日ハム時代の大谷翔平が語っていた確かな「予測」
日本ハム時代の大谷翔平(写真:共同通信社)
日本ハム時代から大谷翔平を10年以上追い続け、8度の単独インタビューを行ったスポーツニッポン新聞社MLB担当記者の柳原直之氏。同氏によるノンフィクション『大谷翔平を追いかけて 番記者10年魂のノート』から抜粋、3回に渡って紹介します(一部・加筆しています)。
第1回は、「2013‐2015シーズン 大谷翔平との出会い」です。
プロ入り後初めて侍ジャパンに選出
2014年11月の日米野球では日本代表に初選出され、プロ入り後初めて侍ジャパンのユニホームに袖を通した。2試合に投げ計5回6安打2失点(自責点ゼロ)。
2度目の登板は本拠地札幌ドームが舞台で、直球が最速160キロを計測し、最も対戦を楽しみにしていた外野手のヤシエル・プイグ(当時ドジャース)から3打席で2三振を奪った。「楽しかったです。すごく積極的に振ってくる怖さを感じた部分はあったけど、(今、自分が)持っているもので勝負ができた」。
札幌ドームの関係者出口に急きょつくられたミックスゾーンで屈託のない笑顔を浮かべる大谷を見て、こちらまでうれしくなった。
日米野球も終わり、オフに突入した12月2日には、後にも先にもこの時しかない"レア"な体験をした。
スポニチフォーラム制定「FOR ALL 2014」(スポーツを通じて社会貢献や地域振興に寄与、または日本を元気づける顕著な働きをした個人、団体を表彰)で、大谷がグランプリを獲得。私は主催社であるスポニチを代表して、練習後の鎌ケ谷から表彰式会場の東京ドームホテルまでタクシーに同乗。車内で大谷に単独インタビューすることを許された。
徐々に日が暮れる夕方の移動だった。車内は徐々に真っ暗になり、準備していた質問案の文字がなかなか読めず、悪戦苦闘。大谷に何度も「何してんすか!?」と大笑いされた。
一方、その車内で大谷の警戒心を疑う出来事もあった。
インタビュー前に自身のスマートフォンに見知らぬ電話番号からかかってきた際に「もしもし。どなたですか?」と急に通話し始め、「スーパースターなのに大丈夫か!?」と、こちらが心配になった。調子に乗ってLINEを聞いたら「ダメですよ。青木さん(当時日本ハム広報)を通して下さい!」と笑われ、その様子に聞き耳を立てていたタクシーの運転手にも大笑いされた。
兎にも角にも、通常なら40分程度の道のりが渋滞のため、1時間ほどかかったのも幸いだった。異例の単独ロングインタビューはなんとか無事に成功した。
160キロが普通になる時代が来る
印象的だったのは、体づくりに関する質問に対して「理想は(体が)細くて、重くて、長くて、しなる棒のイメージ。それを速く振れば、当然、速い球を投げることができる」と、独特な言い回しで説明していたこと。そうかと思えば、「160キロ以上を投げないと(観客に)拍手されなくなった」と苦笑いを浮かべるなど、ざっくばらんに話をしてくれた。
さらに「いつかは、それ(160キロ)が普通になる時代が来る」と言い切っていた。「本当に?」と半信半疑だったが、後の佐々木朗希(ロッテ)らを目の当たりにして、的確な予測だったと今にして思う。
物事を俯瞰して見ることができる能力は当時から図抜けていた。
表彰式後には、球団の計らいもあり、主催社を代表して、ホテル近郊の焼き肉屋で大谷らと合流することもできた。もちろんその場では、取材ノートとペンはバックパックの中にしまい、完全プライベートを尊重。
もう20歳になっていたが、アルコール飲料を断り、ウーロン茶を飲んでいる姿を見た時は「日本ハムのチームメートたちの言う通りだ」と、自然とうれしくなった。もう既にスーパースターだったが、その笑顔はどこにでもいる20歳の青年だった。
同じ12月には、翌2015年の元日紙面用の特別企画として、鎌ケ谷の勇翔寮で大谷と当時スポニチ評論家だった石井一久氏との対談が実現し、私が司会進行を務めたこともあった。
2人の口調が熱を帯びたのは、「ピーク」についての考え方だった。
石井氏:「僕がメジャーに行ったのは28歳だけど、自分の中ではタイミングがひとつ遅かった。ピークってそこじゃないでしょ? 多分、もうちょっと前。大谷君は自分のピークはどう考える?」。
大谷:「肉体的にはやっぱり26歳とか27歳なのかなと。でも、技術とかみ合うという意味では27歳から30歳くらいかと感じています」。
後に大谷は27歳の2021年、29歳の2023年に史上初めて2度の満票でア・リーグMVPを獲得。大谷がいかに自己分析能力にも長けているかが分かる。
プロ野球担当1年目、大谷担当1年目として激動の2014年は、こうしてあっという間に終わりを迎えた。
シーズンの目標を表す漢字は「翔」
年が明けて2015年1月5日。日本ハム入団3年目を迎える大谷の鎌ケ谷自主トレ公開日。大谷はシーズンの目標を表す漢字として、自身の名前「翔平」の1文字でもある「翔」を選んだ。
「羊に羽を付けて"翔"にしました。ひつじ年の今年に羽ばたくという意味。去年の成績を超えたい意味もあるし、自分が納得できる年にしたい」
これまで大谷は2年連続で「勝てる投手になりたい。チームに勝ちをつけたいという意味」で「勝」を選んできた。2014年はプロ野球史上初の同一シーズンでの「2桁勝利&2桁本塁打」を達成。2015年は「15勝&打率3割」というさらなる目標を設定し、その先にチームのリーグ制覇を見据えていた。
2014年はソフトバンクとのCSファイナルステージで、あと1勝で日本シリーズ進出を逃しただけに、「話を聞くと面白そうなので、"ビールかけ"をやってみたい」と、秋に味わう勝利の美酒を思い描いた。
1月8日には"大谷らしい"出来事があった。
新年初ブルペンの時期が注目される中、大谷は報道陣に「ブルペン入りはいつにするか決めていません」と話した。だが、打撃練習を終えて合宿所に戻った約1時間後に再び室内練習場に姿を現し、ブルペン投球を始めた。
この日は、前年秋にドラフト1位指名された有原航平(現ソフトバンク)ら新人7選手の入寮日。大谷のブルペン入りは、室内練習場の様子が見えないグラウンドで、多くのメディアが新人選手を待ち構えているタイミングだった。
同日はスポニチを含む多くの担当記者が「1人体制」だったため、大谷の新年初ブルペンの取材を逃す結果に。練習を見られることが苦手だった当時の大谷からしてみれば、狙い通りメディアを撒くことに成功した。
私は「絶対、このタイミングを狙ってブルペンに入ったな〜」と、他紙の記者と笑い合った。
大谷が「20歳の誓い」で語ったこと
この3日後の1月11日。大谷は岩手県奥州市の成人式に出席した。驚いたのがこの時の会見だった。
あるメディアから「20歳の誓い」を求められると「"義務も権利"も出てくる。私生活もそうですし、そこを大事にしたいです」と、力強く語った。義務も権利も考えたことがなかった20歳の頃の自分が恥ずかしい限りだ。
20歳になれば当然、社会人としての責任も増える。勤労、納税という義務を果たす一方で、選挙権(当時)も与えられる。
では、プロ野球選手として夢と希望を与えるプレーを見せるために何ができるか。大谷なりに野球人としての「義務と権利」を考えていた。
「一塁まで全力疾走することは打者の権利でもあり、試合に出ていない選手のために走る義務でもある。試合に出る以上はそこを大事にしたい」
出した答えは「全力疾走」だった。尊敬する稲葉篤紀氏のモットーでもある。
大谷自身も、花巻東時代から凡打しても一塁後方の芝生の切れ目まで駆け抜けるよう指導されるなど、全力プレーへの意識は高い。
将来に見据える「170キロ超え」についても質問が飛んだ。夢の大台。「球速に関するこだわりは年々減ってきている」としたが、「誰しもが無理と思う数字。でも直球は持ち味で一番の長所なので目指す価値はある」と言った。
肩を小突き合い、談笑する姿は20歳の青年そのもの。スポーツ紙のプロ野球担当記者にとって成人式は、高卒若手選手の取材の定番のひとつだが、大谷がグラウンドを離れても「義務と権利」という言葉の力で異彩を放っていたのは言うまでもない。
(柳原 直之 : スポーツニッポン新聞社MLB担当記者)