(撮影:野原誠治)

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現役時代は三菱重工、読売クラブでプレー。その後15人の監督の下でコーチを務めた。2005年、鳥栖にヘッドコーチとして招かれ、2007年、そのまま鳥栖の監督に就任すると鳥栖を昇格まで後一歩のところまで成長させた。そして2010年、家族が住む横浜に戻り、横浜FCの監督に就任した。


――横浜FCの監督に就任して、現在はどういう状況ですか。

「まだ自分自身も出せてないし、選手も僕を見ているでしょうね。結果が出るようになってからうまくいくことになるのでしょう。少しずつですよ。チーム作りは紙一枚を積み重ねていく作業ですから。重ねられない日もありますけど、今日は一枚重ねることができたかな」

――監督のことをよく知っている選手もスタッフも多いですね。

「僕が横浜FCに決まってから、その部分を整えていただいたと思っています。そのことに関しては身が引き締まる思いですね」

――J1昇格するということが就任の時にクラブから要求されたことですか?

「実は最初に話を聞いたとき、去年16位だったチームがそんなに急にうまくいくことはないと思っていました。ですが、あとから編成の話を聞いたりチームの言葉に対する行動を見ていると、本気度が伝わってきましたね。最初に話をもらったときに、この数年苦しんでいるといから今年はちゃんとした形にしないといけないという思いというのがひしひしと伝わってきました。周囲の協力もすごく感じます。責任重大だというのも分かっています」

――鳥栖でやった方法論を横浜FCに持ち込むのですか、あるいは新しい方法を?

「同じことをやったら横浜FCには合わないと思っています。また今までの横浜FCのやり方に僕が合わせすぎてもダメだと思っています。そこを今調整しているところですが、まず最初に結果を出せば僕の言葉はもっと真実味を帯びて聞いてもらえると思っていますし、もしそうでなくてもその次の試合に向けて必死で努力することで理解してもらえることも増えるでしょう。早くみんなの思いが一つになるというのはどんなことなのか、というのを全員で分かち合いたいですね」

――岸野監督はディテールのすり合わせまで非常に神経を使いますね。それが思いが一つになるということに結びつきますか?

「細かいことまでこだわるのが勝ちたいということだと思っています。勝つために何ができるか、必死でそれを考えていけば、いろんなことが大切になってきます。それがこだわりなんですよ。このクラブにはいろんなものが揃っています。でも最初から揃っているから逆に分からない、使っていないものがある。いや、使えてはいるんですけど、最高に使っていかなければならない。たとえば腕立て伏せを30回と言われたら33回、10歩走れと言われたら15歩走る、そういうところから負けない基礎を作るというかな。まだもどかしさはあるのですが、そのことをうまく伝えるためには僕もまだいろいろ考えていかなければならないということですね」

――その熱さが周りに伝わっていくといいですね。

「高校時代に必死でやって勝つじゃないですか。ああいう純粋さを大事にしたいと思います」

――選手やスタッフにはどうやって接して、どうなってほしいと思っていますか?

「一番いい方法かどうか分からないのですが、僕はまず自分を知ってもらおうと思いますから。エエ格好はしないようにして。平気でミスして、グラウンドで冗談も言う。けれど僕はみんなが集まったときに、勝ちたいとか、勝つために、とかそういう言葉を言うようにしています。それでも勝負だけにはこだわってみたい。それだけは絶対に変えない。それを選手に感じてもらおうと思っています。僕が言ったことが選手の頭の中に入っていって、ぱぱっと計算できて、それが僕が思っている以上にみんなの心をかき立てる。究極的にはそうなってほしいと思います。だって勝ちたいという気持ちで僕以上の人はこの世にいないと思うから。だからみんなには僕に近づいてほしい」