(写真:ロイター/アフロ)

3月17日のプーチン大統領の大統領選挙勝利宣言からわずか5日後の22日に、モスクワ郊外のコンサートホール「クロックス・シティ・ホール」で凄惨なテロ事件が発生した。捜査委員会によれば、死者は24日時点で137人に上った。

容疑者11人は23日にウクライナ国境の手前100キロほどの地点で拘束され、その中に実行犯4人が含まれていたことが連邦保安局によって発表された。すでに裁判が開始され、24日時点で2人は罪を認めている。ただし、金銭目的でやったとしており、誰の指示だったのかなど、詳しい事件の背景は今後捜査が進められる。

アメリカ政府は、今回の事件は「イスラム国(IS)」によるものと見ている一方、ロシア政府はこれに懐疑的な見方を示している。それぞれにとって「都合のいい・悪い犯人」は誰なのか。

アメリカによる警戒情報との関連性

今回のテロ事件は、大統領選挙直後に行われたという点で、プーチン政権に対する挑戦、挑発という意味合いが推察される。

モスクワのアメリカ大使館は3月7日時点で、モスクワで過激派によるテロ事件が計画されている可能性について警戒情報を発出しており、今回のテロ事件との関連性について臆測を呼んでいるが、詳細は不明だ。

関連性があるとすれば、今回のテロは大統領選挙前に実施される計画だった可能性もあるだろう。そうだとすれば、テロ行為の目的は、ロシア国内を混乱させ、プーチン政権の威信を失墜させようとしたものだったことになる。

さらに事件後、アメリカCNNなどは、イスラム過激派であるイスラム国(IS)に関連した通信社であるアマーク通信を通じて、ISが犯行声明を出したと報じ、『ニューヨーク・タイムズ』もアメリカ政府関係者の話として、アフガニスタンを拠点とするISIS-Kと呼ばれるグループの仕業だと報じている。ただし、前述のアメリカ大使館の警戒情報の時点では、ISに関する言及はなかった。

「ISが犯人」は本当なのか

確かに、ISはロシアのプーチン政権を憎んでいる。2013年、シリア内戦にロシアが介入し、空爆によりシリア国内のIS勢力に甚大な打撃を与えたことで、シリアのアサド政権は、ISの支配地域を奪回することに成功したからである。ただ、疑問が残るのは、アフガニスタンに拠点を置くISの1グループが、モスクワでこれだけの規模のテロを実行する目的は何かという点である。

もちろん、ISのような過激派武装組織の行動原理をわれわれの基準で判断すること自体が誤りかもしれない。しかし、仮にISIS-Kがプーチン政権の威信を低下させたとして、ISの支配地域をシリアなどの中東地域で拡大することにつながるだろうか。そうした実質的な成果にはつながりそうもない。

また、ロシアは中東において、イランやシリア、エジプト、イスラエルとも良好な関係を築いており、アメリカのように中東各地で敵視されているというわけではない。つまり、ロシアを標的にしたところで、アメリカを標的にした9.11の同時多発テロのような象徴的な意味を持つわけではなさそうだ。

確かに、ロシアには国内にテロリズムとの戦いという大きな課題がある。チェチェンをはじめとするイスラム過激派との戦いがそれだ。

1990年代後半から2000年代にかけて、プーチン大統領はチェチェン内戦を主導していた。前述の2010年モスクワ地下鉄爆破テロ以前にも、2002年モスクワ劇場占拠事件、2004年ベスラン学校占拠事件といった大規模なテロを経験し、多大な民間人犠牲者を出しているのだ。

だが、今回の事件はロシアのイスラム過激派との関係については何も情報がない。政治的な声明もなく、拘束された容疑者も金目的にやったと自供しており、チェチェンやISといった過激派の行動パターンとは大きく異なっている。犯人がISやチェチェン独立派であれば、金目的のケチな犯罪者を雇って実行するだろうか。犯行声明自体の信憑性が疑われる理由である。

ロシアはウクライナ関係者の犯行を疑っている

事実、ロシア政府はアマーク通信で流された犯行声明について何も言及しておらず、犯行声明自体に信をおいていないようだ。ロシアはむしろ、ウクライナ関係者の関与を疑っている。

例えば、メドヴェージェフ安全保障会議副議長は、「もしこれがキエフ政権のテロリストだとしたら、国の要人であったとしても見つけ出して抹消する。死には死を持って償わせる」と強い調子で述べている。

一方、ウクライナのポドリャク大統領補佐官は、ウクライナの関与を即座に否定している。それどころか、この事件がロシアによって、戦争のプロパガンダの強化、軍国主義化の加速、動員の拡大、そして最終的には戦争の開始の正当化に使われることは疑う余地がないとまで述べている。

ウクライナ側は、今回のテロリズムがウクライナに結び付けられて、報復の口実とされ、最悪の場合は開戦理由とされることを恐れているのである。これこそが、ロシアによる自作自演説が生まれる理由ともなっている。

それはともかく、ウクライナにとって最悪なのは、ウクライナ政府の正式な指示とは無関係に、ウクライナ側の何らかの勢力がテロリズムに関与しているという事態だ。

例えば、2022年9月に起きたロシアとドイツをつなぐ海底ガスパイプライン「ノルドストリーム」の爆破事件の際、実行犯についてはロシア自作自演説など諸説が流されたが、昨年11月、実はウクライナ特殊作戦軍の大佐だったという調査報道をアメリカのワシントンポストと、ドイツのシュピーゲルが報じている。

さらに、同年11月にはポーランドにミサイルが落下した事件で、ウクライナ側は即座にロシアを非難したが、実はウクライナ側のミサイルだったことが判明したこともあった。

ウクライナ関係者による犯行で困るのは…

今回のテロ事件で仮にウクライナ側関係者の関与が明るみに出れば、国際社会のウクライナに対する支持が揺らぐだろうし、何よりも、ポドリャク補佐官が言うように、ロシアが軍事作戦のレベルを強化する可能性もある。

ハマスが人質を取ったことに対してイスラエルが過剰報復をしていることをアメリカやドイツは支持しているが、万が一モスクワの銃撃テロがウクライナ側の関係者であった場合には両国はどのように反応するべきだろうか。

その意味でもアメリカにとって、テロの実行犯は決してウクライナであってはならず、ISであるほうがいいということは間違いない。そうだとすると、アメリカメディアが政府高官の話としてIS犯行説を報じているのもうなずける。

しかし、残念ながら肝心のプーチン大統領はウクライナの関与を強く疑っているようだ。プーチン大統領は23日午後、容疑者の拘束を受けて、国民向けに談話を発表した。

その中で、「テロの実行犯は拘束された。彼らは逃亡しようとしてウクライナのほうに移動していた。現時点での情報では、国境を越えるための通路がウクライナ側によって実行犯のために用意されていた」と述べ、さらに今回のテロ行為をナチスが占領地域で行った処刑のようだと述べた。

ちなみにプーチン大統領はゼレンスキー政権をナチズムだと非難している。そのうえでテロリストの背後にいるものを見つけ出すとの決意を繰り返し、テロリストの背後にウクライナの存在をほのめかしている。

犯人が本当にISだった場合

しかし、仮に犯人が本当にIS(アフガニスタンのISIS-K)だった場合には、ロシアはより複雑な対応を迫られることになる。ウクライナにおける軍事作戦を引き続き実行しながら、ISIS-Kへの報復をするとなれば大変である。

9.11に際してアメリカはアルカイダを支援したとしてタリバンに戦争を仕掛けた。しかし、現在タリバンはISIS-Kと対立関係にあるため、ロシアはむしろタリバンとの協力に踏み込むことになるのか。

しかし、ロシアでタリバンはテロ支援国家として非合法化されているため、それも困難と思えるが、敵の敵は仲間という国際政治の常套手段が使われるかもしれない。いずれにせよ、ロシアにとってテロリストがISだったというシナリオは、まったく新しい敵を相手にすることになり望ましくない。

現状ではさらなる捜査結果を待つしかないが、現時点で言えることは、アメリカにとって犯人はISであるほうがよく、ロシアにとって犯人はウクライナであるほうがいい。そして、ロシアの捜査当局は犯罪者たちがウクライナでコンタクトをとっていたとしており、ISが主犯だった場合でもウクライナの関与が疑われることになる。

さきほどのプーチン大統領のナチス発言と、ウクライナの非ナチ化というプーチン大統領が掲げる侵攻目的を考えれば、今後、停戦交渉どころか、ゼレンスキー政権の打倒という具体的な目的が掲げられる可能性も出てくるだろう。

(亀山 陽司 : 著述家、元外交官)