彦根藩の初代藩主となった井伊直政(写真: miura / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第34回は、家康が井伊直政を重宝した理由と、井伊家の歴史を解説する。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

混乱時に覚醒した家康のマルチタスク

圧巻の勝利といってよいだろう。1万もの大軍で押し寄せてきた北条勢に対して、徳川勢はわずか2000の兵で打ち破ったとされている(「黒駒の戦い」)。劇的な勝利の裏に、ある家臣の活躍があったことは、それほど知られていない。

1582(天正10)年、旧武田領である甲斐、信濃、上野をめぐって、徳川家康は越後の上杉景勝や相模の北条氏直らと、三つ巴の争いをすることとなった。「天正壬午の乱」と呼ばれる騒乱の始まりである。

なにしろ、旧武田領を支配していた織田信長は「本能寺の変」で討たれて、もうこの世にいない。信長の家臣なぞ恐るるに足らずと、周辺国が領土を獲得しようとするのは、ごく自然なことだといえよう。旧武田領は織田方の統治となって日が浅く、その点でも格好のターゲットとなった。

突然の事態にもかかわらず、家康の動きは速かった。命からがら「伊賀越え」を成し遂げると、息つく暇もなく、各方面に書状を出し「光秀を打つべし!」というポーズを示しながら、武田旧臣で徳川方についた岡部正綱をすぐに甲斐に派遣。旧武田領にいち早くアプローチしている。

天正10(1582)年7月3日には、家康自身が浜松から出陣。9日には甲斐に入り、同じく出陣してきた、相模国の北条氏直と衝突することになる。

氏直勢は若神子(わかみこ)城に、家康勢は新府城に本陣をしく。両者がにらみあうなか、甲府盆地を目指して北条勢の別部隊が動き出す。その数は1万ともいわれるが、冒頭で書いたように、家康勢はわずか2000の兵でこれを打ち破っている。

「黒駒の戦い」とも呼ばれるこの戦いにおいて、家康が少ない勢力で北条に勝利できたのは、地元の武士や村々を味方につけていたからにほかならない。地元との折衝において、大いに存在感を発揮した家康の家臣が、井伊直政である。

徳川勢は甲斐に出陣しながら、地元の武士と交渉し、徳川への帰属が決まると「本領安堵状」を発行した。その多くに「直政」が奏者の名として記されている。

そうした直政の交渉力もあって、少数の兵にもかかわらず、1万もの北条勢に勝利した徳川勢だったが、戦自体は膠着状態に。10月20日頃からは和睦交渉が行われることとなる。

このときに北条方の使者は、北条氏規が務めた。北条氏規は、当主・北条氏直の叔父にあたる。それに対して、家康が徳川勢の代表として、北条側に送り出したのもまた、直政だった。

なぜ、家康は直政をそれほど重視したのか。直政の調整力に期待しただけではなく、その家柄も深く関係していた。

「桶狭間の戦い」で当主を失った井伊家

かつて、遠江国では「国衆」と呼ばれる地域領主が多く存在しており、井伊家も今川家の支配下にある国衆の一つだった。

戦国大名は国衆に支配領域を認める代わりに、国衆は戦国大名からの軍事動員に従わなければならなかった。

比較的独立して地域を支配しながらも、国衆が戦国大名の意向に逆らうのは難しい。「桶狭間の戦い」においても、井伊家は今川家に駆り出されている。

その結果、今川義元が討ち死にしたことはよく知られているが、井伊家も当主である井伊直盛が命を落とす。そのほか、井伊家では小野玄蕃、奥山氏、上野氏、田中氏ら16人と雑兵26人もが討ち死にした。

ともに当主が戦死した今川家と井伊家。今川義元の後を嫡男の今川氏真が、井伊直盛の後を養子となっていた従弟の直親が継いでいる。だが、直親には謀反の疑いがかけられてしまい、氏真のところに弁明に行く途中で、氏真の重臣である朝比奈泰朝に討たれてしまう(諸説あり)。

これによって井伊家の男子は、直親の遺児である幼い虎松のみとなった。井伊家が存続の危機に陥るなか、幼少の虎松の後見人として井伊家の舵取りをしたのが、直盛の一人娘、井伊直虎だったといわれている。

何とかお家断絶を免れた井伊家。15才になった虎松が、徳川家康に仕えたことで、井伊家再興が果たされることになる。

信康が生きていたら、直政の出世はなかった?

直政が家康の家臣となったのは、1575(天正3)年のこと。鷹狩りの途中で、15才の直政を見かけて家康が声をかけたのが、きっかけだったと伝えられている。

前述したように井伊家は滅亡寸前にまで追い込まれたものの、今川家のもとでの有力国衆である。また「井伊」の名は1156年の「保元の乱」においてすでに確認されており、名門として、周囲の国からもよく知られていた。家康からすれば、直政は使者として送り出すのに格好の家柄だったようだ。

さらにいえば、多くの戦国大名では、兄弟や息子など親族らの一門衆が家臣団の最上層に位置づけられていた。『井伊家 彦根藩』(野田浩子著、吉川弘文館)では、当時の家康にそうした一門衆がいなかったことに注目。家康の嫡男、信康の不在が直政の出世につながったとして、下記のように解説している。

「一時的に徳川に一門衆が存在したといえるのは、家康長男の信康である。しかし、武田への内通を疑われてすでに命を落としていた。家康は、徳川と同等の家格にある直政を親族とすることで実質的に一門衆の役割を果たす立場に取り立てたと考えられる」

のちに徳川が豊臣政権のなかに取り込まれると、直政はさらに重用される。大名と同格として扱われて、諸大名や公家らと交際することとなった。

大躍進を果たした井伊直政にとって、出世のきっかけとなった「天正壬午の乱」。この騒乱後に、800人以上の武田旧臣が、徳川方に帰属することとなった。

武田の軍法も井伊隊に引き継がせた

そうして武田旧臣を取り込みながら、家康は武田の軍法を井伊の部隊に継承させている。武田の「赤備え」まで引き継がせて、井伊隊は旗指物、鞍や鎧、馬の鞭などもすべて赤で統一されることとなった。

かつての敵をわだかまりなく、味方に迎えて戦力にする――。

そんな家康の柔軟性には驚かされるばかりだ。抜擢された直政もまた、家康のそんな姿に「人を活かす」理想のリーダー像を見たのではないだろうか。


【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
野田浩子『井伊家 彦根藩』(吉川弘文館)

(真山 知幸 : 著述家)