イスラエルのネタニヤフ首相は国連総会で、イランなどを「CURSE(呪い)」と示した地図を掲げた(写真:Bloomberg)

パレスチナのガザ地区に始まり、イスラエル北部からレバノン南部でのヒズボラ、さらにはイランへと、イスラエルの戦線は日ごとに拡大し続けている。

1年前、ハマスの急襲攻撃で多数の死者と人質を出し失脚の瀬戸際に立たされたイスラエルのネタニヤフ首相は見事に復活し、今や向かうところ敵なしの状況だ。

ガザでのハマスとの戦いでイスラエルは大量の地上軍を投入し、4万人以上のパレスチナ人の命を奪うとともにハマスを壊滅状態に追い込んだ。北の敵であるヒズボラに対しては、彼らが使用するポケベルを一斉に爆破するという奇策に続き、最高指導者のナスララ師をはじめほとんどの幹部の殺害にも成功した。

現在はレバノンへの地上侵攻と首都ベイルートなどへの激しい空爆を続けるなど「第2のガザ」を目指している。

戦線拡大を続ける思惑とは

こうした状況を前に、ハマスやヒズボラを裏で操っているイランがついにイスラエルに対するミサイル攻撃に踏み切った。イラン攻撃の口実を求めていたネタニヤフ首相にしてみれば、まさに思うつぼである。ハマス、ヒズボラ、イランという敵対勢力との戦いは、これまでのところネタニヤフ首相の思惑通り進んでいるようだ。

もちろんアメリカなどはイスラエルに対し停戦合意の働きかけを繰り返したが、ネタニヤフ首相はまったく聞く耳を持たなかった。

彼が戦線を拡大し続ける意図はなにか。8月のアメリカの雑誌『TIMES』 のインタビューでその一端が語られている。

まずイスラエルが置かれている今の状況についてネタニヤフ首相は、「ハマス、フーシ派、ヒズボラ、シリアとイラクのシーア派民兵を含む、より広範なイランのテロ枢軸に直面している」と語り、それらの脅威を取り除かなければならないと強調している。

また、イスラエルがかつて合意したパレスチナ国家との共存を目的とする「二国家解決案」については、「パレスチナ人がすべての権限を持つパレスチナ国家が仮に誕生しても、軍事面はイスラエルが実権を握る不完全国家しか認めるつもりはない」として、パレスチナ国家が誕生してもイスラエルによる軍事的支配は続けるとしている。

その理由は、「パレスチナの地から軍事的権限を放棄すれば、イランの代理組織が直ちに入ってきて、ハマスの奇襲のようなことが繰り返されるからだ」としている。

「二国家解決案」を否定し、軍事手段のみ

つまりネタニヤフ首相は、パレスチナ問題の最終的解決策として世界が期待している「二国家解決案」は、イランが影響力を持つ勢力が新たに生まれイスラエルを攻撃してくるため認めないというのである。そればかりかイスラエルの平和を実現するためには、イランの息のかかったすべての勢力を軍事的に倒すしかないと考えているのだ。

ネタニヤフ首相の頭には、かつてのイスラエルの首相が苦しみながらも挑戦した話し合いによる合意形成で平和的秩序を構築するという考えはまったくない。軍事的手段でしか平和は実現しないという極めて単純な発想で戦線を拡大しているのである。そして、それが同時に彼の権力維持の手段でもある。

昨年10月のハマスの奇襲はネタニヤフ首相にとっては屈辱的なことであったが、責任を取って辞任するのではなく、この危機を逆に生かして戦時内閣を作り、ガザ侵攻に踏み切った。国民の間に恐怖心をあおり、戦闘を正当化していった。

ガザの戦闘が落ち着き始めると新たにヒズボラという標的を作り出し求心力を維持した。一方で連立政権のパートナーである極右勢力をひきつけておくためには、彼らが主張する「停戦拒否」を受け入れるとともに、ヨルダン川西岸の入植地拡大を続けパレスチナ人に対する弾圧を緩めなかった。

もちろんネタニヤフ流の戦線拡大や権力維持に対する強い批判はある。

アメリカ政治史上、ユダヤ人として最高位の上院院内総務に就いたチャック・シューマー議員はネタニヤフ首相について、「自らの政治的生き残りをイスラエルの最善の利益よりも優先させて、道を見失った。ネタニヤフ首相が、暴力の連鎖を断ち切り、国際舞台でイスラエルの信用を維持し、二国家解決に向けて取り組むと期待する人は誰もいない」と厳しく非難している。

またイスラエルとの関係正常化の動きが取りざたされているサウジアラビアのサウード外相も「イスラエルの真の安全はパレスチナ人の正当な権利を認めることから生まれる。占領と恨みの土台の上に平和を築くことはできない」と語る。

残念ながら、こうしたまっとうな主張がネタニヤフ首相の耳に届くことはなさそうだ。

もはやアメリカの要求も無視

1948年のイスラエル独立後、中東和平問題で大きな役割を果たしてきたのはアメリカだった。

1978年にはカーター大統領が動き、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が、国交を結ぶキャンプデービッド合意を締結した。

1993年にはクリントン大統領が間に入り、イスラエルのラビン首相とPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長が、イスラエル国家とパレスチナ自治政府を相互に認めるオスロ合意を締結した。国際社会においてアメリカが圧倒的な力を持っていた時代だったからこそ実現した交渉だった。

アメリカの衰退とともにイスラエルに対する力も落ちていった。

残り任期がわずかとなったバイデン大統領は、中東和平実現をレガシー(政治的遺産)とすべく積極的に動いている。ガザでの停戦、ヒズボラとの停戦を繰り返しイスラエルに提起しブリンケン国務長官らが活発に動いた。しかし、ネタニヤフ首相はアメリカの要求を無視し、裏切り続けている。

ネタニヤフ首相は首相在職期間が通算で18年に及び、これまで4人のアメリカ大統領と付き合ってきた。アメリカ政府の要求をいくら無視してもアメリカはイスラエル支持を変えることができないと見切っている。

アメリカは歴代政権が民主、共和両党を問わずイスラエルを支持し、ハマスやヒズボラをテロ組織に指定している。またイランに対しても経済制裁を続けている。国民の多くもイスラエル支持を当然視している。

仮にバイデン大統領がネタニヤフ首相を批判し武器の提供などをストップすれば、共和党はもちろん民主党の中からも、そして多くの国民から「イスラエルを見捨ててテロ組織を支援するのか」などと批判されることは避けられない。

まして今は大統領選の終盤という微妙なタイミングである。イスラエル批判が民主党候補のカマラ・ハリス副大統領に不利に働くことは明らかである。

そればかりかアメリカは、イスラエルの戦線拡大を前に地中海やオマーン湾など中東地域への米軍の増派を進めており、和平推進とは真逆の行動を強いられているのである。

欧州も国連も、身動きが取れない

では、次々と新たな脅威を作り出し戦闘を継続するネタニヤフ首相を誰が止めることができるのか。

世界各地でネタニヤフ首相を批判するデモが繰り広げられている。しかし、ユダヤ人のホロコーストという歴史を抱えるドイツをはじめ欧州主要国は、イスラエル批判を鮮明にすることができないまま、身動きが取れないでいる。

ウクライナ戦争をめぐって欧米主要国と中ロが決定的に対立する国連は完全な機能不全に陥っている。

その結果、イランとの戦闘が本格化し戦乱が湾岸諸国まで巻き込むようなことになれば、中東からの原油供給がストップするなど国際社会も世界経済も大混乱に陥ることは必至である。

世界の主要プレーヤーが何もできない中、ネタニヤフ首相は自分の好きなように中東の危機を演出し権力を維持し続けるのであろうか。

今やネタニヤフ首相は世界で最も危険な男の一人になりつつある。

(薬師寺 克行 : 東洋大学教授)