【インタビュー】東京発ガールズカルチャーの発信者、米原康正があらためて語るこれまでの歩み。田舎のヤンキー文化から『egg』創刊まで (第1回/全4回)

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取材・文: 岩屋ミカエル  写真: 三宅英正  英語翻訳: Oilman

“ヨネちゃん”こと米原康正氏は、インスタントカメラ「チェキ」を使うフォトグラファーのイメージが強いかもしれない。しかし、彼はかつて編集者として『egg (エッグ)』『アウフォト』『smart girls (スマートガールズ)』など、90年代以降の東京カルチャーシーンを象徴する雑誌を創刊してきた仕掛人でもある。つねに時代の最先端の女の子カルチャーを捉えてきた彼のキャリアは、そのまま東京カルチャーの変遷と言っても過言ではない。AKB48の立ち上げ時はビジュアルのディレクションを担当し、現在はきゃりーぱみゅぱみゅをはじめとする原宿のカワイイカルチャーを世界に発信している立役者のひとりだ。早くからアジアでも活動の幅を広げ、中国版『Twitter (ツイッター) 』の『新浪微博(シンランウェイボー。以下Weibo) 』では87万人を超えるフォロワー (2013年1月現在) と日々交流を続けている。移り変わりが激しい東京シーンの中で、つねにそこの現場感を掴んでいる彼は、どんなバックグラウンドから現在に至り、そしていまの日本になにを思うのか。インタビューの中で語ってもらった。

 



- まず米原さんのバックグラウンドから教えてください。

受験生のとき予備校の近くに住んでいる奥さんと不倫してたんだよ(笑)。それが親にバレて大学受験も失敗して、そのまま家出をして東京に出てきた。僕は地元ではヤンキーにもなれず、しかも受験生という納得できない立場ということもあって、とにかく閉塞感を感じていた。だからその不倫事件が飛び出せるキッカケになったんだよ。でも結局探しに来た友だちに簡単に発見された。ラッキーにも、ちゃんと受験をしたら大学受かって、そのまま東京に残れたという感じかな。

とにかく田舎のヤンキー文化が嫌いで。田舎だと周りと違うファッションをしているだけでヤンキー枠に入れられちゃうんだよね。僕が中学のころはグラムロックが流行っていたんだけど、その影響を受けてエナメルの細いベルトとかバギーパンツを履くと、それだけでヤンキー枠に入れられて先輩に呼び出されて交換されちゃう。僕はグラム枠でやっているつもりだったんだけどね。

だけど東京に出てきてからは、田舎のヤンキー文化からは自由になって、自分が好きなモノの話ができる友達もできるようになった。17歳のときSex Pistols (セックス・ピストルズ) が好きだったんだけど、田舎ではCAROL (キャロル) 一色だったから話せる友達がいなかった。でも東京に出てきたら場所によっては全員Pistols好きだったりして。東京は人も多いし新しいモノを認める人たちがいっぱいいるんだなって感じたんだよね。それでもうここしかないと思って、これからは東京をちょっと極めようかなと。

東京では新しいことが生まれる場所で仕事をしたいと思っていたから、大学に通いながら集英社でバイトをしてて、最初は『週刊明星』という芸能雑誌のバイトしてたね。それから『週刊プレイボーイ』が若者のネタが欲しいということで、僕に声がかかって、「悪い夜の生活」みたいな街のニュースを集める取材をやってたの。当時バイト代で月30万円くらい稼げちゃって、調子良いとボーナスも含めて100万円もらえるときなんかもあった。大学生なのに車を持てたり、当時は本当にイケイケだった。

2/3ページ: 「メジャーもおもしろいし、アンダーグラウンドもおもしろいしというのがあったから、別にどっちが良い悪いとかではなくて、せっかく東京にいるんだったらぜんぶ知っていた方がいいと思って」



時代は1970年代後半でちょうどバブルの差し掛かり。大学入ったころの僕は、モテると思ってずっとパンク少年だった。でも全然モテなくて、周りの女の子に聞いたら「だってサーファーじゃないじゃん!」って言われて…周りを見渡すと時代は第2次サーフィン・ブーム。街中がみんなサーファーになっていて、フォルクスワーゲンのビートルの上にサーフボードを釘で打ち付けて走ってたりしてたね。丘サーファーってやつだよね。とにかくサーファーの格好をしていればモテる。そんな時代だったかな。そういう情報は田舎じゃぜんぜん入ってこないんだよね。東京ではパンクが流行っているに違いないと完全に勘違いしていたから。当時、パンクからニューウェーブに時代が移っていったときで、YMOとかが出はじめたころ。だから僕は「まことちゃんカット」みたいなおかっぱ頭にしていたんだけど、おかっぱを伸ばすとサーファーの髪型になるから、サーファーになるのはそんなにむずかしくなかったんだよね(笑)。それでサーフィン部に入り、サーフィン人生を送り出したって感じ。

そういうメジャーな波に乗る一方で、アンダーグラウンド・シーンにも出入りしていたけどね。でもサーファーの格好をしているからそのシーンでは僕の中身を直接知らない人にはすごく変な顔をされるんだよね。(笑)。メジャーもおもしろいし、アンダーグラウンドもおもしろいしというのがあったから、別にどっちが良い悪いとかではなくて、せっかく東京にいるんだったらぜんぶ知っていた方がいいと思ってさ。だけどそういう人は周りにはぜんぜんいなかった。そのときにひとつのことにどっぷり浸かるのではなくて、もっと東京の街全体や地球単位になって、なんでそのシーンがおもしろいのかをいろんなものを対象にして、って主に女の子だけだけど、考えていたのがいまの僕の仕事のベースになっていると思う。

 ついでにその時代の話をすると、僕らの世代 (現在50歳前後) はちょうど大学サークルができはじめたころで、大学生パーティーなんかもやりはじめた世代。学生起業のはじまりでもあるし、マスコミや広告代理店が一番人気になりだしたのはちょうどそのころ。つまり他人のふんどしで楽をして稼ごうと考えはじめた世代だよね。そういう世代がいまの世の中を仕切っていたりするからもう絶対に良くないよね、いまの日本って (笑)。

 話を戻すと、そのころずっと出版社でライターの仕事をしていたんだけど、出版社の編集者が書けという文章にどうしてもずっと納得できなかった。「こういう男がモテる!」という文章を書けと言われても、どう考えてもそんな文章を読んでいるような男がモテるわけがないと思って。そうなったらもう自分が編集者になるしかないと思って編集的な仕事をやりだした。でも、それも編集長の意思で思い通りにならなかったけど。

その当時のあるエピソードがあって、僕はある雑誌で後藤久美子のインタビューを担当してた。でも、とにかくしゃべってくれないんだよね。大人を冷静な目で見て「うん」か無言しか無い。インタビューとしては最悪だけど、彼女のひととなりを伝えるにこれ以上のリアルは無い。だから、僕はそれがやたらおもしろく感じてさ、原稿には「うん」しか書かなかったんだよね。そしたら編集長に「お前が質問したことに後藤久美子が『うん』って言ったなら、それを後藤久美子がしゃべったように書け!」って怒られた。その時から、僕はそんなのやっちゃだめだと思ってたね。なんか出版社のそういうリアルじゃないことに僕は納得がいかなかった。

3/3ページ: 『egg』創刊の話



そうなるともう自分で本をまるごと一冊作るしかないと思って、できたのが『egg』。ミリオン出版というところから創刊されたんだけど、当時はエッチな本の出版社的な印象が強かったかな。そこの編集者に、本を一冊作るのにおもしろいネタがないかって相談されてさ。僕は1993年くらいからコギャル文化に注目していて、既にコギャルを扱った企画をいろいろなメディアに出していたのね。それでそういうコギャルの女の子たちが出たくなるような雑誌を作ろうと企画して『egg』ができたんだよね。

それがはじめて文章から写真までぜんぶ僕が選べて書けた雑誌。そこからは基本的に仕事を依頼されても自分で企画を考えられるモノしかやらないというスタンス。1995年に『egg』の0号が創刊して1997年から月刊誌がはじまった。ところが『egg』が売れだして、編集方針でどういう女の子を使っていくかという話になったとき、僕は「『egg』ってなんだよ」とか言っちゃうような女の子。お願いしてもなかなか出てくれないような、そんな子にこそ出てほしかった。だけど出版社の人間は、自分から取材されたがるような子を使いたがるんだよね。いまでも出版社というのはそうなんだけど、お金がかからず楽な方を取材したがる。僕からするとそんな子を載せてしまったら『egg』の本来の意味が失われると思っていたし、なんで女の子たちがこの雑誌に出たかったかというと、それは『egg』がそういうこだわりを守ってきたから。そこは編集部として守り続けないといけないって言ったんだけど、自分たちの意見が通らないと分かった途端に出版社というのは「これは私たちの雑誌です」って言ってきたんだよね。それで僕は『egg』を辞めることになった。

(第1回/全4回)【インタビュー】東京発ガールズカルチャーの発信者、米原康正があらためて語るこれまでの歩み。田舎のヤンキー文化から『egg』創刊まで

(第2回/全4回)【インタビュー】東京発ガールズカルチャーの発信者、米原康正が語る。外国人コンプレックスから脱却できない日本人と中国文化のリアル

(第3回/全4回)【インタビュー】米原康正「日本人が手放してしまったギャル・裏原カルチャーが、中華圏発のモノに?」また「ギャルブランドが支えるハイファッションメディアの自己矛盾」

(第4回/全4回)【インタビュー】東京発ガールズカルチャーの発信者、米原康正が語る。「原宿カワイイカルチャー」を世界に向けて発信するその理由



米原康正 (よねはら・やすまさ) 編集者、クリエイティブディレクター、フォトグラファー、DJ。世界で唯一チェキをメイン機材とするアーティストとして、雑誌、CDジャケット、ファッションカタログなどで幅広く活躍。中華圏での人気が高く、中国版Twitterである「新浪微博」でのフォロワーが87万人超、シューティングとDJをセットにしたイベントでアジアを賑わせている。世界のストリート・シーンで注目される、ジャパニーズ・カルチャーを作品だけでなく自分の言葉で語れる日本人アーティストの一人。

 

 

 

 

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