『ちはやふる-めぐり-』©日本テレビ

写真拡大

〈おおえやま(おほえやま) いくののみちのとほければ まだふみもみず あまのはしだて〉

参考:『ちはやふる-めぐり-』は“青春敗者”の物語 プロデューサーが映画版との違いを明かす

 歌番号60番のこの歌は、和泉式部の娘であり、若くして亡くなった小式部内侍が詠んだ歌である。歌の上手さから、母親に代作してもらっているのではと揶揄された小式部内侍が、藤原定頼を前に即興でこの歌を詠み、その才気を証明したことでも知られている。いわばこれは、子どもが親離れをして自立したことを表す歌であり、8月6日に放送された『ちはやふる-めぐり-』(日本テレビ系)第5話は、この歌がエピソードタイトルに選ばれている。

 すなわちそれは、中学受験に失敗した際の母・塔子(内田有紀)の言葉がきっかけで青春を贅沢なものと捉え、すべてを諦観するようになってしまっためぐる(當真あみ)が競技かるたと出会い、青春を――ないしは自分自身を取り戻す瞬間が描かれるエピソードということである。よくよく考えてみれば「おおえやま」は、“大江”姓である奏(上白石萌音)にとって自身の名前が入った得意札。10年前に瑞沢高校で青春を懸けた奏の静かな情熱が、教え子である梅園かるた部、特にめぐるに引き継がれることも意味しているのであろう。

 塾の合宿に行くと嘘をつき、北央との強化合宿に参加しためぐる。しかし塾の合宿に参加していないことに気付いた塔子と進(要潤)が合宿所に現れ、連れ戻されてしまう。大学受験も近い高校2年生で新しいことを始めためぐるに、遠回しに異を唱える両親。わだかまりを抱えたまま、それを言い出せずにいるめぐるは、両親の意向に沿ってまもなく行われる武蔵野大会を最後に退部することを決断するのだ。

 とはいえ、何らかのかたちで塔子の――藍沢家の主導権は進ではなく塔子が握っているものと窺える――態度がやわらぎ、めぐるがかるた部を継続することが許される流れになると容易に想像がつく。めぐるがジャージの膝に穴が空くほど真剣にかるたに取り組み、家でも夜な夜な練習に励む。なぜめぐるが青春を謳歌することを避けてしまったのか理由を考える塔子たちは、自分の発言がその原因になっていたことにようやく気付かされる。そして大会で試合に臨むめぐるの姿と「おおえやま」をきっかけに、考えを改めることとなるのだ。

 ここで思い出されるのは、原作で描かれてきた真島太一と母親の関係である。成績至上主義の母親からプレッシャーを浴びつづけながらかるたに打ち込んできた太一の姿を見て、母親は徐々に理解を示すようになる。めぐるというキャラクターは、千早のようでもあり、奏のようでもあり、同時に太一にも近い背景を備えているともいえようか。キャラクター配置を考えると、太一=風希(齋藤潤)になる時もある以上、梅園かるた部のメンバーたちにはそれぞれに、10年前の瑞沢かるた部メンバーのエッセンスが散りばめられていると見える。

 つまりは、青春を謳歌しようとする者たちがぶち当たる壁や課題というのは、10年前も現在もさほど変わっていないのかもしれない。その一方で奏は今回、めぐるの両親に「私たちの世代は、青春をするのもしないのも個人の自由。いまの子たちには、選ぶ自由もないのかと思ったら、胸がいっぱいになった」と話す。一人一人に内在されるものではなく、それぞれを取り巻く人間関係や家庭関係、周囲の環境が変化しつづけ、青春というものの捉え方自体にも影響をもたらす。

 そう考えると、“青春ドラマ”というものは決して極私的で安直にキラキラしただけのものではなく、社会の実情に敏感に反応する若者たちの小さな世界における社会派ドラマなのだと改めて気付かされる。『ちはやふる』が常に掲げてきた「青春を懸ける」というのも、置かれた環境や自分自身と正面から向き合っていくことであり、その先に待つのは「おおえやま」が示す“自立”に他ならない。そのための大きな一歩をめぐるが踏み出したここまでが、このドラマの「上の句」というわけだ。

(文=久保田和馬)