「指示待ち型」の人を変えるにはどうしたらいいのか。静岡大学農学部教授の稲垣栄洋さんは「進学校出身の学生には『指示待ち型』が多い。指示待ち型と呼ばれる人は一般的に優秀で、どんなに難しい指示であっても指示に従ってやり遂げる。しかし、指示待ち型は、楽しくないので、彼らを主体的に動けるようにしてあげたいと考えていた」という――。(第3回/全3回)

※本稿は、稲垣栄洋『雑草学研究室の踏まれたら立ち上がらない面々』(小学館)の一部を再編集したものです。

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■進学校出身の学生に多い「指示待ち型」

バイオリンが得意な満藤(まんどう)さんは、もともと、とても優秀な学生である。

しかし、ひとつだけ気になることがあった。

それは、彼女がやや「指示待ち型」であるということである。

とにかく、私の顔色をうかがい、私が何を考えているのかを察しようとする。そして、私が期待するような「正解」を正しく導いてしまうのだ。

「満藤さんは、どう考えているのだろう? 満藤さんは、何をしたいのだろう?」と彼女の考えていることを察しようとしても、彼女は先回りして「私が考えていること」を察しては正解を出してしまう。

まるで出題者の意図を察知して答えを導き出す受験生だ。

じつは、進学校出身の学生には、「指示待ち型」が多い。

受験では、答えのある問題を解き続ける。すべての問題に答えがあり、あらかじめ解き方がある。そして、それを要領よくこなしていく子が優秀と褒められる。おそらくは、それを繰り返しているうちに、否応(いやおう)なしに用意された答えを探す学生になってしまうのだろう。

「私の中に答えはないよ。答えは満藤さんの中にあるのだから」

しつこくそう言っても、満藤さんは私の中に答えを探しに来る。

■いかにして主体性を引き出すか

研究はわからないことを明らかにするという、ある意味で未知への挑戦である。指導教員であっても答えを持っているわけではない。指導教員と学生が共に、答えを探し求めなければならないのだ。それが、研究である。

もちろん、研究だけではない。

世の中は「答えのない問題を自分で作り、答えのない問題を解く」その連続だ。

特に現代は、先のわからない時代と言われる。学生たちも卒業した後は、誰も答えを知らない世界で生きていかなければならないのだ。

満藤さんは、研究もよくできるし、レポートを書かせれば文章もうまい。おまけに英語も得意だ。物足りないのは主体性だけである。

いかにして、彼女の主体性を引き出すかが、私が彼女に対して考えていることだった。

私は彼女を呼び出して、こう諭した。

「満藤さんは、もっと主体的にやらないといけないよ」
「ん?」

私はそう言いながら、「何かこの言葉、おかしくないか?」――と、自分で自分のことがおかしくなった。

だって、そうだろう。

何しろ「主体的にやりなさい」は、それ自体が指示である。

主体的にやりなさいと言われて、主体的になることは、もはや主体的ではない。

「ん???」

自主性や主体性って、いったい何なのだろう?

■「主体的にやりなさい」は教育者として失格

私は考え直した。

本当は「主体的にやりなさい」と言った時点で、教育者として失格なのだ。

学生たちが、自らやりたくなるように仕向けなければいけないのだ。私は彼女を呼び出して叱ったことを深く反省した。

「満藤さん、ごめんね。今、言ったこと全部忘れてくれる?」

満藤さんは、キョトンとした顔で不思議そうに帰って行った。

さすがの満藤さんも今回ばかりは、私の考えてることがわからなかったようだ。

しかし、心配はいらないものである。

あの一件で、満藤さんは「ライス先生の中身はポンコツで、アテにならない」という大切な真実に、やがて気がついたようだ。

そして、自分で考えて行動するようになったのである。

そのことに気がついてからの満藤さんの成長ぶりは、本当に目を見張るようだった。

先生をアテにせずに、研究を思うように進めて、最後には国際学会に先生を置いて出掛けていって、ひとりで発表をしてきた。

「先生がアテにならないって本当に大切だな」と、しみじみ思う。

■私はいかに「教えない先生」になったのか

思い出すのは、私の学生時代だ。

そもそも、私が雑草学を志したのも、先生が教えてくれなかったことがキッカケなのである。私は、畳の原料となるイグサをポットで栽培していた。

ところが、ポットから、何となくイグサに似ているが、明らかにイグサではない植物が生えてきた。

つまりは、雑草である。

「先生、この雑草、イグサに似ているんですが何ですか?」

さっそく、指導教授に質問すると、教授はこう答えた。

「花が咲けば、図鑑で調べることができるから、花が咲くまで置いておきなさい」

おそらくは、指導教授はその雑草の名前がわからなかったのだろう。もし、名前を知っていて、そう指示したのだとしたら、相当の名伯楽(めいはくらく)である。

かくして、私はその雑草を花が咲くまで置いておくことになった。

イグサがどのような成長をするかは、ものの本にくわしく書いてある。

隣に生えている雑草は、どのような成長を遂げて、どのような花を咲かせるのか、まったく予想がつかない。私は雑草の観察に夢中になった。

そして、知らず知らず私は雑草に興味を持つようになったのである。

このとき生えていたイグサ科のコウガイゼキショウは、私にとって記念すべき雑草である。

もし、指導教授が「それはコウガイゼキショウというイグサ科の雑草だよ」と教えていたら、私はこの雑草をじっくり観察することはなかっただろう。その名前を覚えることもなかったかも知れない。おそらくは、その雑草を抜いてしまって、それでおしまいだったはずである。

先生が教えてくれなかったからこそ、私は雑草の研究者になった。

そして、私は「教えない先生」となったのである。

■「指示待ち型は仕事ができない」はウソ

今どきの若い人たちは「指示待ち型」であると言われている。

確かにそのとおりだな、と思うこともある。

しかし私は、世間の人たちが言うほど、「指示待ち型」がダメだとは思っていない。

指示待ち型と呼ばれる人たちは、一般的に優秀である。何しろ、指示さえあれば、たちどころに指示通りに仕事をこなすことができるのである。

どんなに難しい指示であっても、指示に従ってやり遂げる。少し難しいかな、と思う課題を出しても、難なくこなしてくる。それが、「指示待ち型」と呼ばれる現代の学生である。

指示待ち型は、優秀な人間なのだ。

企業の方と話をしていると、「今の若い人は指示待ち型で困る」と愚痴るが、それは指示の出し方がまずいに違いない。

■企業にとって「指示待ち型」は使いやすい

誤解を恐れずに言えば、指示待ち型の人間はロボットと同じである。

「○○について調べてレポート出して」というあいまいな指示では、動くことができない。

「この本の○ページから○ページを読んで」「○文字程度で、内容を要約して」「○文字以内で根拠を示して自分の意見を書いて」「レポートの評価基準は○○、授業のこの内容を書いていると加点します」「〆切は○日の○時です」と、ひとつひとつ指示をすれば、まさに私が期待するレポートばかりが〆切日ぴったりに提出されてくる。レポートは遅れるどころか、早目に出されることさえない。

ロボットが動けないとすれば、正しくプログラミングできていないことが理由である。

「指示待ち型は仕事ができない」という人は、指示の出し方が悪いのだ。

誤解を恐れずに言えば、指示待ち型の人間はイヌと同じである。

飼い主にとって良いことをしたら「良し」と言って褒める。ダメなことをしたら「ダメ」と叱る。

そのうちイヌは、何をすれば良くて、何をしたらダメかということを覚えて、飼い主の顔色を見て動くようになる。そして、飼い主が指示を出すのをずっとお座りして待っている。

イヌが動けないとすれば、飼い主の指示が悪いのだ。

指示待ち型人間は、ロボットやイヌと同じである。とても便利な存在だ。

おそらく企業という組織にとって、「指示待ち型」の人間ほど、使いやすい人材はいない。

写真=iStock.com/PhonlamaiPhoto
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■最強の勇者だが、敵が現れるのを待つだけ

しかし、と私は思う。

本人たちは、それで良いのだろうか?

本人たちは、それで楽しいのだろうか?

指示待ち型の若者は、上半身が筋肉ムキムキの勇者を思わせる。

その勇者は「どんな敵にも負けない」と言いながら、椅子に座っている。そして、目の前に敵が現われれば、どんな敵でも倒すことができるのである。

しかし、その勇者がすることは、敵が現われるのを待つことだけだ。

扉を開けて外の世界に冒険に出ることもなく、椅子に座り続けている。そんな勇者である。

おそらくこの勇者たちは、小さい頃から、常に指示を与えられてきた。そして、指示通り動くことを求められ続けてきた。

指示待ち型の学生は、もともと指示待ち型だったわけではない。

指示待ち型に仕立てられたのだ。

■まず「先生がアテにならない」ことを知らしめる

研究室に新しい学生が分属されたときに、私がまずやらなければならないことは、「先生がアテにならない」ことを知らしめることである。

私たちが研究するのは身近な雑草だが、そんな雑草であっても、じつはわかっていないことが多い。

学生の観察が、大発見につながることも珍しくないのだ。

「先生なら、こんなこと知っているはずだ」
「先生なら、言わなくてもわかっているはずだ」

と学生が先生を過信すると、学生自身が大切なことを見過ごしてしまう。

学生たちが、ちょっとした発見やちょっとした気づきを私に伝えてくれるようにするためには、先生がいかに物を知らなくて、いかにアテにならないかを教えなければならないのだ。

もっとも、それはけっして難しいことではない。

物わかりの良い学生たちは、すぐにライス先生が、何も知らなくて、まったくアテにならないことを悟って、先生に頼ることを見切ってしまうのである。

それで、良いのだ。

■“指示待ち型学生”は答えを見抜くと勇者に変わる

指示待ち型の学生は、上半身が筋肉ムキムキの勇者である。

その勇者たちが椅子から立ち上がり、自分の足で歩き始めると本当にすごい。

私のようなただムダに忙しそうにしているだけのモブキャラは、とてもかなわない勇者となる。

実験レポートやプレゼン資料を持ってきたとき、私はあまりの完成度の低さにブツブツ言いながら、こう指示する。

「何が書いてあるか、全然わからないよ。書き直してきて!」

ところが、もともと指示待ちの能力を持つ彼らは私の中に答えがあるのを見抜くと早い。

「先生が求めているのは、結局こういうことなのね」という解答がわかると、彼らはまるで、カチャカチャと簡単にパズルを解くようにレポートやプレゼン資料を訂正する。そして、次の日には、私が見て非の打ち所がないようなものを完成させて提出してくるのである。

一晩のうちに完成版ができてくるから、私は何が起こったかわからない。

「えっ! どうして一晩で完成するの? まさかお母さんに手伝ってもらったの?」
「違いますよ!」
「それとも12時過ぎて泣いてたら魔法使いが現われたの? もしかしてグリム童話みたいに寝ているうちに妖精がやってくれたってやつ?」

私はしつこく聞くが、学生たちは知らん顔である。

どうしたら、そんなことが可能なのだろう? 本当に教えて欲しい。

何しろ、私は大学から提出を求められている資料が、いったい何を指示されているのかまったく理解できず困り果てているのだ。

■「自分のやりたい仕事」「誰かのやりたい仕事」

身の回りの大人たちを見ていて、世の中には、「自分のやりたい仕事をする人」と「誰かのやりたい仕事をする人」の2種類しかいないと私は思う。「仕事をしている人」と「仕事をさせられている人」と言ってもいいかもしれない。

もちろん、何もかも自分のやりたいように仕事できる人は少ない。サラリーマンであれば、仕事は会社から与えられる。

しかし、与えられた仕事を自分なりの仕事にリフレーミングして、自分の仕事として楽しめる人がいる。そういう人たちの多くは、仕事ができると評価されている人たちだ。そして、そういう人たちは、ある程度、年齢を経て経験を積めば、自分のやりたいことに近いことを実現できる。

もちろん、自分のやりたいことをそのまま実現できるとは限らない。しかし、やりたいことに近いことは実現できるのである。

「仕事をしている人」と「仕事をさせられている人」は、「仕事をしている人」の方が絶対、楽しいと私は思う。だから、私は学生たちに社会に出たら「仕事をしている人」であってほしいと思う。

■「ジブンデヤル世界」と「ヤラサレテヤル世界」

指示待ち型の学生は、私が指示すれば、私の思い通りに動く。

しかし、「好きなようにしていいよ」と言うと、戸惑って、何もできなくなってしまう。私にとっては、便利なことこの上ないが、それでは学生たちがあまりにかわいそうだ。

稲垣栄洋『雑草学研究室の踏まれたら立ち上がらない面々』(小学館)

私が学生に配る資料には、次のような文章を載せている。

「世の中には、『ジブンデヤル世界』と『ヤラサレテヤル世界』とがあります。ヤラサレテヤル世界の住人は、ずっと誰かがやりたいことをしています。ジブンデヤル世界の住人は、だんだんと自分がやりたいことができるようになっていきます。あなたは、どちらを選びますか?」
「指示待ち型は、楽しくない。彼らを主体的に動けるようにしてあげたい」

私は頑なに、こう考えていた。そう、彼に出会うまでは……。

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稲垣 栄洋(いながき・ひでひろ)
静岡大学大学院教授
1968年静岡市生まれ。岡山大学大学院農学研究科修了。農学博士。専攻は雑草生態学。農林水産省、静岡県農林技術研究所等を経て、静岡大学大学院教授。農業研究に携わる傍ら、雑草や昆虫など身近な生き物に関する著述や講演を行っている。著書に、『植物はなぜ動かないのか』『雑草はなぜそこに生えているのか『イネという不思議な植物』『はずれ者が進化をつくる』(ちくまプリマー新書)、『身近な雑草の愉快な生きかた』『身近な野菜のなるほど観察録』『身近な虫たちの華麗な生きかた』『身近な野の草 日本のこころ』『身近な生きものの子育て奮闘記』(ちくま文庫)、『たたかう植物 仁義なき生存戦略』(ちくま新書)など。
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(静岡大学大学院教授 稲垣 栄洋)