美容師志望→阪神ドラ1に「バカたれ、考え直せ」 監督から説教…決まっていた進学先
元阪神ドラ1の的場寛一氏は高校卒業後、美容師を目指すつもりだった
野球とは違う世界に進む可能性もあった。元阪神ドラフト1位の的場寛一氏は1996年、愛知・弥富高(現・愛知黎明高)から九州共立大に進学した。そこで大学球界ナンバーワン遊撃手と言われるまでに成長するが、1995年高校3年春の段階では、野球は高校までと考えていたという。「美容師になるつもりで専門学校のパンフレットを取り寄せていたんです」。恩師の弥富・金城孝夫監督に止められなかったら、その時点で野球人生が終わるところだった。
的場氏は弥富高で1993年の1年秋からレギュラーになった。だが、2年夏は愛知大会中に左膝を痛めて、リタイア。病み上がりの2年秋は「1番・遊撃」で起用されたが、怪我の影響もあって結果を残せなかった。そんな頃だったという。「進路を考えた時に、美容師になりたいと思ったんです。同級生に美容師さんの息子がいて、すごく羽振りがよく見えて、もう野球は高校でお腹いっぱい。野球より、そっちを目指す方がいいんじゃないかってね」。
そのことで兵庫・尼崎市の実家にも電話を入れたという。「親にも高校を卒業したら美容師になるための専門学校に行きたいって言いました」。ところが、高校3年の春先にそれにストップがかかった。「高校の(金城)監督に監督室に呼ばれたんです。そこで『お前、進路をどうしたいんだ』って聞かれたので『野球はやめて美容師の専門学校を考えています』と言ったら、怒られました。『バカたれ、考え直せ』ってね」。
的場氏は金城監督に言われたことを両親にも伝えたそうだ。「そしたら母が『ああ、よかった。アンタが専門学校に行きたいって言った時、お父さんは無茶苦茶、暗くなっていたんやで』って。それを聞いて“ああそうなのか、お父さんもおじいちゃんも僕に野球を続けてほしいんやな”と思って、その方向で考えようとなったんです」。美容師の道へ進みかけていた気持ちを、もう一度、野球に引き戻したわけだ。
そして話は急展開した。「監督に『やっぱり野球。もしも続けられるのなら、続けたいです』と言いに行ったら『当たり前だろ、お前はもうここに決まっているんだ。九州共立大だ』って。僕は『できたら(実家に近い)関西(地区)の大学でやりたいです』と言ったんですけど『お前みたいなのが関西でできるか。九州共立大は特待で準備するからと言ってくれている。こんなありがたい話はないから』と言われて……」。
高3で才能開花…中日が下位指名を検討したという
九州共立大の仲里清監督はその数日前に弥富の練習を見に来ていた。「その日、僕は仲里監督にティーバッティングを見てもらって、今までポイントを前で打っていたのを、軸足の方にしっかり乗せて打つように指導された。『これを続けていたら君はドラフト1位になれる』って言うから、何言っているのかな、このオッチャンって思いましたけどね。仲里監督は金城監督に『あのショートが欲しい』って言ったそうです。それで九州共立大行きが決まっていたんです」。
両親もこの進学案について「まぁええんちゃう」と賛成してくれたという。「『本当は関西に帰ってきてほしいけどなぁ』とのやりとりもあったんですけど、九州共立大にお世話になることに決めたんです」。美容師話から一転して一気に進路が確定。的場氏は仲里監督に指示された練習も続けた。それもよかったのか、進路が決まった頃から、調子も上がり、プロのスカウトが的場氏を見に来るようにもなったという。
「3年になって上下関係もなくなってのびのび。3番ショートで、とにかく自分を磨いた。何かものすごく充実していたし、すごい伸びたと思います」。1995年の3年夏は愛知大会準決勝で享栄に0-14で大敗。「負けた試合は確かタコったんですが、その前(の2回戦から準々決勝)までは全部2安打以上で、打率は5割を超えていたと思います」。肩も強く、足も速く、まさに急成長だったが、その時は九州共立大進学も決まっていたわけだ。
「大学に入ってから、高校の時に中日が下位指名を検討していたと聞きました。でも高校の金城監督は、まだ体ができていないし、大学でワンクッション置いてから、プロに行かせるのがいいと思って断ったそうです」と的場氏は話す。「中日の話を『黙っていやがって』とかも思いませんでしたよ。もうその頃は大学の仲里監督の下で、さらにパワーアップして一花咲かせたいって考えていましたからね」と笑みも浮かべた。
弥富・金城監督との出会い。九州共立大・仲里監督との出会い。それは的場氏の野球人生には欠かせないものだった。「実際に大学から(1999年の阪神ドラフト1位で)プロにも行けたし、言われた通りに進学してよかったと思っています」と話した。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)