカ空軍)。

 一方、日本側は「人道爆撃」に対してまったく有効な防空手段を講じることができず、やったことと言えば軍や警察によってチラシを回収しただけだったようです。ただ、政府発行の「写真週報」8月31日号では誌面の殆どすべてを「防空おぼえ帖」という特集にあてており、本土空襲は将来ありうるとし、そしてそのための備えを喚起していることからも、少なからず影響を与えたのかもしれません。


エアショーにて、零戦と飛行するB-25爆撃機。アメリカのドゥーリットル隊はこの中型爆撃機を空母から強引に飛ばし日本本土を空襲した(関 賢太郎撮影)。

「本土初空襲」という言葉で語られるとき、それはほぼすべて太平洋戦争勃発後の1942(昭和17)年4月18日にアメリカ陸軍のジミー・ドゥーリットル中佐率いるB-25双発爆撃機によって行われた作戦を指します。しかし、実際に日本本土初空襲を指揮したのはドゥーリットル中佐ではなく徐 煥升大尉だったことは、もう少し知られてもよい歴史の事実だと言えるのではないでしょうか。

【写真】B-10爆撃機のコックピットまわり


B-10のコックピットの様子。写真左側が機体正面方向(画像:アメリカ空軍)。