「パレスチナ問題」こんなにも複雑になったなぜ
パレスチナ問題は、「世界で最も解決が困難な問題(The world's most intractable conflict)」と呼ばれています(写真:Ahmad Salem/Bloomberg)
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻、収束が見えないガザ情勢、ポピュリズムの台頭、忘れられた危機を生きる難民……テレビや新聞、インターネットのニュースでよく見聞きする、緊迫した世界情勢。「論点」をちゃんと答えられますか?
「受験世界史に荒巻あり!」といわれる東進世界史科トップオブトップ講師で『紛争から読む世界史〜あの国の大問題を日本人は知らない』が、キナ臭さが漂う今だからこそ学ぶべき「世界の大問題」を厳選して解説。今回は「日本人が知らないパレスチナ・イスラエル問題」。
世界で最も解決が困難な問題
常に中東問題の中心であり続けるパレスチナ問題は、「世界で最も解決が困難な問題(The world's most intractable conflict)」と呼ばれており、背景説明だけで本1冊が書けるほどです。なるべく簡潔に説明をしていきます。
まずパレスチナ地方の場所をおさえてください。ここにはアラビア語を話すイスラーム教徒が多く住んでいます。彼らがパレスチナ人です。この地にヨーロッパからユダヤ教徒(ユダヤ人)が入植してくる過程を見ていきます。
(画像:大和書房提供)
19世紀末はヨーロッパの各地で反ユダヤ主義(アンチ=セミティズム)が流行した時代でした。ヨーロッパの各国でナショナリズムが高まりを見せ、国民統合のためにユダヤ人を国内の敵と見る風潮が広がっていたのです。
ユダヤ人というだけでスパイ容疑を受け、のちに冤罪とされたドレフュス事件がフランスで起きたのもこの時代です。ユダヤ人はこの迫害から逃れるためにユダヤ人国家の建設を考えます。これがシオニズム運動です。
ユダヤ人国家をどこに建設するかはいろいろ候補地があったのですが、パレスチナにユダヤ人国家を建設すると決めたのが1905年のことでした。このパレスチナにユダヤ人国家を建設するという動きを後押ししたのが、第1次世界大戦中の1917年にイギリスが発表したバルフォア宣言です。用意周到に明言を避けてはいますが、ユダヤ人国家建設を支援すると思われても当然な内容の文書です。
1930年代からパレスチナへの入植が盛んに
第1次世界大戦が終わると、パレスチナはイギリスの委任統治領となります。1930年代になってドイツにナチス政権が成立し、ユダヤ人への迫害が強まると、パレスチナへのユダヤ人の入植が盛んになります。
パレスチナは委任統治A地域(※)なので独立が決まったも同然です。ただ、その独立国家が現地に住む多数派のパレスチナ人主導のものになるのか、それとも入植してくるユダヤ人主導によるかはわかりませんでした。
※第1次世界大戦後のパリ講和会議で大戦に敗れたドイツの植民地やオスマン帝国の支配領域が戦勝国に分配される際、ただ植民地の宗主国が代わるのではなく、民族自決を前提に分配した。この植民地だったところは独立までとりあえず管理しておくこととし、これを「委任統治領」と呼んだ。委任統治領はA、B、Cの3ランクに分けられ、Aは「国民国家を形成できるけどちょっと待っててね」、Bは「国民国家を形成するにはまだ時間がかかるね」、Cは「国民国家形成はまだ無理」というもの。
第2次世界大戦終結直後のパレスチナの人口を見ると、パレスチナ人58%、ユダヤ人33%という割合でした。その間、イギリスはパレスチナにどういうかたちで独立国家をつくるか、ユダヤ人の代表とパレスチナ人の代表に様々な案を提示しますが、どれも合意に至りません。
第2次世界大戦が終結した頃から、ユダヤ人の過激派はパレスチナを委任統治しているイギリスへのテロを起こします。第2次世界大戦で疲弊していたイギリスはパレスチナの委任統治を終了し、パレスチナをどうするかは国際連合に委ねられるのです。
国際連合で議論された結果、1947年にパレスチナにユダヤ人国家とパレスチナ国家の2つを樹立することが決まりました。いわゆるパレスチナ分割案です。ただ、土地面積でいうとユダヤ人国家に56%、パレスチナ人国家に43%と、人口では少ないユダヤ人のほうに多くの面積が割り当てられるという案でした。そのためパレスチナ人にとっては到底呑めるものではなかったのです。
(画像:大和書房提供)
パレスチナ分割案を受けてユダヤ人は1948年にイスラエルの建国を宣言します。するとエジプト、シリア、ヨルダンといった周辺アラブ諸国がイスラエルに宣戦布告する第1次中東戦争が始まります。
パレスチナ人が「大災厄」と呼ぶ悲劇
この戦争にイスラエルが勝利し、イスラエル国家の存続が決定しただけでなく、どさくさに紛れて領土を拡大させます。パレスチナ人は国際連合のパレスチナ分割案を受け入れず、つまり、パレスチナ人国家は建設せずガザ地区とヨルダン川西岸地区に分かれるかたちで多くの人が難民となります。この悲劇をパレスチナ人は「ナクバ(大災厄)」と呼んでいます。
(画像:大和書房提供)
「たられば」になってしまいますが、なぜこのときイスラエルに武力による国境線の変更は認められないと国際社会はいえなかったのか? イスラエルの領土はあくまで国連分割案の国境線どおりだということになっていれば、その後の歴史は違ったものになっていたと思います。
パレスチナをめぐって再び争いが起きるのが1967年の第3次中東戦争です。このときはイスラエルがエジプト、シリア、ヨルダンに宣戦布告し圧勝しました。これによってイスラエルの領土は倍増し、パレスチナ人が多く住むガザとヨルダン川西岸地区はイスラエルに組み込まれることになります。
これも同じです。武力による国境変更なのだから、イスラエルの領土の拡大は認められないといわなければならないのです。欧米諸国がイスラエルを調子に乗せてしまったといわざるをえません。
(画像:大和書房提供)
第3次中東戦争に敗れたエジプトとシリアの逆襲戦が1973年の第4次中東戦争です。この戦争もイスラエル優位で終了し、エジプトは長年争いが続いたイスラエルと和解することを決め、1979年にエジプト=イスラエル平和条約を結んで第3次中東戦争で奪われていたシナイ半島を返還してもらいます。
(画像:大和書房提供)
エジプトがイスラエルと和解したことで、パレスチナ人の置かれる状況は苦しくなっていきました。そこで1987年にインティファーダと呼ばれる暴動がガザやヨルダン川西岸地区で起きます。そして、大きな時代の変化が起きます。それが冷戦の終結でした。
元来、パレスチナ問題と冷戦=米ソの対立に関連は強くありませんでした。しかし、解決困難な問題を解決できる可能性がある、という雰囲気をつくったのです。こうして1993年にパレスチナ暫定自治協定が結ばれます。パレスチナ人側も、イスラエル国家の存在を認めないという主張が空想であることを認めたわけです。
(画像:大和書房提供)
イスラエルはガザとヨルダン川西岸地区から1999年までに撤兵し、両地区にパレスチナ国家を樹立するというものです。1994年にはパレスチナ自治政府もつくられます。遠回りをしたあげく、1947年の国連パレスチナ分割案よりも少ない領土ですが、ようやく問題が解決したかに見えました。
出ていくはずのイスラエル軍が居座っている
ところが数年のうちに事態が悪化していきます。パレスチナ暫定自治協定を結んだイスラエル首相のラビンが1995年に暗殺されました。このあたりから、イスラエルは口では二国家共存といいながらパレスチナ人居住区(ヨルダン川西岸地区)へのユダヤ人の入植を進めていきます。一方、パレスチナ人側もイスラエルの存在を認めない急進派のハマスが力を伸ばしてきて、話し合いでの解決が困難になっていくのです。
2000年になると、イスラエルでのちに首相となるシャロンがイェルサレムにあるイスラームの聖地に足を踏み入れたことをきっかけに第2次インティファーダが始まります。パレスチナ自治政府内では穏健派のファタハと急進派のハマスの対立が激しくなり、2007年にはハマスが統治するガザと、ファタハが統治するヨルダン川西岸地区に分裂していきます。
パレスチナ暫定自治協定では1999年までにイスラエル軍はパレスチナ人居住区から撤兵する予定でした。ところが撤兵したのはガザのみでヨルダン川西岸地区では行われていません。現在でもヨルダン川西岸地区の6割がイスラエルの支配下に置かれています。
(画像:大和書房提供)
地図を見ればわかるようにヨルダン川西岸地区でパレスチナ人居住区は周りをイスラエルに囲まれ隔離された状態になっています。アパルトヘイトと呼ばれる黒人隔離政策をとっていた南アフリカとまったく同じです。つまり、イスラエルのパレスチナ人へのジェノサイドといっても過言ではないでしょう。
2023年に起こったイスラエルとガザの紛争において、もちろん双方ともに言い分はあるのでしょうが、最低でもパレスチナ暫定自治協定の時点に戻って考えれば、イスラエルに非があるように思えるのです。皆さんはどうお考えですか。
(荒巻 豊志 : 東進ハイスクール講師)