吉原で生まれ貸本屋を営み…2025年大河ドラマ『べらぼう』主人公・蔦屋重三郎はいかにしてのし上がったか?

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2025年1月5日から放送予定のNHK大河ドラマ第64作『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の主人公である蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)は、どのようにのし上がっていったのでしょうか。

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9代将軍・徳川家重の治世にあたる寛延3年(1750)正月7日に、重三郎は丸山重助の子として新吉原で生まれました。

父の重助は尾張の出身で、母の津与は江戸生まれでした。兄弟姉妹がいたかは不明で、重助の職業がなんだったのかも不明なのですが、おそらく吉原で何らかの仕事をしていたのでしょう。

蔦屋重三郎(Wiipediaより)

ちなみに、遊郭吉原というと多くの人が遊女を連想すると思いますが、そもそも吉原は遊女屋だけで成り立った町ではありませんでした。もちろん主役は遊女なのですが、飲食業を中心に商人たちも大勢住んでいました。

享保6年(1721)の数字によると、吉原の人口は8,171人で、そのうち遊女は2,015人だったそうです。彼女たちは吉原の人口の約4分の1を占めるに過ぎず、遊女屋以外の店も多かったことがうかがえます。

で、詳しい事情はこれまた不明ですが、重三郎が7歳の時に母・津与は丸山家を出ました。

両親が離別したのを受け、重三郎は喜多川氏が経営する商家の蔦屋に養子入りすることになります。蔦屋は吉原で茶屋を営んでおり、ここに「蔦屋重三郎」が誕生したことになります。

吉原で貸本業を営む

さて、吉原で生まれ育った重三郎が自分の店を持ったのは安永元年(1772)のことです。彼は新吉原大門口の五十間道で茶屋を営む蔦屋次郎兵衛の軒先を借りて、書店・耕書堂を開店しました。

初めは鱗形屋孫兵衛が発行する『吉原細見』の販売元となりましたが、その後は目覚ましい飛躍を遂げます。翌年には出版業に乗り出し、矢継ぎ早に話題作を連発したのです。

こうして彼は出版業を急拡大させましたが、並行して貸本業も営んでいたこともとても大きかったと言えるでしょう。

江戸時代、本は高価であり、購買層は経済力がある者に限られていました。よって、庶民は貸本屋から本を借りて読むのが一般的で、レンタル料は新刊で約24文、旧刊で6文ほどでした。

当時はかけそば1杯が16文なので、新刊でもそば代ぐらいで済む計算です。本を購入するとなるとその数十倍の金額が必要となるため、貸本屋の需要は相当なものでした。

また、もともと江戸っ子は物品を所有するよりもレンタルして使うことが多く、ましてや高価な書籍をわざわざ購入するよりも、安価な貸本を利用する方が彼らにとっては当たり前のことだったのです。

そんなこともあって、本を売るだけでは書店経営は苦しく、レンタルも行うことで経営を成り立たせていたというのが実態に近いと思われます。

ガイドブック出版を独占

当時の貸本屋は各自の得意先を回りながら本を貸し出しましたが、重三郎の場合は吉原が商圏でした。彼が遊郭や茶屋などに足繁く出入りすることで、各店の事情に自然と詳しくなったのは想像に難くありません。

彼は貸本業を展開することで吉原の事情通となるとともに、吉原にコネクションを張り巡らせていき、おそらく販路の確保にも繋げたのでしょう。

重三郎が貸本業を通じて得た情報やコネクションは、出版業拡大の大きな追い風になりました。その中でも最たるものが、先に述べた通り『吉原細見』の出版を独占したことでしょう。

元文5年『吉原細見』(Wikipediaより)

吉原細見は吉原で遊ぶ際には欠かせないガイドブックのことです。その出版は貞享年代(1684~88)まで遡ることができ、これには遊女屋、遊女の名前や位付け、芸者や茶屋の名前、遊女の揚代、綾日(吉原オリジナルのイベント日)、名物などが詳細に紹介されており、毎年春と秋の年2回刊行されました。

享保中期(1720年代)以後、吉原細見の出版が盛んとなり、参入する版元も増えましたが、やがて鱗形屋の独占状態になったのです。

こうした実績を足掛かりとして、蔦屋重三郎はその商才をいかんなく発揮していったのです。

ちなみに現在の「TSUTAYA」こと蔦屋書店は蔦屋重三郎とは直接の関係はありません。しかし創業者の祖父が営んでいた店の屋号が「蔦屋」であり、それは蔦屋重三郎にあやかったものだと言われています。

参考資料:『蔦屋重三郎とは何者なのか?』2023年12月号増刊、ABCアーク
画像:photoAC,Wikipedia