石川数正が城主を務めた信州、松本城(写真: papa88 /PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は徳川家重臣の石川数正が、家康を裏切り、豊臣方についた背景を解説する。

天正13年(1585)閏8月、徳川家康が派遣した軍勢は、信州の上田城において真田昌幸に敗れた。その一方で、豊臣秀吉の威勢はますます高まり、家康に人質をさらに差し出すよう要求してくるのであった。

家康はすでに小牧・長久手の戦い(1584年)直後に、次男の於義伊(後の結城秀康)を秀吉のもとに養子(実質は人質)に出していた。さらなる人質要求は、家康だけでなく、徳川家中を悩ませる。

人質を出すよう主張した、石川数正

同じ年(1585年)の6月、越中の佐々成政と家康が手を組んで秀吉に対抗しようとしているとの風聞が立った。

かつて、小牧・長久手の戦いで家康と組んだ織田信雄(織田信長の次男)は、この時は、秀吉の疑いを晴らすため、徳川の宿老(重臣)から人質を出すように家康にアドバイスしていた。人質を出さない場合は、秀吉に従う気がないとみなされ、家康が討伐される可能性が出てくるためだ。

信雄のアドバイスは、秀吉の耳にも入り、自ら(豊臣氏)に臣従するよう、執拗に徳川方に促した。

徳川家臣のなかで、徳川方から人質を出すように主張していたのが、家康の重臣・石川数正である(数正はこのとき康輝という名に改名しているが、ここでは広く知られている数正とする)。

数正は、家康がまだ幼名・竹千代を名乗っていた頃から、つまり、駿河今川氏の人質時代から、家康に側近く仕えていた武将であった。

桶狭間の戦い(1560年)後、家康は今川氏から離反。家康の妻(築山殿)と子(竹千代、後の松平信康)は今川氏の人質となり、その奪還に貢献したのも数正だった。

「家康の嫡男を殺せ」との声が今川家中で巻き起こるなか、数正は「幼い若君1人を殺させる場合、お供する者もいないだろう。それは、人目にも寂しく映る。我らが参り、最期のお供をしよう」と言うと、率先して駿河に下ったという(『三河物語』)。この数正の発言に、身分の高下を問わず、感動する者が続出したと言われる。

数正は武将としても一流だった

そのような中で、徳川方の捕虜となっていた鵜殿氏と、家康の妻子を交換しようとの話が持ち上がる。この人質交換は無事に成功し、数正も築山殿や信康と共に岡崎に戻る。この時、数正は「八の字の髭をピンとそらし、若君を自分の鞍の前に乗せて」行進したという。『三河物語』は、数正の態度を「見事」と評している。

数正は、戦において殿(しんがり:自軍が退却するとき、最後尾で敵の追撃を防ぐ役割)を命じられ、追走してくる敵軍(武田勝頼軍)を逆に襲撃、見事勝利したこともあった(1577年)。勇気ある行動だけではなく、武将としても一流だったのだ。

その数正が、さらに人質を秀吉に差し出すべきだ、と徳川家中で主張した(数正は、秀吉との交渉役だった)。

ちなみに、数正は自身の息子(嫡子の康長、次男の康勝)を於義伊(家康次男)と共に大坂へ人質に出しており、ほかの宿老だけに犠牲を負わせようとしているわけではなかった。

数正の心情は、さらなる人質を出すなどして秀吉に臣従の意を示さなければ、いずれ、秀吉は本格的、かつ大規模に徳川方に攻勢をかけてくる。局所では徳川方が勝利することもあるかもしれないが、長期戦にでもなれば、最終的には徳川方は敗れる。そうなれば、最悪の場合、主君(家康)は切腹、御家は瓦解してしまう、というものだったのではないか。そのような想いから、人質を出すことを主張していたと感じる。 

秀吉方と交渉していた数正は、秀吉が日々勢いを増していく様子を肌身に感じていたに違いない。だからこそ、秀吉と全面対決することの難しさを説き続けていたのだろう。

だが、数正の願いも虚しく、徳川から新たな人質は出さないことが決定された(1585年10月28日)。家康が諸将を浜松城に集めて、下した結論であった。強硬論が幅をきかせ、数正の意見は採用されなかったと言えるだろう。

数正は徳川家中で孤立していたと思われる。何より、自らの融和路線が採用されなかったということは、今後の数正の出世にも影響してくる。孤立し排斥され、自身の立場が危うくなる可能性が高い。いや、生命まで絶たれることもありうる。

家康に衝撃を与えた数正の裏切り

同年11月13日、岡崎城の城代を務めていた数正は、突如、妻子とともに出奔。豊臣秀吉のもとに身を寄せるのである。その背景には、これまで述べてきたような事情があったと考えられる。幼い頃から仕えてきた忠臣・数正の「裏切り」は、家康にとって、衝撃でもあり、打撃でもあった。

数正出奔の翌日(11月14日)には、家康は岡崎城に宿老の酒井忠次を入れている。家康も同月16日には、岡崎に赴いた。翌月には、本多重次が新・岡崎城代に任命された。

一方、秀吉のもとに奔った数正は、秀吉から一字を与えられ「吉輝」を名乗る。数正が徳川家に戻ることは二度となかった。秀吉に臣従した数正は、後の小田原攻めの功により、信濃国松本城を与えられる。そして、文禄元年(1592)に没するのであった。

さて秀吉は、徳川方からの人質差し出しの拒否を受けて、家康征伐のため、来春にも出陣する意向を示していた。家康も三河東部城(愛知県幸田町)や岡崎城の普請(建築工事)を行うなど、秀吉軍の襲来に備えることになる。家康と秀吉の対立は、どのような結末を辿るのであろうか。

石川数正の「裏切り」は、『三河物語』の著者・大久保彦左衛門忠教や大久保一族にも衝撃を与えたようで、同書には次のような逸話が記されている。

当時、大久保忠世(忠教の兄)は、信州の小諸城に在番していた。その側に忠教もいたのだが、忠世のもとには「数正が裏切ったので、小諸から早く帰ってこい」という飛脚がしきりとやって来ていたようだ。

忠世はここで小諸を離れたら、信州を徳川方が支配することはできないと考えていたようで、帰国要請になかなか従えずにいた。それでもやって来る飛脚。

そのとき、信州小諸にいた三河武士の心中には「数正が裏切ったからには、岡崎に馳せ参じたとしても討死することになろう。またここにいても、いずれは討死することになるだろう。そうであるならば、妻子の消息もわからない、こんな遠方の地にとどまることはありえない」との考えが充満していたようだ。

大久保一族にとっても大騒動だった

そんな中、忠世は「そういうことなら、どこで戦死しても奉公としては同じだ。忠教、ここで討死してくれ」と忠教に告げるのである。

家康の命令で岡崎に戻らなければならない忠世。自分の代わりに、小諸城を討死する覚悟で守ってほしい、そんな気持ちも込めていたのだろう。

それに対し、忠教は「同じ奉公なら、岡崎に参り、家康様の眼前で討死すれば、それがお目に入るでしょう。ここで戦死すれば、人も知ることもなく、死に甲斐もない。岡崎に行って戦死しよう」と反論した。

それでも忠世は「その通りだ。しかし、お前をここにとどめておかなければ、ほかの者たちもとどめておくことはできぬ。ご主君に差し上げる生命だ。ここはひとまず、生命を私に預けてくれ」と説く。

ついに忠教は納得し、自身は小諸に留まる決意をするのだ(忠世は、岡崎に戻ることになる)。数正出奔は、大久保一族にとっても、大騒動だったのである。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)