(写真:Sunrising/PIXTA)

東京半蔵門にある国立劇場が昨2023年10月に57年の幕を閉じて約1年が経とうとしている。老朽化や設備仕様の古さ等を理由に建て替えが決まり、PFI(民間資金を活用した社会資本整備)の手法で、劇場機能に加え、ホテルやオフィスを建設することが検討された。

しかし、運営する民間企業を決める入札が、人件費や資材の高騰などで辞退が相次いで2度不調となり、建物は解体もせず休眠状態という異常事態が放置された(→「国立劇場」建て替え入札業者すべて辞退の裏事情 伝統芸能の聖地が再開メド立たない異常事態に)。

HISが国立劇場を活用するという魔訶不思議

そうした中で、今年7月、関係者を驚かす発表がなされた。取り壊し、建て替えるために休場中の現・国立劇場の建物を旅行会社のエイチ・アイ・エス(HIS)と協定を結び、連携して伝統芸能・文化観光の拠点として活用するというのだ。

だが、国立劇場を運営する独立行政法人日本芸術文化振興会によると、老朽化のため、「現行の建築基準法に適合しない施設、使用困難な客席および舞台設備」は使用しないという。簡単なパフォーマンスや展示などはできるだろうが、国立劇場が重要な役割を果たしてきた「伝統芸能の保存と振興の拠点」(発表文)としての活用を、このような状態で、しかも旅行事業等を行うHISに期待できるのだろうか。

また、「実際の活用施設や事業内容については、HISと協議のうえ決定」するという能天気な態度だ。

その後、再開計画そのものについても、新たに大きな動きがあった。8月21日に文化庁のHPに、「国立劇場再整備に関するプロジェクトチーム」(文科省をはじめ各省の担当官等で構成)名で「『国立劇場の再整備に係る整備計画』の改定に向けた方向性」が発表された。

ただ、急を要するこの時期に、「改定整備計画」の発表ではなく、「整備計画の改定に向けた方向性」を示しているだけだ。

変更点としては、民間収益施設の提案条件について必須としていたホテルの併設、地代設定等を自由提案とするなど、「自由度を高める」ことだ。

「再整備の基本的な考え方」は、「国立劇場の奈落にある特殊な舞台構造の更新、楽屋の狭隘解消、稽古場不足の解消、バリアフリー化などの重要な機能改善および長期的なライフサイクルコストなどの観点から、引き続き、現在の敷地において建て替えにより整備する」とした。

すなわち、現施設の改修でも、場所の移転でもなく、現地における建て替えの方針を変えていない。

当初の計画は現施設の改修だった

ちなみに、現施設の大規模改修が最適とする建築家の意見もある(2024年6月14日付朝日新聞記事における建築家・北山恒氏の見解)。

実は、当初の計画では現施設の改修が表明されていた。2016年11月にはじめて「国立劇場等大規模改修基本計画」が発表された。これは大改修を前提とする案だったが、2019年10月に設置された「国立劇場再整備に関するプロジェクトチーム」によって、民間資金を活用するPFI方式を前提とすることが公表された。

要するに、訪日客の文化観光拠点にするため、ホテルを建設した劇場にするとの考えが基本にある。これにより、現施設の改修という方針から、取り壊して建て替えるという方針に変わったのである。

この背景には、2017年に文化芸術基本法が成立し、文化や観光産業の連携方針が打ち出されたことにある。これにより、計画では本来の伝統文化継承目的に文化観光拠点の機能も加えた建て替え方式が示されたといえる。民間事業者の資金やノウハウを活かしたPFI方式を採用し、ホテルやレストラン、カフェなど民間施設も建設し、振興会が事業者から賃料を得るという案だ。

前述した昨年11月の記事では、現地で建て替えるのではなく、移転の検討をしてはどうかと提案した。半蔵門の当地は、住宅や事務所の立地としては申し分ないが、商業地としては閑散としている。それゆえにPFI方式の入札が2度も不調に終わったという面もある。

築地市場跡地に国立劇場を建設できれば、日比谷の帝国劇場・東京宝塚劇場などの東宝系劇場、東銀座の歌舞伎座や新橋演舞場などの松竹系劇場と、築地の国立劇場が線でつながり、「東京版ブロードウェイ」構想ができあがるのではという意見を紹介した。他の場所に移転となれば、そこでの工事中は現・国立劇場の建物で興行を続け、新たな国立劇場完成と同時にスムーズに移転ができるからだ。

しかしながら、8月21日の方針では現地での建て替えという考えが踏襲されている。

歌舞伎役者の中村時蔵氏は、この件に関して、本年2月16日の日本記者クラブでの、伝統芸能実演家等が長期休場の悪影響を訴えた会見で、興味深い発言をしている。

劇場の担当者に対して、「国立劇場の土地を売り払って、どこか他に行ったらどうか」と言ったら、「やはりここは国立劇場発祥の地なのでどうしても譲りたくない、動きたくない」との返答だったという。

そこで、時蔵氏は仮設劇場の設置を国立劇場側に要望したところ、はじめは、代替えは考えているとのことだったが、後で無理と言われたという。

時蔵氏は、「お金があればPFI方式でやることもない。財政が逼迫しているから、財務省も出し渋っているということもあると思います」と結局はお金の問題であるとの認識を示した。

方針決定プロセスへの疑問

筆者が気になるのは、本件にかかわる政府の方針決定のプロセスだ。

振興会において、PFI手法による事業者選定手続きを進めたが、2回の入札では事業者の選定に至らなかった。その後、2024年3月には振興会に「国立劇場再整備に関する有識者検討会」が、自民党・文化立国調査会には国立劇場建設プロジェクトチーム(PT)が設置され、それぞれから今後の国立劇場再整備に向けた提言がとりまとめられた。

また、こうした動きを受けて、本年6月に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針2024」(いわゆる骨太の方針)にようやく、「我が国の文化芸術の顔となる国立劇場の再整備を国が責任を持って早急に行う」ことが明記された。

このような状況を踏まえ、「国立劇場再整備に関するプロジェクトチーム」から8月21日に「『国立劇場の再整備に係る整備計画』の改定に向けた方向性」が発表された。すなわち、国立劇場の建て替えをめぐる実際の方針形成はこのプロジェクトチームが行っていることになる。

筆者は重要な方針決定を行う組織が単なる「プロジェクトチーム」(PT)であることに驚いている。

立法府ではなく、行政が立法案作成(政府提出法案、いわゆる閣法)や重要な政策決定や変更を行う際には、通常、恣意的な決定が行われるのを防ぎ、民意が反映されるように審議会等の有識者会議が組織され、そこに大臣が諮問し、そこでの答申を受けて大臣が決定するシステムがとられる。

しかし、本件では振興会に有識者検討会はあるものの、その上位の政府の方針決定組織がPTという軽い組織になっている。しかも、その構成員は実務レベルの官僚等がほとんどだ。

このPTは「令和元年10月7日文部科学副大臣決定(令和元年12月10日一部改正)」によるもので、「文部科学副大臣(文化担当)の主宰による、文部科学省文化庁、独立行政法人日本芸術文化振興会その他関係者間による連絡調整を行い、情報共有を図る必要がある」ため、設置するとされた。すなわち、実務者レベルでの連絡調整や情報共有が本来の目的なのだ。

そのPTが今後の国立劇場をどうするかという日本の伝統文化継承にかかわる重要な事項を事実上決定していることは、いかに国、政府、政治家が伝統芸能に理解、関心がないかを示すものである。また、発表方針表明も、主宰する副大臣名でなく、PT名であることは理解できない。

単なる東京の一劇場存続の問題ではない

第三者の立場から現状を危惧し、社会に訴えているのは、児玉竜一・早稲田大学教授だ。歌舞伎を研究し、早大演劇博物館館長を務める児玉氏は、各方面のメディアで発言し、日本記者クラブでの会見も主導した。

また、月刊「正論」2024年5月号の特集「国立劇場の再興急げ」ではメインの論考「伝統の灯消える危機感の共有を」を執筆し、国立劇場が日本の伝統の継承にいかに重要であり、このままでは10年近くも休場が続くことの悪影響を切に訴えている。

国立劇場は歌舞伎、文楽などの日本の伝統芸能の興行を主催するとともに、実演家にとっての自らの芸の最高峰の発表の場でもある。そして、甲子園球場が高校球児の、国立競技場がサッカー少年にとっての聖地であるように、そこを目指すことで人材が育つような場所でもあると説く。

筆者自身、昔、日舞の京鹿子娘道成寺の所化役で一度だけ国立劇場小劇場の舞台に立ったことがあるが、その荘厳さ、格式に圧倒されたことは鮮明に覚えている。プロにとってもアマチュアにとっても国立劇場の舞台に立つことは憧れであり、そうした経験が伝統芸能を継承していく原動力となってきたことは間違いないと実感する。

また、国立劇場は歌舞伎、文楽などの伝統芸能を担う人材を育成する研修事業(国立劇場伝統芸能伝承者養成所)を半世紀以上にわたり行っており、大きな成果をあげた。しかし、国立劇場の休場で現在は研修生の学びの場が点在していることも大きな問題だ。

国立劇場の再開は、東京の一劇場の問題というのではなく、全国の伝統芸能継承者の問題であり、ひいては全国民にとっての無形の財産である伝統芸能の存続に影響する問題でもある。

そのことが国民にも政治家や官僚にも十分に理解されてこなかったことが現在の八方塞がりの状況を引き起こしているといえる。

振興会理事長のイニシアティブも見えてこない。理事長代理は文科省官僚OBだが、理事長は総合研究大学院大学学長等を歴任した、行動生態学、自然人類学を専門とする学者の長谷川眞理子氏だ。

文科省OBの河村潤子氏の後任として、2023年4月に理事長に就任しているが、文科省は選任理由のなかで、「文化芸術以外の異なる専門分野からの視点、気付きは新鮮なものであり、科学的バックボーンを有し、社会情勢の変化に応じた芸術文化の変化にもうまく対応できる」と述べている。ならば指導力を存分に発揮していただきたい。

前述の自民党・国立劇場建設PTのメンバーである元文科大臣・永岡桂子議員は、「遅れている再整備だが、文化庁の関係者とも密に連絡を取り合い、我が国の文化芸術に資する国立劇場のあり方を求めている。これから具体化することになるが、着実に進めていきたい」と述べた(筆者取材)。政府与党の積極的な関与にも期待したい。

禍を転じて福と為す努力を

民謡・端唄演奏家の崎秀五郎氏は、「国立劇場の長期休場は、伝統芸能の現場に大きな課題をもたらす一方で、未来に向けた新たな可能性を見出す絶好の機会でもある」という(筆者取材)。

「休場期間を通じて、現代、そして数年後の想像もつかない最新技術を取り入れながら、より安全で事故のない最新の舞台装置を備えた劇場を設計し、未来の伝承者たちに受け継がせることが重要」と前向きな意見だ。

国立劇場の休場期間を極力短くする努力をしながら、それを未来の伝統芸能の発展を考えるための貴重な時間と捉え、文化の継承を旨としながら時代に合った革新を推進する必要がある。

(細川 幸一 : 日本女子大学名誉教授)