7月上旬、スラムダンク奨学金10期生(※)の鍵冨太雅(かぎとみ・たいが)はエジプトのカイロにいた。U19日本代表の一員として「U19ワールドカップ」を戦っていたのだ。

※スラムダンク奨学制度=漫画『スラムダンク』の作家・井上雄彦氏の「バスケットボールに恩返しがしたい」との想いで設立されたプロジェクト。奨学生をプレップスクール(大学に進学するまでの私立学校)に派遣し、14ヵ月間、勉強とバスケットボールのできる環境を提供している。【スラムダンク奨学金ホームページ→http://slamdunk-sc.shueisha.co.jp/】


U19ワールドカップで鍵冨太雅は日の丸を背負ってプレーした

 今年の春以降、彼は目まぐるしい日々を送っていた。スラムダンク奨学生として渡米し、コネチカット州にあるプレップスクール「セントトーマスモア」での留学生活が始まったのが4月。一方、U19代表は4月から6月にかけて毎月1回、東京で合宿を行なっており、鍵冨もそのたびに留学先から日本に戻ってきていた。

 普通なら留学生活に慣れるのに精一杯で、日本代表の活動まで手が回らないところだろう。だが、鍵冨の場合はどちらも経験していたことがプラスとなった。

 彼にとってアメリカでの生活は2度目。小学生のときに父親の駐在に伴ってニューヨークで暮らし、地元AAUチーム(クラブチーム)でもプレーしていた。そのため、英語でのコミュニケーションができ、留学前からアメリカのバスケットボールがどういうものかもわかっていた。過去の奨学生と比べて現地の生活に慣れるのに、さほど時間はかからなかった。

 鍵冨は言う。

「(アメリカでの生活には)割とすんなり慣れました。普通の日本人がぶつかるような壁にも当たらず、けっこう大丈夫でした。日本との行き来も、ひとりでトロントの空港で乗り継いだり、シカゴ空港で乗り継いだりしなくてはいけなかったんですが、英語がわかるのでどうにかできました。アメリカに住んでいた経験がなかったり、英語がしゃべれなかったら大変だっただろうな、とは思います」

 日本代表としての活動も初めてではなかった。U19ヘッドコーチのトーステン・ロイブルとは、中学生のときにジュニアエリートアカデミーのビッグマンキャンプで教わって以来の間柄。その後、U16、U18でもロイブルコーチ率いるチームで活動している。それだけに、誰よりもコーチの考えを理解しているという自負もあった。

「中学3年のときからずっとビッグマンキャンプでトレセン(味の素ナショナルトレーニングセンター/東京)に通って、トーステンコーチから基礎技術やディフェンスのコンセプトを習ってきました。そのビッグマンキャンプのメンバーから自分だけがU19代表の最後までずっとトーステンコーチのもとで選手としてやれたということ、しかも(4月以降は)アメリカと行き来しながらここまでちゃんと来られたということは自信にもなっていますし、自分を誇りに思っています」

 U19ワールドカップでの鍵冨の出場時間は、平均8.8分と決して多くはなかった。だがそれでも、与えられた自分の役割を理解し、限られた役割のなかでチームにどう貢献できるのかを考えて実行するように努めた。

「(U16代表やU18代表のころから)選手が入れ替わるなかでも、ずっとチームにいる。だから、自分のプレータイムよりもチームが勝つことを第一に考え、ベンチから声を出したりしていました。試合に出たときも、ただガムシャラにがんばるだけではなくて、起用された場面でコート上での役割を理解し、ちゃんとチームコンセプト通りにしっかりとやるようにしていました」

 日本はグループラウンドでマリに勝利し、最低限の目標だった1勝をあげ、決勝トーナメント1回戦でイタリアと対戦。その試合は終了間際まで接戦となり、あわや大金星というところまで追いつめたが、残り2秒で相手にシュートを決められて惜敗した。

 ただ、負けたとはいえ、その後に大会準優勝を果たした世界の強豪相手に互角に戦うことができる、という手ごたえを感じた。しかも、イタリアに敗れたあとには順位決定戦で韓国とエジプトに勝ち、10位という男子日本代表にとって歴代最高成績で大会を終えている。

 鍵冨も「イタリア戦は最後で負けちゃってすごく悔しいんですけれど、自分としてもやれることはやりましたし、チームとしてもこれまでの日本代表が到達できなかったレベルまで登りつめることができたかなと思います」と、すっきりした表情で語った。

 彼がスラムダンク奨学金に応募しようと決めたのは、福岡大学附属大濠(おおほり)高校2年のときだった。ニューヨークに住んでいたときにNCAAやNBAをよく見ており、そのころから「NCAAでプレーしたい」という思いを抱いていた。実は鍵冨が大濠高校に入る直前、父親の2度目のアメリカ赴任が決まり、ともに渡米してアメリカの高校に行く選択肢もあった。

「そのまま親についてアメリカに行くかすごく迷ったんですけれど、自分が日本の強豪校でどれくらいやれるのかを試してみたかったのと、アメリカに行く前に日本一になってやろうと思って。日本の高校に行って、3年間がんばった。でも、やっぱり(NCAAに)挑戦せずにはいられないなぁと思って、高校2年のときにスラムダンク奨学金に応募しました」

 その思いが叶い、鍵冨はスラムダンク奨学金10期生に選ばれた。子どものころからの憧れ──NCAAに行くための大きなステップだ。過去の奨学生が苦労した英語の問題もない。

 しかしその一方で、アメリカに行けば一足飛びに名門校に行ける、というような夢は抱いていない。U19のチームメイトにはゴンザガ大で2年目を迎える八村塁や、この秋からウォークオン(奨学金なし)でジョージア工科大に進むシェーファー・アヴィ幸樹がいるが、彼らのような強豪校への進学は厳しいと冷静に語る。目指しているところは、意外なほど現実的だ。

「塁のゴンザガとか、アヴィのジョージアテックのようなハイメジャースクール(強豪校・名門校)は、自分には厳しいと思っています。ミッドメジャー、ローメジャーでもいいから、勉強のレベルが高く、なおかつバスケもがんばっているみたいな、たとえばアイビー(・リーグ)の学校などで勉強もがんばりつつ、バスケではローテーションに入って子どものころからの目標であるNCAAトーナメント出場を目指したいと思っています」

 今、鍵冨が直面している課題はふたつ。ひとつは、身長192cmという彼のサイズを考えると、アメリカでは日本でやっていたパワーフォワードのポジションのままでは通用しないこと。またこの先、アンダー世代ではない国際大会で世界を相手にすることも難しくなる。そのため、スモールフォワード、そしてシューティングガードへとポジションアップしていかなくてはいけない。

「大濠では4番ポジション(パワーフォワード)だったけれど、ボール運びやプレーを回すなど、ガードをサポートする役もやらせてもらいました。3.5番ぐらいのポジションですね。夏の間、アメリカでは個人ワークアウトでボールハンドリングなどのスキルワークをやっているので、シーズンが始まるまでにポジションアップしたい。(最終的に)やりたいのはシューティングガードあたりです」

 もうひとつの課題は、さらに難問だ。鍵冨は、何でも平均以上にこなせるオールラウンド能力を持つ一方で、これなら誰にも負けないという武器がないという。

「同年代の選手と比べて、戦術理解力やフロアースペーシング等を含めた状況判断力は優れていると思っていますが、目に見える武器という点では、シュート力がすごいっていうわけじゃないし、スピードもそんなにたいしたことがない。ドリブルも普通の人以上ぐらいにはできて、バランスは取れているんですけれど、これといったものがない」と自己分析する。

 ロイブルコーチも今後、鍵冨が大学進学に向けてアピールするためには、武器を見つけて磨く必要があると彼にアドバイスしている。

「彼はすべてのことが少しずつ上手にできる選手だ。そういうところがいいところだと思う。完成品のような選手だ。ただ、ずば抜けたモノを持っていない。将来、とてもいい選手になりたいのなら、何かひとつずば抜けた武器を持ち、それを磨いていかなくてはいけない。太雅はとても賢い選手だ。私のアドバイスを聞いて、自分にとっての特別なクオリティ(資質)は何なのかを考えているのではないかと思う」

 スラムダンク奨学金の留学先、セントトーマスモア校の一員として戦うプレップスクールの世界は、その答えを見つけ出すには最高の環境だ。どの選手も自信を持ち、アグレッシブなぶつかり合いを挑んでくる。そのなかで、何が自分の武器になるのかを見つけることができれば、次の選択肢はさらに広がるだろう。

 秋からの本番のシーズンまであと約2ヵ月。鍵冨太雅が自分の意志で選んだ「人生2度目のアメリカ挑戦」が始まる──。

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