エルサレム近郊(写真: 大川光夫 / PIXTA)

ハマスによるテロ攻撃から一年が経ちます。イスラエルと周辺国の緊張はピークを迎え、 先行きが読めない情勢です。今や軍事大国となったイスラエルですが、1947年パレスチナ分割決議の時点では、周辺アラブ勢力との数的・物量的格差は埋めがたいものでした。それを打開するため、ユダヤ人機関が取った奇策とは? パレスチナ問題の源流を、ノンフィクションの金字塔『パリは燃えているか?』の ジャーナリストコンビが解き明かします。

※本稿はラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエール著、村松剛訳『[新版]おおエルサレム! アラブ・イスラエル紛争の源流 上』から一部抜粋、再構成したものです。

ユダヤ人が武器の取得のために奔走

エフド・アヴリエル(編集部注:軍事組織ハガナの作戦主任)のズブロヨフカ・ブルノ会社への訪問は、パレスチナのユダヤ人がその生存に必要な武器の取得のためにたたかってきた戦いに、新紀元を画するものだった。

農耕に水を必要とするのと同じ理由から、武器は彼らにとって不易の執念と化していたのである。1936年までは、そのキブーツや城砦化された村々の武器庫にかくされていたのは、たいていの場合アラブ人から購入された多種多様の小銃だった。

これらの小銃はじっさいのところ、アラブ人にたいして使われたのだが。同じ年に、トラクター、道路ローラー、蒸気ボイラーなどの、非攻撃的積荷がハイファの港に着いた。

これが個人的な買物の、不安定な一時期のおわりであり、ハガナ武装のいっそうラディカルな努力のはじまりだった。これらの機具には、新式の武器と弾薬とが詰めこまれていたのである。

荷物の発送者はもとのパレスチナ警視で、その後オレンジの輸出業者となった男である。その活動を隠蔽するために、エフダ・アラジはワルシャワで破産した小さな農業器材と土木事業の工場を買った。

毎週土曜日、労働者がひとりもいなくなったあとで、アラジはその週のうちにつくられた機具を分解し、武器を中にかくしてからすべてをもとにもどした。3年間のうちに、彼の小さな工場はパレスチナに3000梃の小銃、226の自動小銃、1万の手榴弾、300万の実包、数百の迫撃砲弾、さらに大手柄は3機の観光用飛行機を送り届けたのである。

第2次世界大戦の勃発は、ワルシャワの工場の仕事に終止符を打ったが、社長の仕事がこれでおわったわけではない。パレスチナにもどったエフダ・アラジは、爾後二重の活動に一身を打込む。

イギリス軍の武器庫の掠奪を企てる

ドイツにたいする破壊活動の諜報組織をつくる一方で、ハガナのひそかな武装のためにイギリス軍の武器庫の掠奪を企てるのである。彼の部下たちはイギリス兵に変装し、上官の命令書を手に、武器庫に押入ってトラックに荷を満載して出て行った。

また武器弾薬を載せたハイファ= ポート・サイド間の列車にひそかに乗りこみ、共犯者の待つ地点で貨車の積荷を洗いざらい放り出す。ほかの連中は英国魂に燃えた士官、という触れこみで西の砂漠の戦場踏査に行き、潰走したドイツ・アフリカ軍団の遺棄した武器をもってくるのである。ハガナの火力はいちじるしく増大し、アラジの首には2000英ポンドの懸賞がかかった。

しかしハガナの武器についての叙事詩のうちで、もっとも突飛な物語は戦後にある。1945年の夏のある夕暮、テル・アヴィヴのキャフェのテラスが事件の発端だった。

新聞を走り読みしていたハイーム・スラヴィーヌは、ワシントン発の小さな報道記事に目をとめた。合衆国の軍需工場のもつ60万の製造機械が、すべて新品同様だが翌月には屑鉄として廃棄される、というのである。スラヴィーヌは立ち上って家にもどり、ダヴィド・ベン・グリオンに手紙を書いた。

「これらの機械を入手しに行くべきです」と彼は切願した。「パレスチナにひそかにはこびこみ、近代的兵器産業の基礎とするのです。歴史がユダヤ人に、二度とあたえない好機でしょう」

共産党の監獄で辛うじて生き残ったこの41歳のロシア系ユダヤ人の署名以上に、この部門で権威の高いものは考えられなかった。

パレスチナに着いたとき後進地域にはこの上なく貴重な肩書――工学士――をもっていたハイーム・スラヴィーヌは、その物理、化学についての識見によって、たちまちハガナで重要な役割を演じるようになっていた。

昼はパレスチナ最大の発電所の責任者をつとめ、夜はレホヴォットのアパルトマンの台所でTNT火薬を練り、手榴弾製造のための冶金実験を行なった。

彼がベン・グリオンに手紙を書いたのは、ヤルタ会談に出席したアメリカの高官がこの老指導者に秘密を洩らしてから、わずか数週間ののちである。ベン・グリオンの脳裡をそれいらい離れなかったことは、アラブ人との力の試煉にその民をいかに準備させるかだったから、スラヴィーヌの書簡は運命の合図、といったものだった。

ニューヨークへと向かう

ただちにニューヨークに行け、と彼はスラヴィーヌに命じた。ニューヨークでは、合衆国でもっとも有名で富裕なユダヤ人諸家族の代表者と、接触できるようにしてあった。

その人物、ルドルフ・ゾンネンボーンは2つの情熱しか人生を知らない男で、1つはシオニスムであり、もう1つは家業の化学工業である。

ベン・グリオンの依頼に応じて、彼は数年まえからアメリカのシオニストの指導者たちを集め、ゾンネンボーン・インスティテュートと当時すでに呼ばれていた一種の協議会をつくり上げていた。口のかたいことでえらばれた人びとだが、その会員は地理的産業的に見て全アメリカの代表の観を呈した。

彼らの協力を獲て、スラヴィーヌは仕事を開始した。彼はまずホテルの一室に引きこもって、雑誌「技術機械」のバック・ナンバーを読みふけった。この雑誌の存在については、たまたま新聞雑誌売場の飾窓で知ったのである。無数の挿絵を研究したあげく、彼は主要な武器の製造に必要なすべての工作機械の特徴を、暗記するまでにいたった。

それからアメリカ全土にわたっての、大巡礼旅行に乗出す。彼は英語がおそろしく下手だったから、そのために疑惑を惹くことをさけて、聾唖者でとおした。

それでも無数の工場を訪問し、圧延機、圧縮機、旋盤、その他の工作機械の全コレクションを、屑鉄の値段で買うということをやってのけたのである。ただしアメリカの法規が、彼の仕事をいちじるしく複雑なものにした。

きわめて特殊なある工作機械に関しては、こわれものとして送り出されるまえにその所有者によって解体され、使用不能にされねばならない。必要不可欠のそれらの機械を入手するために、スラヴィーヌは拾い屋の一軍団を待機させ、彼らが合衆国の主要な屑鉄置場を駆けまわって各種の部分をかき集めてきた。

ほんの小さなねじ止めでも、スラヴィーヌの司令部に送られる。彼の司令部は黒ハーレム人街のまんなか、パーク・アヴェニュー2000番地の、古いミルク・ホールだった。ここで、金銀細工師の忍耐づよさをもって、スラヴィーヌはその機械を復原していた。

この驚くべき事業の結実として彼が復原に成功した機械類は、小銃の実包5万発を毎日生産する設備と、機関銃の大量生産に必要な1500の作業を行ない得る工作機械と、88ミリ迫撃砲の砲弾のための旋盤である。屑鉄の値段で、つまり重さで買い付けたから、ぜんぶで200万ドルだった。何箇月かまえには、まだ新品のこれらの品は40倍以上の値段だった。

機械をパレスチナ側にいれるための芸当

機械をパレスチナにいれるのには、まだもう1つの芸当を演じなければならない。数も分量も巨大だから、そのまえにエフダ・アラジが用いた例の偽装戦術に訴えるというわけにゆかないのである。

全能力をあげて機械を復原したスラヴィーヌは、こんどはそれらを、最後のねじ釘、最後のボルトにいたるまで分解した。仕事をおわったときには、約7万5000点の部品が彼の指ではずされた勘定になる。彼は各部品について、自分で工夫した暗号による目録をつくった。

次に中身を偽造して、荷物が目的地に到着してイギリスの検閲をうけたさい「織物機械」という記載に合致して見えるように包装した。何百トンもの資材の輸入だが、スラヴィーヌは織物の機械35トンの輸入についてのささやかな公的許可を、空想上のアラブ人企業家の名義でもっていただけだった。

すべての部分品が巧妙に贋の名をあたえられ、ごちゃまぜにされていたから、どんな天才的な工学者もその真の性質を見抜くことはできなかったろう。そのうえ検閲はふんだんな賄賂のおかげで、大目に見ることが確約されていたから、どの箱も困難なしにイギリスの税関をとおることができたのである。

国際連合がユダヤ人のパレスチナ創設の決定を行なったその夜、これらの箱はすでに目的地に到着していた。ずっとまえからキブーツに秘匿され、開かれてその富をひきわたす日を待っていたのである。しかし安全を考えてハガナの指導者たちは、最後の英兵が撤退するまではその匿し場に眠らせておくことに決めていた。

ボルトも座金も失われなかった


ダヴィド・ベン・グリオンがエフド・アヴリエルをヨオロッパに送ったのは、その中間期においてユダヤ人が絶望的に必要とするはずの武器、弾薬を、見つけ出すためである。

最後の機械が復原され据えつけられたとき、ハイーム・スラヴィーヌは歴史上もっとも難解な工学のパズルを首尾よく解いたことを、誇ってよかったろう。

黒人街からイスラエルのキブーツに送られた7万5000点の部品のうち、1つのボルトも、1つの座金も失われてはいなかった。

(ラリー・コリンズ : ジャーナリスト)
(ドミニク・ラピエール : ジャーナリスト)