人生そのものという物語をゴールで締めくくるのは、すべての選手が夢見ることだ。ユヴェントスFWアレッサンドロ・デル・ピエーロはそれに成功した。だからこそ、彼は素晴らしい選手なのだ。普通ではない、規格外の選手なのである。

デル・ピエーロは1993年9月12日から今日まで、どんな誇張表現や比喩も許されるような見事なキャリアを送ってきた。遠く昔、「アッヴォカート」こと故アニェッリ故会長が「ピントゥリッキオ」というニックネームをつけてきたころからだ。彼は「ラッファエッロ」と名付けたロベルト・バッジョと区別化するために、デル・ピエーロに「ピントゥリッキオ」というニックネームを与えた。

ユヴェントスでの19年間で、デル・ピエーロは704試合に出場し、4万8785分間プレーしてきた。彼はユヴェントスの単なるバンディエーラ(シンボル)ではなかった。彼こそがチームであり、支柱であり、チームメートたちとサポーターにとっての基準だったのだ。

それは、先発であっても、ベンチに降格したときでも同じだった。デル・ピエーロの先発出場は552試合。うち233試合で途中交代し、ベンチスタートから途中出場したのは152試合だった。それらの大半が騒がれ、英雄の立場を議論にかけた監督たちへの批判がつきまとった。

デル・ピエーロはユヴェントスで289ゴールを記録した。セリエAで188ゴール、チャンピオンズリーグで44ゴール、コッパ・イタリアで25ゴール、セリエBで20ゴール、UEFAカップで2ゴール、ヨーロッパリーグで3ゴール、スーパーカップで3ゴール、インタートトで1ゴール、欧州スーパーカップで2ゴール、インターコンティネンタルカップで1ゴールだ。

つまり、彼はイタリア、ヨーロッパ、そして世界と、あらゆるところでゴールを決めてきた。ちなみに、ポストやクロスバーに阻まれ、落胆で天を仰いだ回数は68にも上る。PK失敗は12回だった。

だが、その長いキャリアの終わりに強調しておかなければいけないのは、彼の振る舞いだ。デル・ピエーロが警告を受けたのは50回。退場はわずか2回だ。出場停止になったのは、計3試合だけである(セリエAで2試合、Bで1試合)。

彼のことを話すときは、常にその正しさ、真面目さを思い出す必要がある。子供たちに見せるべき価値だ。こういった模範を、しっかりと大切にしなければいけない。