明治神宮野球大会最終日、37年ぶり2度目の優勝を果たし、ナインに胴上げされる日体大・古城監督。胴上げの輪には9月に亡くなった部員の写真もあった(写真:共同通信社)

11月に開催された第48回明治神宮野球大会の大学の部では、日本体育大学が37年ぶり2度目の日本一となった。初戦の九州共立大戦ではタイブレークの末、7対1(延長10回)で勝利。準決勝の東洋大戦では4対0、決勝では星槎道都(せいさどうと)大に3対0で勝利した。

2018年秋のドラフト上位候補である松本航(3年・明石商出身)と東妻勇輔(3年・智辯和歌山出身)の投手2本柱が決勝までの3試合で2人合わせて1失点と好投し、優勝の原動力になった。だが、個の能力だけで日本一になったわけではない。その背景には古城隆利監督によるチーム改革「体育会イノベーション」があった。

日体大の「体育会イノベーション」とは

「体育会イノベーション」とは、ひとことでいうと、悪しき体育会の伝統を排除する取り組みである。

「上下関係をなくすわけではありません。後輩が先輩に対して敬語を使うことは必要だし、規律は教えていかなければいけない。上級生が下級生の面倒を見る。下級生は上級生を尊敬する。そういった、いい上下関係を持ちなさいということです」と、古城監督は説明する。

昔ながらの体育会の上下関係では、4年生が威張って何もせず、下級生が部や先輩の雑用をするのが当たり前だ。1年生は入学後、大学での野球や生活という新しい環境に適応していかなければならないのに、雑用でそれどころではなくなってしまう。

そこで、日体大では2015年11月から「体育会イノベーション」を実施。これまでは1年生がやっていた寮の清掃やグラウンドでの練習の準備、道具運びといった仕事を、4年生が率先して取り組むようになった。これにより、1年生は環境に適応する余裕が生まれ、自分の土台を作ることができるようになった。上級生は責任を持って後輩を指導しながら、自分たちも成長した。「チーム力が底上げされました」と古城監督は言う。

古城監督は日体大を卒業後、いすゞ自動車野球部でプレー。同部コーチ、日体大コーチを経て、2009年に監督に就任した。


古城 輶利(こじょう・たかとし)/1969年生まれ。大分県立日田高校を経て日体大へ。現在、日本体育大学野球部監督。日体大助教(撮影:宮城風子)

就任当時には「乱れがあった」という寮生活を厳しく正すことから始め、就任3年目の2011年春には13季ぶりに首都大学1部リーグを制覇する。

ところが、2012年春には最下位に沈み、1部2部入れ替え戦で2部優勝の桜美林大に勝って2部降格を回避した。2013年春はリーグ優勝し、大学選手権で18年ぶりに4強入り。チーム成績は1年ごとに大きく上下し、勝ち続けることはできなかった。

「上級生にいい選手がいれば勝つというパターンでしたね」と古城監督は振り返る。

2015年9月。古城監督が「チームを変えなければいけない」と決意する出来事があった。東海大とのリーグ開幕戦の始球式でのことだった。日体大の控え部員が応援席から「打っちゃえよ!」という野次を飛ばしたのだ。後になってその選手を含む一部の上級生が寮の規則を守っていなかったことも発覚した。

「下級生の頃は真面目にやっていても、上級生になるとよくない行動をしてしまう。そういう部員はほんの一部ですが、まわりの部員もそれを注意できていない。このままのやり方を続けていてもダメだと思いました」(古城監督)

古城監督は勝ち続けているチームから学ぼうとした。そんななか、目にとまったのが帝京大ラグビー部だ。日体大OBであり、帝京大ラグビー部を率いて大学選手権6連覇中(当時)だった岩出雅之監督の著書『負けない作法』を読んだり、密着したドキュメンタリー番組を見たりして、同部では上級生が雑用を引き受け、1年生は自分作りに集中する環境を整えていることを知った。

方針を理解させ、納得させて、浸透させた

「これを取り入れよう」と決めた古城監督は、2015年11月、新チームが立ち上がるタイミングで「体育会イノベーション」を打ち出し、部員たちに提示した。「昔は『やれ!』の一言でよかった。今の世代は理解して、納得しないと動かない」。古城監督は資料を作り、部員たちにプレゼンテーションをした。

新4年生にとっては「雑用係」に逆戻りすることになる。新3年生にとっては解放されると思っていた雑用をあと2年間も続けなければならない。古城監督は「新しい日体大の伝統を作ろう」と説いた。

指揮官の頭のなかには「3:4:3の法則」があった。「組織のうち、上位の3割は方針を理解し、積極的にやってくれる。下位の3割は方針に背を向けようとする。中位の4割はそのどちらでもない。この中位の4割を上位の3割にもっていくことで、下位の3割も考え方が変わっていく。方針を理解して一生懸命にやる人間を増やしていこうと考えました」。

古城監督はチーム全体へのプレゼンが終わったあと、当時の主将だった山中裕介(現新日鐵住金東海REX)らを呼び、「理解する人間を増やして、方針をチームに浸透させてくれ」と話した。一部の先輩のよくない姿を見ていた部員たちは「監督についていこう」と、反発はしなかった。

とはいえ、最初からうまくいったわけではなかった。2016年春のリーグ戦中には試合会場に到着後、バスを降りた下級生が道具を運んでいた。それを見た古城監督は「言っていることと違う」と叱責した。

「浸透するまで言い続けました。改革はゆるやかに移行するよりも、一気にやった方がいい。強引にもっていきましたね。その分、浸透するまでのスピードが速かったと思います」

こうした「体育会イノベーション」の取り組みは、2016年春に6季ぶり22度目のリーグ優勝という形で芽を出した。そして、導入2年目の今秋に大学日本一という花を咲かせた。「導入1年目の4年生はよくやってくれた。それを見習って、今年の4年生が同じようにやってくれた」と古城監督は顔をほころばせた。

チームを陰で支えたグランドマネジャーの存在

今年のチームを支えた一人が、前川紀洋(4年・徳島商出身)だ。前川は選手ではない。練習のメニューの作成や運営などを担当するグランドマネジャーを務め、試合では記録係としてベンチに入った。

前川は徳島商では1年夏に甲子園に出場し、2年秋からは主将を務めた。スポーツ推薦で日体大へ入学。3年秋のリーグ戦までは外野手としてプレーし、「4年生になったら主将としてチームを引っ張ろう」と考えていた。

古城監督はそんな前川を「真面目で努力家。チームのために自分を犠牲にしてくれる」と評していた。2016年秋、新チームの結成にあたり、「前川がグランドマネジャーになって『こうしよう』と言えば、みんながついていく」と考えた。古城監督は前川に打診するために、監督室に呼んだ。

古城監督に呼ばれた前川は「主将をやれという話だろう」と思い、監督室に入った。そこでグランドマネジャーへの転身を持ちかけられ、「頭が真っ白になった」という。グランドマネジャーになるということは、選手を辞めるということでもある。気持ちの整理がつかず、その場では「少し時間をください」と答えるのがやっとだった。

その日、前川は両親に電話して相談した。こみ上げてくるものを抑えきれず、電話口で泣いた。父・太さんからは「責任ある立場を任せてくれる古城監督の思いを大切にしなさい」とアドバイスされた。

後日、新チームの方針を固めるミーティングが開かれた。そこで古城監督は「絶対に日本一になるぞ。どれだけ本気になれる人間がいるかでチームは変わる」と言った。この言葉を聞き、前川は引き受けることを決意した。「自分が野球をやりたいという気持ち以上に、古城監督をはじめコーチ陣やチームメートたちと日本一になりたいという気持ちがありました」と前川。グランドマネジャー就任のあいさつでは、「日本一になるためにこの道を選んだ。みんなでいっしょに頑張ろう」と話した。


前川紀洋グランドマネジャーは絶対に日本一になるという信念のもと、突き進んだ(撮影:宮城風子)

2017年の春頃には、寮の清掃がきちんとできていなかったり、練習中に4年生が引っ張る姿が見えなかったりしたことがあった。前川は仲間に厳しい声を掛け続けた。

前川は自分の性格を「気が弱く、人にどう思われているか気にするタイプ」だと言う。それでも「日本一になるためだ」と、嫌われ役に徹した。

春のリーグ戦は4位に終わった。4年生のレギュラー陣が結果を出せず、下級生に頼ってしまった。シーズン終了後のミーティングで、前川は「本気で勝ちたいヤツだけ集まろう。このチームで日本一になる気がないなら、辞めていい」と仲間を突き放した。選手を続けたかったのに、グランドマネジャーを引き受けてチームのために働いている。そんな前川の檄(げき)を受け、選手たちの目の色が変わった。9月には相曽幸宏さん(1年・帝京出身)が髄膜炎のため急死する不幸があったが、部員たちは悲しみを乗り越え、日本一へと歩んでいった。

11月15日、明治神宮大会決勝の星槎道都大戦。味方が3点リードで9回の守備に就いているとき、前川は3塁側のベンチでスコアブックを手に目を潤ませていた。「4年生が自分の言うことを理解してくれて、一生懸命やってくれた。感謝しないといけないな」。試合が終わると、左手で顔を覆い、肩を震わせて泣いた。その後、古城監督、主将の濱村和人(4年、長崎・海星出身)に続いて仲間たちの手で胴上げされた。

「本当に報われました。言葉にできないくらい、うれしかったです」。前川は笑顔で振り返った。

チームを良くするための「コピー&インプルーブ」

日本一になってから、約1カ月が経った。古城監督は歓喜の瞬間を思い返しながら、「実は、達成感はほとんどなかったんですよ」と明かした。
「もう少しこうした方がよかったという点もあった。何より、日本一になることだけを目標にしているわけではない。来春に向けて『勝ちに行く』というよりも、『もっといいチームにしていく』ということの方が大きいですね」


日体大野球場。神奈川県横浜市・日体大の健志台キャンパスにて(撮影:宮城風子)

帝京大ラグビー部の岩出監督をはじめ、数多くの指導者から学んできた。野球の厳しさは筒井崇護前監督から叩き込まれた。戦術面では、高校野球の名コーチとして知られる横浜高校元部長の小倉清一郎氏から教えを受けた。2012年秋に明治神宮大会で日本一になった桐蔭横浜大の齊藤博久監督を訪ね、練習を選手に任せる仕組みを作った。

いいところは真似して取り入れ、改良・改善していく。この「コピー&インプルーブ」という考え方自体も、法政大アメリカンフットボール部の安田秀一監督から教わったものだという。

「これからもやるべきことをやって、しっかりしたチームの土台を作りたい。もっともっとよくできる」と古城監督は言葉に力を込める。他の指導者から学び、改革を続ける。古城監督の姿勢はこれからも変わらない。

(文中一部敬称略)