先進性と独創性のある新しい文学の可能性を探るため、毎年かわる「ひとりの選考委員」が受賞作を選ぶ「Bunkamuraドゥマゴ文学賞」。第34回となる2024年度は作家の桐野夏生さんが選考委員を務め、世界中の辺境を探検し続けるノンフィクション作家の高野秀行さんによる『イラク水滸伝』(2023年7月 文藝春秋刊)に決定。その贈呈式が10月21日(月)に執り行われました。

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桐野夏生さん(左)と高野秀行さん(右)、授賞式にて 写真:大久保惠造

授賞式当日はちょうど誕生日――会場からのレポート

『イラク水滸伝』で高野さんが選んだ探検の目的地は、世界四大文明の一つであるメソポタミア文明の発祥地といわれる、ティグリス川とユーフラテス川に挟まれたイラクの巨大湿地帯「アフワール」。迷路のように水路が入り組んだ、統治権力の及ばない場所で独自の文化が形成された“現代最後の秘境”を中国の奇書『水滸伝』になぞらえ、6年間に及ぶ取材・執筆を通じてそのベールを紐解いた渾身の大作です。

 贈呈式で桐野さんは「『イラク水滸伝』を読んだのは昨年秋のことです。あまりに面白かったため、読了後あわてて奥付の刊行年月日を見て、選考期間の対象かどうか確かめました。その後、様々な作品を読む時も『イラク水滸伝』と比較し、そのスケールと面白さにかなうものはなく、迷わず選びました」と選考経過を報告。そして「ルポルタージュとしても学術的な研究書としても優れていて、このような作品と出会えて素晴らしい経験ができたと思います」とコメントしました。

 続いて、当日58歳の誕生日を迎えた高野さんが壇上に立ってスピーチ。「私が最初に本を書いたのは22歳の時でした。『イラク水滸伝』は湿地帯という環境の難しさなどあらゆる複雑な要素を含むため、うまく書ける自信はありませんでしたが、今までの経験や培った技術を総動員して何とか形にできました。その意味で本作はノンフィクションライターとしての集大成であり、このような形で評価されたことはとても嬉しく思います」と喜びを噛みしめつつ、「ノンフィクションの世界では今でも異端扱いされていますが、今回の受賞を励みにもっと面白い本を書きたいと思います」と今後の意気込みを語りました。

 続いて、贈呈式の直前に行われた桐野さんと高野さんの対談をお届けします。桐野さんが作品を通じて高野さんに抱いた印象や、著書では書かれなかった探検の裏話など、興味の尽きない内容が満載でした。

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ノンフィクションの世界で邪道や異端と呼ばれてきて…

桐野夏生さん(以下、桐野) このたびは受賞おめでとうございます。『イラク水滸伝』はとても面白く、夢中で読みました。ルポルタージュとしても文明論としても優れていて、素晴らしい文学だと思い、ドゥマゴ文学賞に選びました。

高野秀行さん(以下、高野) とても感激です! でも、選考委員が一人って大変だったんじゃないですか?

桐野 普通の文学賞には複数の選考委員がいて、意見が異なる場合は議論を戦わせる必要もありますが、選考結果は連帯責任です。その点、ドゥマゴ文学賞は一人ですから、大きな責任を感じて正直怖かったです。

高野 一人で選ぶなんて、桐野さんは度胸があるなと思いましたよ(笑)。しかも、ノンフィクションの世界で邪道や異端と呼ばれている私が書いた本ですから。

桐野 そうでしょうか? 現地に行かれていろいろ体験したことをただの好奇心で終わらせず、『ニジェール探検行』(西アフリカ奥地を踏査中、現地民の襲撃により落命した探検家マンゴ・パークの手記)やヘディン(スウェーデンの地理学者・探検家)のように書いておられて、むしろ私は高野さんのことを“ノンフィクションの原理主義者”と思いましたよ。

高野 私もそのつもりで書いているんですが、ノンフィクションの世界はシリアスさが重視され、私の作品のように笑いがあってはいけないというところがあるんです。

桐野 高野さんの著書には笑いだけではなく深い思考もあります。邪道と言う方たちは、ノンフィクションのことを分かっていないのではないですか?

高野 そう言っていただけるとありがたいです。今回の受賞で、私のことを「邪道」とか「ふざけている」と言う人が少しでも減ればいいなと思います(笑)。

東京都と同じくらいの大きさの湿地帯

高野 今回の作品は本当に書くのが大変で、最初にイラクへ渡った時に「失敗した」と思いました。

桐野 どんなところが大変だったのですか?

高野 私は良くも悪くも想像力に欠けるところがあり、湿地帯を取材する大変さを分かっていませんでした。他の辺境の地と違って、湿地帯は目指す場所や目的がはっきりしないんです。

桐野 著書にも書いておられましたね。湿地帯は道もないし浮島も動いているから、取り留めのない探検になってしまうと。

高野 そうなんです。しかも東京都と同じくらいの大きさで、この地域をどうやって把握すればいいかも分からない。面白い内容であることは確かなのに、本を書くには何をどうすればいいのか、途方に暮れました。

“ブリコラージュ”的な5000年前からの舟づくり

桐野 著書の中に“計画性はないけど、その場で何とかやっていく”というニュアンスでブリコラージュという言葉が出ていました。私は『イラク水滸伝』はまさにブリコラージュ的な探検記だと感じました。途方に暮れながらも、その場しのぎ的にやっていこうという感じがすごく面白かったです。

高野 ブリコラージュって実は特別な概念じゃないんです。普段、冷蔵庫にある食材を適当に使って料理するのもブリコラージュだし。ただ、今の社会は計画性を持って何かを行うというのが当たり前になっていて、探検的活動やルポルタージュも計画性が求められるんです。 

桐野 でも、計画性がないからこそ面白いんじゃないですか?

高野 そうですね。イラクの現地人もブリコラージュだけで生きているような人たちばかりで、それに合わせて行動していくしかなかったんです。

桐野 舟を作る場面も、こんなに適当でいいのかとびっくりしました。

高野 5000年前から同じ形の舟を作っているそうですが、その頃からこんなに適当なのかなと思いました。大工が二人いるのに同時に仕事することがほとんどなく、相方がいない時に「これ真っすぐになってるか?」と私に聞くんですよ。この舟を見ることすら初めてなのに(笑)。

コロナ禍で「文明とは何か」を突き詰めて考えた

桐野 他にも今回の取材で難しかったことはありますか?

高野 イラクへの渡航ビザが最長1ヵ月までしか出なかったことですね。現地でのいろいろなロスも考慮すると、1ヵ月だと活動できる時間が限られてしまうんです。

桐野 確かにそうですね。しかもコロナ禍で渡航できなくなったわけですが、著書を読んでいると、1ヵ月間の滞在を3回行っただけとは感じませんでした。

高野 取材期間としては不十分でしたが、コロナ禍にたくさんあった時間を利用して、「あそこの特色は何なのか」「歴史はどうなのか」など、取材で得た要素をあらゆる角度からひたすら分析しました。

桐野 普段の探検的活動においては、そこまで時間を掛けて考察・分析ということはなかなかないのでしょうか?

高野 今回ほどは考えませんね。また、イラクはメソポタミア文明の発祥地でもあり、今までの辺境の探検とは違って、文明と対峙しなければいけなかったことも大変でしたね。

桐野 文明との対峙とは、具体的にどんなことですか?

高野 「文明とは何か」を考えることです。これは現地で実感したことですが、湿地帯は道も川もないまさに原初の世界じゃないですか。そうした湿地帯でシュメール人が最初に水路を作って灌漑設備を設けたのは、言ってみれば水と土を分ける行為であり、そうやって“区切っていく”ことから文明が始まるんだなと思いました。

取材の窮地を救った“エレキ漁ギャグ”

桐野 現地取材で面白かったエピソードがあったら教えてください。

高野 今回一緒に行っていただいた山田高司隊長が絵を描くのが上手で、ゲーマル(水牛の乳を原料に作る生クリーム状の食べ物)作りの取材で訪れた家に集まった人たちの似顔絵を描いていた時のことです。イスラムで女性は親族以外の男性の前で髪や肌を見せてはいけないのに、家の奥さんが似顔絵をリクエストし、夫である主人がピキッとした表情になったんです。しかも娘まで「私も描いて」とお願いしたから主人の目が怒りに燃え、殺されるんじゃないかと思いました。

桐野 それはヒヤヒヤしますね。

高野 そうなんです。これは何とかしなきゃと思い、私が普段場を和ませるために演じていた「エレキ漁でしびれる魚の真似」というギャグでごまかそうとしたんですが、それでは足りないと思い、魚だけでなく漁師もしびれる真似を加えたんです(笑)。すると周りにめちゃくちゃウケて主人も何も言えなくなり、その間に山田さんが必死で似顔絵を描き終えました。

桐野 山田さんのイラストは分かりやすくて味がある。イラストがあることでディテールがわかりやすくなりました。

高野 山田さんは自然のことを何でも知っていて、興味が湧いたものを観察して絵で記録するという、まさに19世紀の博物学者でありナチュラリストのようですね。今回の探検は自然が大きなポイントだったので、山田さんを引っ張り出すことが大きな準備でした。

桐野 山田さんが参加されて良かったですね。

高野 そうですね。山田さんは私より8歳上ですが、知識やものの見方も生きてきた経歴もまったく違うので、物事を多角的に見ることができて良かったと思います。逆に、山田さんと私の同じ考えとして、海外へ行ったら極力、現地の人と誠実に接するようにしています。相手を思いやるという意味だけでなく、そうする方が安全度も上がってサバイバルできるんです。

桐野 なるほど。高野さんの著書を読んでいると、そうした懐の深さというか、何が起きても動じないというか、普通の人とは違うような印象を抱きます。

高野 いやいや、向こうの人たちと同じようなことをその場その場で何となくやっているだけですよ。それに、現地の言葉をたどたどしく話しているから、子どもみたいに思われるんじゃないですか。子どもにはあれこれ教えたり面倒を見てあげたくなりますよね。あれと同じだと思います。

(構成:上村真徹)

(桐野 夏生,高野 秀行/ライフスタイル出版)