エースとして全盛期の西武を支えた渡辺久信監督代行

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 プロ野球の歴史で最低勝率は2割3分8厘。1955年に大洋が31勝99敗、58年に近鉄が29勝97敗4引分という成績で記録した。そして9月2日現在、西武は38勝79敗2引分、勝率は3割2分5厘と低迷している。29日には日刊スポーツ(電子版)が「【西武】やっっっっっっっっっっっっっっっっっとロッテに勝った!渡辺久信監督代行『長かった』」との記事を配信し、大きな話題を集めた。

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 何しろ今季の西武はロッテに0勝16敗、全く勝ったことがなかったのだ。それが29日の試合では8-0と完勝。記事によると、渡辺久信GM兼監督代行は「何とか1勝というか、長かったなという感じはします」と笑顔は見せずに振り返った──という。

エースとして全盛期の西武を支えた渡辺久信監督代行

 改めて西武の歴史を振り返ると、これは明らかに異常事態だと言える。そもそも西武は1978年、西武鉄道グループの国土計画(当時)がクラウンライターライオンズを買い取ったことで誕生した。当初は不振にあえいでいたが、1982年に広岡達朗氏が監督に就任するとパ・リーグを制し、日本シリーズも中日を破って日本一に輝いた。

 広岡監督は3回のパ・リーグ優勝、2回の日本一を果たし、1986年からは森祇晶氏が監督に就任。8回のパ・リーグ優勝、6回の日本一、日本シリーズ20連勝など異次元の強さを見せつけ、“常勝西武”という言葉が当たり前のように使われた。

 プロ野球で日本一に輝いた回数が最も多いチームは巨人で22回、それに続く2位が西武で13回だ。ちなみに両チームによる日本シリーズは話題を集めた試合が多く、今も鮮明に憶えている人も多いだろう。ここでは対戦年を監督名と共に附記しておく。敬称は略させていただく。

 1983年(広岡達朗・藤田元司)、1987年(森祇晶・王貞治)、1990年(森祇晶・藤田元司)、1994年(森祇晶・長嶋茂雄)、2002年(伊原春樹・原辰徳)、2008年(渡辺久信、原辰徳)──。

「西武は本当に強かった」

 西武は正真正銘の名門チームであるにもかかわらず、なぜ今季はここまで負け続けるのか。先に西武と巨人の日本シリーズについて触れたが、1992年と93年に西武とヤクルトで戦われたシリーズも“伝説の日本シリーズ”として今も語り継がれている。

 監督は西武が森祇晶氏、ヤクルトが野村克也氏という共に名キャッチャー出身。どちらのシリーズも4勝3敗の最終戦までもつれ込み、結果は両チームとも7勝7敗、双方が1回ずつ優勝という文字通りの激戦だった。

 92年、93年のシリーズ両方に出場した野球評論家の広澤克実氏は「当時の西武は本当に強かったです」と振り返る。

「やはり西武には思い入れがあるので、毎年必ず、最低でも1回はベルーナドーム(西武ドーム)で試合を観戦するようにしています。球場に向かうと、西武が何年に優勝したか展示しているんですね。いつ見ても本当にすごい優勝回数で、特に80年代から90年代は無敵と言っていいでしょう。改めてヤクルトとは強さが全く違ったんだなと再認識させられます」

 当時のヤクルトにとって、セ・リーグのライバルは藤田元司監督が率いる巨人と、山本浩二監督の広島だった。巨人は90年、広島は91年にリーグを制している。

打ちのめされたヤクルト

「ところが90年のシリーズで巨人は西武に1勝もできず敗れました。これには強烈な印象を受けました。ヤクルトがセ・リーグを制覇したときも、西武は圧倒的に格上のチームであり、まさに“胸を借りる”日本シリーズになると選手は誰もが覚悟していたと思います。それでも実際に対戦すると、想像していた以上に強かった。とにかく隙がない。つけ込めるところが全くないんです」(同・広澤氏)

 3勝4敗でヤクルトは負けた。接戦と言っていいはずなのだが、広澤氏は「3勝しても西武に圧倒された印象しか残りませんでした」と振り返る。

「西武は投手も打者も、そして守備も完璧で、『こんな強いチームにどうやったら勝てるんだろう?』と不思議で仕方がありませんでした。ヤクルトの選手は誰もが西武の強さに打ちのめされていましたが、たった一人、野村監督だけがシリーズを通して常に勝つ気満々だったんです(笑)。『どうやったら、あの西武に勝てるって思えるんだろう?』、『野村監督って本当にメンタル強いよな』とみんなで話していたことを今でも覚えています」

 92年の日本シリーズで西武に敗れた――。ここでヤクルトに変化が生まれる。選手たちが自分たちの手で“意識改革”を進めていったのだ。

勝っても強かった西武

「西武の圧倒的な強さを目の当たりにして、『西武に勝つには、セ・リーグの試合でまごまごしているようじゃダメだぞ』と誰もが気づいたんです。巨人と広島がライバルのままでは西武には勝てない。自分たちが桁違いのレベルアップを果たす必要があると心の底から実感し、チームが“打倒西武”で団結したのです」(同・広澤氏)

 選手たちが意識改革を果たしたヤクルトは強かった。1993年のセ・リーグはヤクルトが2位の中日に7ゲーム、3位の巨人には16ゲームの大差をつけて優勝。セ・リーグのMVPと最多安打は古田敦也氏、最優秀新人賞は伊藤智仁氏、打点王は広澤氏が獲得した。

 打倒西武を誓って再戦した日本シリーズはヤクルトの4勝3敗でリベンジを果たした。だが、やはり西武は強かったという。

「負けたときに相手チームが強く思えるのは当たり前ですが、西武の場合は自分たちが勝っても強いという印象が残りました。また変な話ですけれど、西武に優勝した後のオフは大変なことになったんです。テレビの出演依頼が殺到し、お酒の席への誘いも桁違いで、これも強い西武に勝ったからだと実感しました。少し遊びすぎてしまい、翌年のシーズンに差し障りが出たほどです(笑)」(同・広澤氏)

上司はどっちを向いている?

 やはり広澤氏の話を聞けば聞くほど、西武の現状が信じられない。一体、球団の中で何が起きているのか訊くと、「ローマは一日にして成らずという格言があります」と言う。

「勝率3割台も同じように“一日にして成らず”です。勝率3割台の責任は現場に、特に選手にはないと断言してもいいでしょう。これだけ負けるのは、選手ではなくフロントに問題があると言わざるを得ません。それも長い時間をかけて、ゆっくりとチームを蝕んでいったのだと思います。もし西武が本気でチームを立て直す気があるのなら、ドラフト、育成、チーム編成の3点が特に問題があるはずなので、抜本的な改善を行うべきです」

 広澤氏は公認会計士の藤間秋男氏が上梓した『100年残したい日本の会社』(扶桑社)を読み、文中で紹介されている企業のうち、数社を訪問したことがあるという。

「業種は様々でも、共通点があることに気づきました。それはトップから新入社員、場合によってはパートの皆さんまで、誰もが同じ方向を向いているんです。同じ目標を共有し、ごく自然に一致団結しているわけです。考えてみれば1993年のヤクルトも同じだったかもしれません。プロ野球選手には会社員と同じところがあり、『上司が誰を向いて仕事をしているか』には敏感です。西武のフロントは選手のほうを向いて仕事をしているのか、はたまた別のほうを向いているか、彼らはちゃんと分かっています。西武の選手が自然に一致団結できる環境を作れるかどうかにチームの未来はかかっていると思います」

デイリー新潮編集部