岡田林太郎さんが創業した「みずき書林」のブログページと、著書『憶えている』(筆者撮影)

故人が残したブログやSNSページ。生前に残された最後の投稿に遺族や知人、ファンが“墓参り”して何年も追悼する。なかには数万件のコメントが書き込まれている例もある。ただ、残された側からすると、故人のサイトは戸惑いの対象になることもある。

故人のサイトとどう向き合うのが正解なのか? 簡単には答えが出せない問題だが、先人の事例から何かをつかむことはできるだろう。具体的な事例を紹介しながら追っていく連載の第26回。

創業の5年後、45歳で亡くなった男性

<僕の没後も、当面の間は妻を代表取締役として、みずき書林は存続することになりました。
 よって在庫の散逸もなく、入手できなくなることもありません。
 出荷作業・注文処理は今までと変わらず行われます。
 もともとは、会社に妻を巻き込むつもりはありませんでした。
 しかし出版業というのは返品があるため、実質的に会社を閉じたとしても、その後数年は会社を維持しておかなければなりません。
 いずれにせよ市場の動きが落ち着く数年後までは会社を存続させなくてはならないなら、とふたりで話し合い、在庫管理だけでも妻に継いでもらうことになりました。>

(2023年2月16日/みずき書林ブログ「【ご報告】みずき書林の存続について」より)

みずき書林という出版社がある。本の企画から刊行、販売促進まで1人でこなす個人経営の出版社で、岡田林太郎さんが2018年4月に創業した。文芸書からノンフィクション、学術書までこれまで約30種の書籍を世に送り出している。

しかし、新たな刊行物が出ることはおそらくもうない。上記の引用文から4カ月半が過ぎた頃、2年に及ぶ闘病の末に岡田さんが息を引き取ったためだ。現在、刊行した書籍と公式サイトの管理は妻の裕子さんが引き継いでいる。


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公式サイトには創業当時から更新しているブログがあり、40歳で起業して45歳で亡くなるまでの5年間の岡田さんの活動と思いが刻まれている。記事数は1200を超える。

そのブログを読み込むと、岡田さんは闘病が始まった早い時期から、自らの死後に備えて動いていたことがわかる。それでいて自暴自棄に陥ることも、生を諦める様子も見られない。その冷静と強靱はどこからくるのか。残された言葉から探ってみたい。

岡田さんは1978年3月にアメリカ・ボストンで生まれた。まもなく帰国して、岡山県で育ち、大学入学を機に上京。そのまま東京で就職し、出版の世界で生計を立てることになる。20代のうちに大学の映画サークルで苦楽を共にした後輩と結婚し、30代半ばで勤め先の社長を任せられた。

会社を辞して1人出版社を立ち上げようと考えたのは、それから6年過ぎて40歳になろうとする頃だった。2018年3月に退職し、翌月に自らの自宅を本拠とした「みずき書林」を立ち上げた。

1人出版社を志向したのは、経営と人事に割く時間を現場の仕事に充てたいという思いもあったからだと、たびたびブログで触れている。公式サイトの会社概要に理念を掲げた。

<人と人との対話を生みだすような本を作ること。
 それによって、自分自身とまわりの人たちが幸せになること。

 みずき書林はひとりで運営している小さな会社です。
 しかし、だからこそたくさんの人たちとつながっていることを感じていたいと思っています。
 本を読んでくださる読者の皆様、本を書いてくださる著者の方々、本を作るのに協力してくださるデザイナーや印刷・製本・製紙にたずさわる人たち、本を届けてくださる書店・流通の方々、およびさまざまな情報発信源の人びと。
 そういった多くの皆様と一緒に、楽しく豊かな思いをわかちあいながら生きていくことができればと考えています。>

(みずき書林「会社概要」より)

創業当初は順調だった

前職から引き継いだ企画もあり、創業からわずか4カ月で4冊の本を刊行した。それは岡田さんにみずき書林の方向性を決定づけたと言わせる4冊で、後のブログに最も多く登場する大川史織さんの書籍『マーシャル、父の戦場』も含まれる。第2次世界大戦末期に太平洋に浮かぶマーシャル諸島で餓死した佐藤冨五郎さんの日記を読み解く本だ。


みずき書林から2018年7月に刊行された『マーシャル、父の戦場 ある日本兵の日記をめぐる歴史実践』

<ここしばらく、僕はある人物の日記を、75年前の今日綴られた分だけを、毎日少しずつ読んでいくという経験をしている。
(略)
 その人はもう間もなく40歳になろうという日本人男性だ(そして結局、彼が40歳になることはなかった)。
 彼は日本軍の一兵士であり、父であり夫であり、つまりは無名のごく普通の人だった。
 彼は故郷を遠く離れた遠い南洋の地で、餓死した。
 75年前の4月25日が、彼が絶筆を綴った日になる。翌日、その人は死ぬ。
 もうすぐ、その日が来る。その日まで、日記は続く。>

(2020年3月17日/みずき書林ブログ「毎日、ひとの日記を読むこと(上)」より)

著者や編者だけでなく、冨五郎さんのように取材を通して一方的に知る人物にも、深く思いを馳せて営みを進めていける。そうした日々を渇望していた。

最初期のブログからは、資金や今後の展望などに不安を抱きつつも、思い描いていた仕事ができている高揚が伝わってくる。1年半後には、出版の専門家として大学の非常勤講師を務めるようになり、活動範囲も人のつながりも順調に広げていった様子だ。

暗雲は突然訪れた。

退院から間もなくして病状を公表

2021年8月15日、激しい腹痛に襲われた岡田さんは入院することになる。すぐに腸内の通り道が塞がれる腸閉塞が起きていると判明し、大腸の右半分を切除する緊急手術を受けた。手術は無事成功。ところが、入院13日目に主治医から予想だにしない病状が告げられた。

<希望は常にある。
 でも、
 なにを感じればいいのかわからない。
 悲しいわけでも、苦しいわけでもないし、冷たくも熱くもない。
 ただ空疎というか、無に近い。
 なにも感じたくない。
 なにかを感じるのが怖くて、無意識に感じたり考えたりすることを避けているような感じ。>

(2021年9月6日/みずき書林ブログ「からっぽ」より)

退院後もしばらくは心が定まらない日を送ったが、やがて自分の中で方針が固まる。

<みずき書林/岡田林太郎に関わってくださる皆さまへ
 先月の15日から31日まで、腸閉塞で入院していました。
 開腹手術をして大腸を半分ばかり切除しましたが、おかげさまで手術は成功し、いまは退院して日常生活に戻っています。
 ただ、その治療と検査の過程で、胃に癌が見つかりました。
 スキルス胃癌という進行の早い厄介な癌で、それがすでに大腸に転移していました。つまり、ステージ4です。>

(2021年9月9日/みずき書林ブログ「病気について」より)

病状を明らかにすることに迷いはあったが、「この先の時間を分かち合う人たちには、知っていてほしい」という思いが募ったこと、そして、出版社の代表として最悪のケースに備えなければならない責任を感じていたことも決意を後押しした。記事の後半、夭折した歴史学者・保苅実さんに自分を重ね合わせることで、自らが理想とする生き様にも言及している。

<33歳の若さでがんで亡くなった保苅実は、死の直前に友人たちに宛てたメールで、以下のように書き残しています。
 「勇敢で冷静、そして美しくありたいと感じています」
 このことばがどこかに引っかかっていたのかもしれません。僕もステージ4の癌であることを知らされたときに、ともすれば取り乱しそうになる頭の片隅で、勇敢でありたいと考えました。
 保苅実にならって僕なりのことばで言うと、いまは、
 「勇敢に、丁寧に生きていたい」
 と思っています。>

(2021年9月9日/みずき書林ブログ「病気について」より)


病気について」

裏を返せば「死に様」でもある。この日から、ブログでは日々の暮らしと書籍の販売促進、闘病に加え、自らの死後に関する言及も見られるようになる。ただしそれはあくまでifとしての言及だ。生きることを諦めたわけではない。

<みずき書林はこれからも続けていくつもりですが、もしこれから先、存続させることができなくなったときのことも考えておかないといけません。
 実は、継続性については、ひとり乃至小規模出版の最大の弱点であり、まだ歴史の浅い小規模出版の世界では、ノウハウが確立されていない問題でもあります。>

(2021年12月9日/みずき書林ブログ「【重要】How to close my company」より)

「長くて2カ月、短くて1カ月」

治療を続けながら、身体の状態の変化に主治医とともに注視する日々。標準治療は奏功し、季節が一巡するまでは体調の急変を防ぎ、概ね病状をコントロールすることができた。

<検査の結果が劇的に改善されたとか、病状が大きく好転したとか、そういうことはない。残念ながら。
 ただ、喜ぶべきこととして、この数カ月間、現状維持ができている。
 (略)
 はじめて病気についてこのブログに書いたときに、僕は「死ぬ死ぬ詐欺」ということばを使った。あれから9か月が過ぎ、スキルス胃がんのステージ4という病気は僕に限ってはまだトップスピードを出しておらず、いまのところ、その死の速度を振り切って逃走中と言っていい。早ければ半年以内、ということもおそらくはありえたのだから。>

(2022年5月29日/みずき書林ブログ「生きちゃうかもしれない。」より)

現状維持に不安を覚えるようになったのは、手術からちょうど1年後に2度目の入退院を経た後のことだ。急激に体調が落ち込んでいく。秋には死後のことをより現実的な出来事として捉えるようになっていた。

<一年前に病気がわかったとき、絶望的な気分になると同時に、少し楽にもなった気がした。
 楽になった、とは奇妙な感覚だが、絶望的で呆然とした感情が少しずつおさまってくると同時に、そのすき間を埋めるように、僕は楽な気持ちになって行った。
 楽とは、要するにいろんな世俗のことがどうでもよくなっていく感覚だった。
(略)
 最近たまに考える。
 僕が死ぬ日の新聞には、どんなろくでもないニュースが一面を飾るのだろう。
 ヤフーニュースのトピックにはどんな一過性の話題が流れているのだろう。
 どんな有名人が、僕と同じ日に死ぬのだろう。
 できることなら、特筆すべきことがなにひとつ起こらない日に、ひとりでそっと死んでしまいたいものだ。>

(2022年10月21日/みずき書林ブログ「死ぬのに相応しい静かな世界」より)

2022年10月25日には3度目の入院となる。料理が趣味の岡田さんはオレンジジュースも口にできないほど体調が悪化していた。吐き気と倦怠感。仕事を続けようにも身体がいうことをきかない。2018年8月に毎日更新を目標に掲げて以来、20日のブランクが生じたのはこのときが初めてだった。濃くなる死の影。ひとまずは、ベッドの上でただ生きることに専念するしかなかった。

11月末、自宅に介護用ベッドを入れて、訪問医療を受ける手はずを整えて退院。やがて、医師から「長くて2カ月、短くて1カ月」と告げられた。


医師からの告知に言及した、2022年12月11日の投稿「余命」

ここに至り、冒頭で引用した「【ご報告】みずき書林の存続について」がアップされる。死後も必ず発生する出版社の業務を妻の裕子さんに委ね、計画中だった書籍企画を著者や編者と相談して中止したり、他の版元に移したりした。自らの手で生きがいに終止符を打つ作業は、並みの決意ではできなかっただろう。この時期、法的拘束力のある遺言書も作成している。

在宅療養を続けながら自ら著者になる

住み慣れた住まいが良い効果をもたらしたのかもしれない。その後に岡田さんの体調は少しずつ回復し、暖かくなるにつれて編集の仕事が再開できるほどに気力を取り戻していった。

このタイミングで、「著者として本を作りませんか?」と提案を受けた。持ちかけたのは2019年8月に1人出版社・コトニ社を立ち上げた後藤亨真さんだ。かつて岡田さんが1人出版社の先達としてアドバイスを送った相手でもある。岡田さんは即座に快諾したという。

後藤さんは「ひとり出版社の閉じ方」という書名で、岡田さんの編集者人生を描くエッセイを提案したが、岡田さんが煮詰めて返信したのはブログをまとめた本の企画書だった。この時点ですでに1100件を超える記事があったため、すべてを書籍にすることはできない。100件ほどを抜粋し、そこに解説文として補足や現在の所感を添えるスタイルで編むというものだ。タイトルは『憶えている』。後藤さんはこの方向で全面サポートすることを決めた。


コトニ社から刊行された『憶えている』

書籍は時系列で振り返る構成が基本となるが、がんを公表した2021年9月9日の記事だけは、「はじめに」として巻頭に置いた。後に刊行された書籍を開くと、その解説文にはこうある。

<この本にはたくさんの日付が出てくる。そのころあなたは何をしていただろうか。たとえば2021年の9月9日に、あなたは何をしていたか、思い出せるだろうか。
 そしてあなたがこの本を読むときに、僕はどこで何をしているのだろうか。
 あるいはもうどこにもいないのかもしれない。>

(『憶えている』/12Pより)

限られた時間を意識する緊張感

体調が回復したとはいえ、試していた治療はすべて終わり、在宅医療でできる限りの延命を図っている状態だった。あとどれだけ生きられるかわからない。2023年2月から4月にかけて執筆したと思われる解説文からは、限られた時間を意識する緊張感が通底しているように感じる。

1人出版社を始めて高揚する当時の岡田さんと、それを眺めて解説文を書く岡田さん。この二重奏を読み進めると、元気な頃からたびたび死に思いを巡らせていたとわかるが、同時に時期による捉え方の違いにも気づかされる。

先に引用した2020年3月17日の投稿――『マーシャル、父の戦場』の主人公である佐藤冨五郎さんについての記事の解説文にはこうある。

<マーシャル諸島ウォッチェ環礁で餓死した39歳の日本兵・佐藤冨五郎さんは、いつごろから自分の死を意識したのだろうか。途中までは、何とかして生き残って故郷に戻りたいと強く思っていたに違いない。その気持ちが体調の変化とともに徐々に揺らいでいき、やはり自分はここで死ぬしかないのかと感じるようになったのはいつ頃からなのだろう。
 最晩年の日記を読むと、その心の変化が少しずつわかるような気がしてくる。栄養失調で身体が思うように動かす、周囲の迷惑になることを心配しつつ、何とか生きていきたいと願う、そんな日々が綴られていく。>

(『憶えている』/222-223Pより)

かつては遠くにあった死が、いまは近くに迫っている。それゆえに、先人が残した死の諸相の見方が変わってきたのかもしれない。しかしそれでいて、岡田さんの筆致に動揺の色はない。

解説文の岡田さんは、死への抵抗や恐怖心、あるいは無念の情のようなものをほとんどにじませない。従容として死を受け入れる静かな姿勢が貫かれているように感じた。それは強烈に死を覚悟した2022年末を経験したゆえの達観なのかもしれないし、書籍として残す前提の文章だからなのかもしれない。

「できれば僕も一緒に歩んでいきたかった。」

抜粋記事と解説文のタイムラグは次第に小さくなり、最終盤は完全に時間軸が一致する。解説文が載る最後の抜粋は2023年4月13日のもので、みずき書林の創立5周年に感謝を述べる内容だった。

<誰がなんと言おうが、それは僕にとっては大冒険の日々だった。毎日ワクワクして楽しくて、ときにドキドキと心配で、心臓が跳ね回るような日々だった。
 そしてそれは、病気を経たいまでも続いている。こんな日々が少しでも長く続きますよう。僕もまた、みずき書林の続く出版を心から願っている。>

(『憶えている』/493Pより)

ひとまず本編を書き上げた達成感もあってか、翌月には自著の予定タイトルをブログで公開している。この記事は書籍に抜粋されていないが、通算で1200件目を飾るものだった。

<書名はいまのところ、
 『憶えている――40代でがんになったひとり出版社の1825日』
 にしようかと思っています。
 あくまで仮題ですが、いまのところ。
 メインタイトルの『憶えている』には、僕自身がこの5年間のことを憶えている、という意味があるのはもちろんですが、読者が僕がいなくなった後も僕のことを憶えていてほしい、という願いも込められています。>

(2023年5月12日/みずき書林ブログ「1200件目、書いている本のこと」より)

この半月後には4回目の入院をすることになる。執筆作業で最後に残していた「おわりに」は病院のベッドで書き上げた。複数のチューブがつながる身体をベッドに横たわらせて執筆している現状に触れ、関わった人たちへの感謝を伝える。そして、妻の裕子さんに向けた言葉で締めている。

<ねえ裕子さん、僕なしの残りの人生を、あなたはどんなふうに過ごすのでしょう。
 どうかよい人生を歩んでください。できれば僕も一緒に歩んでいきたかった。
 でもそれは叶いそうもありません。
 だからせめてことばだけでも残しておくね。
 愛してるよ、裕子さん。
 2023年6月13日 国立がん研究センター中央病院18階個室にて
 岡田林太郎>

(『憶えている』/525Pより)


この文は書籍の裏表紙にも添えられた

書籍の時間軸はここまでだが、この2日後に退院したことはみずき書林のブログの更新で知れる。岡田さんは6月25日まで自身で投稿を続けた。

<ずいぶん更新が滞りました。
 まだ長い文章を書く余力がありません。
 ただ自宅に戻り、療養しています。
 どうか見守ってください。
 ふたたび仕事をしたり、みなと会ったりする力を取り戻せますように。>

(2023年6月25日/みずき書林ブログ「もう一度ちからを」より)

岡田さんはこの約1週間後、2023年7月3日の深夜に自宅で息を引き取った。翌日に裕子さんが訃報をアップし、それが現在までブログの最終投稿となっている。

1825日と1908日

『憶えている』が刊行されたのは、2023年11月14日。岡田さんの死後に足された情報は、最終ページの著者プロフィールの最後に添えられた「2023年7月3日、永眠。享年45歳。」の一文のみだ。


岡田さんのプロフィールの最下段

ただし、副題を含めた書名は岡田さんの没後に日数が修正されて、『憶えている――40代でがんになったひとり出版社の1908日』となっている。


1825日は、岡田さんがみずき書林で活動した5年間を365×5で単純に日数換算した数字だ。これに対して1908日は、みずき書林を法人登記した2018年4月13日から、岡田さんが亡くなった2023年7月3日までの日数を表している。

この修正は岡田さんの没後に裕子さんと後藤さんが話し合って決めたそうだ。存命中の刊行を目指していた岡田さんは、創立5周年のところで書籍を終わらせる腹づもりだったという。それ以降の抜粋記事に解説文がないものこの理由からだ。

しかし、岡田さんが亡くなった今となっては、「僕自身がこの5年間のことを憶えている」「僕がいなくなった後も僕のことを憶えていてほしい」という願いを込めた書名として、1825日よりも1908日のほうが確かにふさわしい。

岡田さんは2023年6月11日、書籍に抜粋された最後のブログ記事でこう書いている。

<ああ、それにしても、今回の入院はほんとうに苦しい。いままでこの病気に関して4回入院して、危うい局面を迎えたこともあったけれど、僕自身の体感としては、今回が一番厳しいかもしれない。
 肉体的な苦痛もさることながら、やはり精神的なメンタル面をやられると、人は脆い。
 自分の弱さを容赦なく突きつけられています。
 フランクルを、保苅実を、早坂暁を、大林宣彦を心のうちに召喚しながら、まだまだ僕は彼らのしなやかさには遠く及ばない。
 せめて彼らの万分の一の強さでもあったなら。>

(2023年6月11日/みずき書林ブログ「筋力の衰え」より)

岡田さんは、がんを公表した記事で「勇敢に、丁寧に生きていたい」と書いた。最終的にそこに至らなかったのか否か。岡田さんを憶えている人や、これから知る人がそれぞれに感じればいい。


みずき書林の公式サイト。裕子さんが引き継いでいる

(古田 雄介 : フリーランスライター)