【NHK大河】“吉原”という特殊な地域に生まれた「蔦屋重三郎」はいかにして「江戸のメディア王」にのし上がったのか
2025年大河ドラマ「べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜」は、これまで同番組がよく扱う明治維新や戦国安土桃山時代ではなく、天下泰平な江戸の世が舞台。横浜流星さんが演じる主人公・蔦屋重三郎も、有名な幕末の志士や戦国武将ではなく、洒落本や浮世絵などの出版を生業とする町人であり、一般視聴者にはなじみが薄い存在かもしれない。
【写真を見る】蔦屋重三郎の最高傑作といわれる「吉原の女たちの美人画ブック」
『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)で、この人物をノンフィクション的な手法で活写した作家・増田晶文氏は、この2世紀余り前の出版業者の魅力は現代のメディアに通じる「編集力」にあるという。同書から一部を抜粋してその多才ぶりを紹介しよう。
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歌麿、北斎、写楽をスカウト
蔦重ほどカタカナ業種がぴったりくる江戸人は珍しい。
蔦重はパブリッシャーとエディターを兼務し、大ヒットやベストセラーを連発してみせた。その辣腕ぶりを支えたのはプランナーとしての才知であり、戯作者や絵師の可能性を引き出すディレクション能力に他ならない。
スカウトとしての眼力だってたいしたものだ。
喜多川歌麿、東洲斎写楽の画業は蔦重の存在なしに考えられない。勝川春朗と名乗っていた、若き日の葛飾北斎にも眼をかけていた。戯作の山東京伝、狂歌なら大田南畝〈おおたなんぼ〉(蜀山人、四方赤良〈よものあから〉)らしかり。曲亭馬琴と十返舎一九が蔦重のもとで働き、初期作品を世に出してもらっていたことだって見過ごすわけにはいかない。
江戸の文化サロンを支える
蔦重のアイディアを満載した出版物が江戸を席巻した。
狂歌集、黄表紙、洒落本などで話題作が続出、美人画や役者絵の大首絵は浮世絵のメインストリームに躍り出る。江戸の音楽シーンを代表する浄瑠璃、とりわけ安永期(1772〜81)に人気を博した富本節の詞章を写した版本は引っ張りだこに。
蔦重がオーナーだった書肆〈しょし〉「耕書堂」は大繁盛、江戸の名所に数えられるまでになった。
しかし、彼は鼻もちならぬスノッブではない。
守銭奴に堕さなかったことは、蔦重を語るうえで大事なキーポイントだ。
彼はパトロンとして江戸の文化サロンを支えてみせた。狂歌壇ともいうべきグループはその好例、狂歌師たちは蔦重のキモいりで集まり、蔦重の“ゴチ”で飲み食いもした。
蔦重は若手への援助も惜しんでいない。無名だった歌麿を居候させ、衣食住どころか“遊”まで面倒をみてやっている。
こうした人材ネットワークが、蔦重を江戸のメディア王に押し上げる源泉となった。
斬新な吉原タウンガイド
蔦重はデベロッパーでもあった。
彼は吉原で生まれている。数え8歳で父母が離縁、以降は引手茶屋を営む叔父に育てられた。蔦重の最初の書舗は吉原大門の近くにあった。
蔦重はホームグラウンドの吉原に新しい価値を付加しようと企てる。
蔦重はまずタウンガイド「吉原細見」のデザインを刷新、そこに充実した遊郭のデータを満載させ注目度を高めた。次いで、吉原のファッション性を大いに喧伝する。これに男客どころか娘たちが飛びついた。そこに住む女たちの身につけるものがトレンドとなり、吉原は歓楽街だけでなくスタイリッシュな情報発信基地として認知される。
現代のSNSの役割を出版物が担い、吉原の女たちはインフルエンサー役をあてがわれたわけだ。
ライトノベルの先駆け
蔦重の注力で江戸の出版物のコンセプトが大きく変貌した。
その代表例が挿絵を各ページ全面にレイアウトし文章を添えた草双紙だ。当初は赤本、黒本、青本などと呼ばれ、内容が浅薄なうえ、子ども向けのおとぎ話も少なくなかった。
そんな草双紙の世界観を根底から覆したのが安永4(1775)年刊行の『金々先生栄花夢〈きんきんせんせいえいがのゆめ〉』だった。作者の恋川春町〈こいかわはるまち〉は作品の随所に世相を反映させ、滑稽や諧謔、洒落をちりばめた。
本作は表紙の色から黄表紙と呼ばれ、大人が愉しめる娯楽として注目を集める。
黄表紙はマンガの原型とみることができるし、ライトノベルの始祖ともいえよう。
機をみるに敏な蔦重が黄表紙を放っておくわけがない。春町は狂歌壇の有力メンバーだった。蔦重は春町だけでなく、同じく狂歌グループに所属する朋誠堂喜三二〈ほうせいどうきさんじ〉、山東京伝らの戯作者、北尾重政やその弟子の政美(後の鍬形惠斎)といった絵師を取り込む。
蔦重の手掛けた黄表紙はナンセンスな笑いに包まれていながら、文と絵が高いレベルで拮抗し、政治批判や諷刺の毒が効いている。江戸の衆はこぞって耕書堂刊行の評判作を手にとった。
蔦重のアンテナは常に江戸の庶民へ向けられていた。
田沼期のバブル景気に乗る
蔦重が飛ぶ鳥を落とす勢いだった天明期(1781〜89)、政治の実権は田沼意次にあった。
田沼は商業資本を活用して貿易振興、蝦夷地開拓、専売制など産業拡充を実現させる。諸色高直のインフレ経済ながら民の懐もふくらんだ。
狂歌師の乱痴気ぶりは、当世のスラングの“パリピ”と変わりない。吉原でのお大尽(大富豪)の豪遊ぶり、吉原の女たちの絢爛豪華な振る舞いは摺り物を通じて世間の知るところとなる。江戸の衆はたちまち触発された。男女ともオシャレに余念がなく、美食に走った。ペットブームもあった。
しかし、田沼のもとで贈収賄がまかり通ったのは周知のこと。幾度となく天災、飢饉、疫病の猛威にさらされもした。昭和末期から平成初期のバブル景気に平成の天災や異常気象、令和のコロナ禍などを重ねれば、田沼時代が身近に感じられよう。
蔦重の出版物は時代の合わせ鏡、そんなこんなの世相をことごとくすくいあげた。
※本記事は、増田晶文『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。
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デイリー新潮編集部