異例の決定をした大阪高裁(写真:けいわい/PIXTA)

大阪高等裁判所(村越一浩裁判長)は8月8日、不動産会社プレサンスコーポレーションの元社長である山岸忍氏の元部下に違法な取り調べをしたとして特別公務員暴行陵虐罪で告発されている検事(当時は大阪地検特捜部検察官)を、審判に付する旨の決定(付審判決定)をした。

犯罪があった場合に捜査をして訴追をする検察官が、取り調べにおける言動を理由に刑事裁判の被告人になるということは前代未聞である。いったい何があったのか。

机を叩く、大声で怒鳴る、侮辱的な発言を行う…

大阪高裁によると、検事は取り調べの際に、

「既に収集していた証拠(メモ)と整合しない供述をし、なお弁解を重ねようとしたK(編集部注:Kは山岸氏の部下)に対し、その話を遮るように、机を叩いた」(付審判請求の抗告認容決定文より抜粋)

「約50分間にわたりほぼ一方的に責め立て続け、約15分間は、大声で怒鳴り続けており、その発言内容も、Kを執拗に責め立てて、虚偽供述があるはずである、証拠は十分で、責任は逃れられないなどと述べ、威圧的な言葉を交え、Kの人間性に問題があり、あるいは、その人格を貶める趣旨の侮辱的な発言を行う」(同)

といった行動をとっており、

「Kから事実を引き出す前提のやり取りというより、威迫して、検事の意に沿う供述を無理強いしようと試みていると評価できる」(同)

「そのような言動に出る必要性も相当性も見出せないのに、机を叩き、その後一定時間にわたって怒鳴り、時には威迫しながら、Kの発言を遮って、長時間一方的に同人を責め立て続けた検事の一連の言動は、陵虐行為に当たり、検事には、特別公務員暴行陵虐罪の嫌疑が認められる」(同)

という。

さらに補論として、かつて大阪地検特捜部における一連の不祥事を受けて「検察の在り方検討会議」が立ち上げられ、平成23年3月に「検察の再生に向けて」という提言が取りまとめられ、取り調べの録音録画が法制化された経緯などを指摘したうえで、

「今回の事案が、上記のような経緯を経て導入された録音録画下で起きたものであることを考えると、本件は個人の資質や能力にのみ起因するものと捉えるべきではない。あらためて今、検察における捜査・取調べの運用の在り方について、組織として真剣に検討されるべきである」(同)

と警鐘を鳴らしている。

筆者は弁護士として、刑事事件で被疑者・被告人を弁護する立場の弁護人として刑事裁判に関与してきた。今回の事件を契機に改めて、憲法上保障されている黙秘権の意義、刑事事件の捜査における取り調べのあり方について考えてみたい。

取り調べ依存型の捜査観が招いた今回の事件

これまで長い間、日本では、警察によって逮捕されたら長時間の取り調べが行われることが当然視され、取り調べによって犯人から自白を獲得することが捜査における最重要課題とされ続けていた。その結果、数多くの冤罪事件が生まれてきた歴史がある。

今回の事件における検察官による犯罪的な取り調べも、そのような取り調べ依存型の捜査観が招いた事件ともいえる。

日本国憲法では黙秘権が権利として保障されているが、日本型の取り調べ依存型の捜査は、本来、権利として保障されているはずの黙秘権を軽視ないし無視することにより成り立ってきた。

日本国憲法38条1項は「何人も、自己に不利益な供述を強要されない。」と定めており、これは一般に黙秘権と呼ばれている。警察や検察における取り調べの際にも、当然に黙秘権が保障されている(刑事訴訟法198条2項)。

黙秘権がなぜ犯罪の疑いをかけられた被疑者に保障されているのか、疑問に思う人もいるかもしれない。

犯罪を実際にしてしまったのであれば、正直に罪を認めて洗いざらい話して謝罪、反省をしたほうがいいのであり、また、もし犯罪をしていない、冤罪なのであれば、きちんと自分は無実であることを主張して真実を話せばいいのではないかと考えるかもしれない。

しかし、憲法は黙秘権を権利として保障している。憲法が保障しているという意味は、法律によっても黙秘権を廃止したりすることは許されないという点にある。黙秘権には極めて強い保障が与えられているのである。

この理由はいろいろあるが、端的にいって、それは歴史的にみて「黙秘権がないと公平な刑事手続が行われないから」という点にあると筆者は考えている。

素朴に考えても、例えば、日常生活において何かミスをして誰かからきつく叱られたとき「どうしてこんなことをしたの!! 理由を言いなさい!!」などと何か言うことを強く要求される場面を思い浮かべてもいいかもしれない。

このような場面では、何を話しても相手の逆鱗に触れる可能性が高く、何を言っていいのかわからない事態に陥ることも少なくない。そういうときにもし黙秘権が権利として保障されていれば「黙っていること」「何も言わないこと」を正当化してくれることになる。

とにもかくにも権利として保障されている以上、話さなくていいのだ。これは、このような何か発言を求められ追及されている立場の人間にとっては救いとなる。

供述調書には話したことがそのまま記載されない

取り調べの場面での黙秘権の意義を考えてみると、まず大前提として警察や検察での取り調べでは被疑者が話をしたことがそのまま供述調書には記載されないということを忘れてはならない。

警察官や検察官は、長時間かけて被疑者から話を聞き出すが、刑事裁判で証拠になる供述調書には取調官が必要と思われる事項だけが記載される。

もちろん、実際に取調室の中で行われるやりとりは話題があちこちに飛んだり、供述自体がまとまりのないものであったりすることがほとんどなので、話したことがそのまま調書に記載されなくても要領よく事実関係がまとまっていれば、記載内容に誤りがないかぎり、特段問題はないともいえる。

しかし、冤罪事件などで問題となる供述調書は、本人が言ってもいない虚偽の事実が平然と記載されていたり、本人が供述したのとは異なるニュアンスの表現に書き換えられたりしていることが多い。

よく供述調書は捜査官による「作文」であると批判されることがあるが、これは誇張でもなんでもなく、実際に取り調べの現場で行われている供述調書が作られる実態を知る者にとっては、もはや常識といってもよい事実である。

このような供述調書作成の実態を知れば、取り調べにおいて供述をすることには被疑者・被告人にとっては何のメリットもないことがわかる。

犯罪をしてもいないのに逮捕されてしまった場合は、やってもいない犯罪について虚偽の自白調書が作成されてしまうリスクが高まることになるし、実際に犯罪をしてしまった場合であっても、話したことがそのまま供述調書に記載されることはなく必要以上に悪く書かれてしまう危険がある(取り調べの場で反省、謝罪を示すことができなくなると心配する人もいるが、反省や謝罪は取り調べでする必要はなく、それ以外の場でも反省、謝罪をすることは可能である)。

取り調べは本来拒否してもかまわない

弁護士や学者の間では常識的な話ではあるが、一般にはあまり知られていないし、現実の捜査現場でも無視されている考え方がある。それは、

「憲法、法律に照らせば、取り調べは本来拒否してもかまわない」

という考え方だ。これは専門的には「取調受忍義務否定論」と呼ばれているものだが、前述した黙秘権の考え方に照らせば、むしろ、自然な考え方であるともいえる。

黙秘権というのは取り調べに対して終始黙っていてもいい権利であり、発言をすることを強いられない権利なのだから、最初から一貫して「私は黙秘権を行使する。取り調べに対しては一切の供述をしません」と宣言している被疑者に対して供述を強制することは許されない。

そうであれば、黙秘権を行使している被疑者を取調室に連れて行き、長時間にわたって質問攻めにすることは、黙秘権を保障した意味を無にするものではないかという疑問が出てくる。

黙秘権が保障されている以上、逮捕勾留された被疑者が取調室に連行されて取り調べを受け続けることを法的に強制すること(=取調受忍義務を課すこと)は許されないのではないかと取調受忍義務否定論は考えるのである。

この取調受忍義務否定論は、弁護士や学者の間では根強く支持されている見解であるが、現実の警察、検察の捜査実務では、これとは真逆の取調受忍義務肯定説という考え方が確立している。

一般の方々の多くも、犯罪が発生して容疑者(被疑者)が逮捕されたら当然に警察による厳しい追及、取り調べが行われるものと期待しているだろうし、被疑者が黙秘権を理由に取り調べを拒否することなどありえないと思っているであろう。

しかし、冤罪を生み出さないために歴史的に形成され、憲法でも保障されている黙秘権という権利の重さに加え、現実にも、今回のプレサンス事件のような取り調べが起きてしまっていることを考えるならば、取り調べを拒絶することができる権利をきちんと確立することがやはり必要ではないだろうか。

いわゆる郵便不正事件に端を発した検察による一連の不祥事を受けて、取り調べに過度に依存した捜査の在り方が改められ、取り調べの可視化、取り調べの録音録画が制度化された。しかし、今回のプレサンス事件の検察官による取り調べは録音録画されている中で起きた事件である。つまり録音録画されても違法な取り調べはなくならない。

今回のような取り調べは氷山の一角

今回のような取り調べがなされないためには、取り調べに弁護人を立ち会わせるというのも1つの方法であるが、より根本的には、黙秘権を権利として機能させることが最も重要だと筆者は考えている。

黙秘権は、まさに今回のような人格を無視した取り調べから被疑者の身を守るためにこそ機能すべきである。そのためには、取調受認義務は否定されなければならず(取調受忍義務否定論)、黙秘権を行使したら、それ以降、取り調べをすることは許されないという運用が確立されるべきである(黙秘権の取調遮断効)。

今回のような取り調べは氷山の一角であり、1人の検察官の不祥事で済ましてはならず、検察庁という組織の問題としてとらえるべきだ。大阪高裁の決定は「被疑者を厳しく取り調べて自白をさせる」という伝統的な日本の刑事司法における捜査手法に対して厳しく反省を迫ったものであり、今後の検察庁の対応が問われている。

(戸舘 圭之 : 弁護士)