タイ育ちの少女が大阪で見つけた夢と「居場所」
「Minamiこども教室」が活動する大阪市の島之内地区。外国籍の住民が約3割を占め、中国語や韓国語の看板も多く見られる(写真:筆者提供)
大阪市中央区島之内は、住民約6000人のうち3割以上が外国籍で、日本でも屈指の「移民集住地域」だという。親の両方、もしくはいずれかが移民という外国にルーツを持つ子どもたちは近くの小学校に入るが、言葉やさまざまな問題を抱え、厳しい状況に置かれている。
2012年に外国籍の女性が我が子を殺害し、自らも命を絶とうとした事件をきっかけに、外国にルーツを持つ家庭支援の一環で生まれたのがボランティアによる学習支援の場「Minamiこども教室」。
新聞記者として取材で訪れたことをきっかけに、この教室でボランティアを始めた玉置太郎氏の著書『移民の子どもの隣に座る 大阪・ミナミの「教室」から』より一部を抜粋・再編集し、ある少女の成長の記録を3回にわたってお送りする。
本稿は1回目です。
ボランティアで教室へ
「ボランティアのタマキ」になる――。
それが、Minamiこども教室に通い始めた私にとって、当面の目標だった。
毎週火曜の夕方になると、「取材に出ます」と称して会社から行方をくらませ、島之内へ向かう。そして子どもの隣に座って、勉強をみる。
「新聞記者の男」ではなく「ボランティアのタマキ」として、子どもや他のスタッフに認識してもらえるよう、ただ教室に通った。そこから教室との関係を築くことが、それまでの自転車操業のような記者活動に対する、自分なりのアンチテーゼだった。
子どもとのコミュニケーションの熟練度については、そこらの会社員には負けない自信があった。私はプロテスタントのクリスチャンなのだが、大学生だった4年間、教会の日曜学校で小学生担当のスタッフをした経験がある。毎週日曜の朝、教会に集まってくる小学生と一緒に遊び、夏にはキャンプへも行った。
そのころ体得した「子どもの心をつかむコツ」は、姿勢も意識も子どもと同じ目線になろうとすること。Minamiこども教室でも先生ぶらずに、子どもの相談には心の底から応じ、おふざけには全身全霊でリアクションした。大人目線であしらうことを、自らに禁じた。
そのうちに、子どもからは「先生」ではなく「タロー」と呼ばれるようになる。なめられつつも、親しみをもってもらい、徐々にボランティアとして定着していった。
私は小学5・6年生の担当に加わった。合わせて10人ほどの子どもが通ってきていて、特に元気で騒がしい学年だった。
その中に、メイという6年生の女の子がいた。
にぎやかで自己主張の強い子が多い教室の中では、比較的落ち着いたお姉さんだった。話していても日本語には全くよどみがない。
学習面では国語に少し課題があったが、教室に来るとまじめに机に向かった。遠足や調理実習といった教室のイベントでは、年下の子の面倒をよくみてくれた。
タイ人の母親と日本人の父親をもつメイは、父1人、子1人の父子家庭で暮らしていた。メイの住むマンションは、教室が活動する子育てプラザから、わずか30メートルの距離にあった。玄関どうしが見える近さだ。
それでも父親の正三さんは教室が終わるころ、欠かさずメイを迎えに来た。スタッフが子どもを自宅へ送るのだが、正三さんは毎回プラザの前まで来て、「ほんまにありがとうございました」とにこやかに頭を下げた。
そして、メイと一緒に30メートルの距離を歩いて帰った。メイは正三さんが40歳を過ぎてから授かった子だ。かわいくて仕方がないようだった。
毎度あいさつをするうちに、私は正三さんとも顔見知りになった。ボランティアを始めて10カ月、ようやく新聞記事用の取材に取りかかったころ、お迎えに来た正三さんに思い切ってインタビューをお願いした。
正三さんは「いつもお世話になってるんで、私にできることなら」と控えめに快諾してくれた。
父娘で移り住んだ「島之内」
後日、近所の喫茶店で落ち合い、メイの生い立ちを聞いた。正三さんはたばこを片手に、2時間近く話をしてくれた。
メイはタイの首都バンコク近郊で生まれ、生後7カ月で来日した。日本へ渡る飛行機の中では、6時間ずっと泣きっぱなしだったそうだ。
幼いころのメイは、勝手に近所へ出歩いてしまうことがあった。
「空港の近くに住んでたけど、ずっと飛行機ばっかり見てる子でねえ。タイに帰りたいんかなあと、かわいそうやった」と正三さんは懐かしそうに記憶をたどる。
その後、両親は離婚することになり、タイ出身の母親がメイを引き取った。4歳からの2年間は主に母親の故郷であるタイ東部の田舎町で暮らした。
小学1年生になるタイミングで2人して日本へ戻ることになったが、母親の持病が悪化し、その秋に正三さんが引き取った。
父娘2人、移り住んだ先が島之内だった。
正三さんは当時、会社勤めをしていた。仕事で接待がある夜、幼いメイを自宅に1人置いてはいけず、大阪・北新地のラウンジへタクシーで一緒に行った。店のホステスにかわいがられた記憶が、メイにも残っているという。
仕事と子育ての両立に限界を感じた正三さんは会社を辞め、島之内の近くで、時間の融通が利くマンション管理人として働くようになった。
メイは地元の南小学校に入った。タイ育ちのため、小学生になった当初は日本語で苦労したという。
正三さんは「日本語で達者に話そうとはするんやけど、言葉の意味はちゃんとわかってないような感じ。好きやったテレビアニメで聞いた言葉ばっかりしゃべってました」とふり返る。
メイ自身、小学4年生ごろまでは日本語に苦手意識があった。よく覚えているのが、国語の授業で「日本」という漢字を「本日」と書き間違い、同級生にからかわれたことだ。
「何とか仕返ししてやりたいと思って、いろんな言葉を辞書で調べたんよ。それで漢字を覚えるのが早かったんかもしれへん」というから、負けん気の強い子だったのだろう。
「Minamiこども教室」へ
メイが5年生になった秋、Minamiこども教室が活動を始めた。
開設から3カ月たった年末、メイは同級生のマナミに「教室でクリスマス会があるから、一緒に行こや。ケーキ食べれるで」と誘われた。食べ物につられて、メイは教室に通い始めた。
マナミはフィリピンにルーツをもつ女の子だ。「学校ではメイと別のグループにいて、ほとんど口もきいたことなかった」と言うが、一緒にこども教室に通い始めたことをきっかけに、一番の仲良しになった。
教室で6年生の担当になった私は、メイの隣に座ることがよくあった。なかなか勉強に集中できないマナミら他の6年生に比べて、メイには困らされることが少なかった。そのぶん、強く印象に残るエピソードも少ない。
ただ、今も私の記憶に鮮明に残る、6年生当時のメイの言葉が一つある。
それは、フィリピンにルーツをもつ大学生を教室に招いたイベントでの発言だった。
その日、キムさんが講師を務める大学の学生2人が、ゲストとして教室にやって来た。
教室に来る子どもの多くは経済的にしんどい家庭で育ち、周囲には大学へ行ったり、目標としていた職業に就いたりするロールモデルが少ない。身近な大人の多くは、繁華街の飲食店などで不安定な職に就いている。
大学に行く方がいいとか、飲食店での仕事がだめだとか言いたいわけではない。
ただ、子どもの周りに多様なロールモデルがいないことは、将来の選択肢をはじめから狭めてしまったり、芸能人やプロスポーツ選手といった目に付きやすい華やかな職業を漠然と夢見続けてしまったりすることにつながる。
そうなると、子どもは目の前の生活や学習に意欲をもちづらい。
教室の子どもたちと同じく移民のルーツをもつ大学生に、日本語習得や学校での勉強に苦労しながら大学進学を果たした経験を語ってもらうことで、自分の将来への実感をもってもらいたい。そんな思いで企画した会だった。
2人のゲストは「大学に行ってみると、本当にいろんな人がいて、それまでは窮屈に思うこともあったこの世界が、すごく広く感じられました」と、子どもたちに語りかけた。それから「みんなの将来の夢はなんですか」と尋ねた。
6年生のメイの夢
数人の小学生が照れながら、「サッカー選手になりたい」「私は歌手です」「えーっと、秘密!」と、子どもらしい答えを返していた。
その中で、メイだけが違った。
「私は助産師さんになりたいです」と、ずいぶん具体的な夢を言い切った。
続けて「それは貧しい人の家族を助けたいからです。助産師さんになるには試験があるから、今も勉強をがんばってやっています」。スタッフからは「おおぉ」と驚き交じりの歓声があがった。
いくぶん優等生じみた発言ではあったが、メイにはすでに固い意志があった。
後日、なぜ助産師なのかを尋ねると、5年生のころに友達の家で赤ん坊を抱っこしたり、あやしたりして、「かわいさに感動した」のがきっかけだという。
将来は赤ん坊に関わる人になりたいとぼんやり思っていたところ、学校で「将来就きたい職業を調べる」という宿題が出た。学校にあった職業図鑑を眺めていて、助産師という仕事を知った。
子どもの夢は移ろいやすいものだが、メイは最初に抱いた夢を手放さなかった。
その後も教室で機会があるごとに、「助産師」の夢を口にしていた。小学生のころから人前で夢を語り、周りの大人たちに励まされた経験が、メイの「夢」を現実的な「目標」へと変えていったのだろう。
次回に続きます。
(玉置 太郎 : ジャーナリスト)