親と子のあいだに何が起こっているかは、外側から見えづらい

「キモいんじゃ、クソホモ!」母親にそう罵られ、原付バイクに乗って家を飛び出した晩秋の夜。行くあてもなかったが、都会に出れば誰かが泊まらせてくれるだろう――18歳当時のことを回想するのは、ツイッターをはじめとして幅広いメディアで活躍中の作家のもちぎ氏だ。

母親が働かないため、高校に通いながら売春のアルバイトをし、将来家を出て大学に行くために貯金。収入の一部を母親に生活費として渡していた。母親と口論になり家を飛び出したあと、ゲイ風俗店やゲイバーで働きはじめ、その経験をもとに描いたコミックが話題になった。

大人になってから知った「毒親」という言葉。子どもに対するネガティブな行動パターンを執拗に継続し、長期にわたって子どもの成育に悪影響を及ぼす親を指す。近年、世界各国で「精神的に未熟なままの親」が、その子どもらに与える影響を論じた本『親といるとなぜか苦しい』がベストセラーになっている。「母とは10年以上会っていないが、親と子の関係性についてはずっと考え続けている」と語るもちぎ氏に読み解いてもらった。

親のことを話すと返ってくる「4つの反応」


子どもは親を選べないのに


一見虐待だと思われていない問題も扱う


「親を許せない自分」を許す


毒親を乗り越えようという主張は、聞き飽きた。どうももちぎです。作家をしています。親にゲイだとバレて縁を切られ、高校卒業を目前に家出をし、そのままゲイ風俗やゲイバーで働いていました。

そんな若かりしころの経験をエッセイにしてデビューしたアラサーです。

さて、あたいは、攻撃的な言動と気分の高低が激しい苛烈な性格をしていた母ちゃんのもとで育ってきました。いわゆる毒親というものでした。父親は自殺したので、あたい以外は姉ちゃんが1人いるだけの母子家庭でした。母ちゃんはゲームが好きで、外で人間関係を構築するのが苦手で働かなかったので、そこそこ貧乏でした。姉ちゃんも早々に家を出ました。

あたいにとって、子どものころ感じていたあたいが育つ意味というのは「唯一の男手として母ちゃんを働いて稼いで支える」というものでした。母ちゃんのことを難儀な人だと思っていたけれど、まだ家庭という枠の中でしか世界を知らなかったから、母親を養うのは息子の役目だと信じていました。あたいにそう教えたのは母ちゃんと、世間の「親孝行を美徳とする考え」でした。

でも母ちゃんにゲイだとバレたとき、ひどく錯乱した母ちゃんはあたいを殺す勢いだったので、いい契機だと思って縁を切りました。そこからあたいの人生は、ようやく次の章に移ったようなものでしたが、それでもずっと頭の隅には「母ちゃんがめっちゃ借金したらどうしよう」「母ちゃんを見返す大人になろう」「母ちゃんを地元に一人置き去りにした罪悪感」などがありました。あたいは母ちゃんから離れても、その影に執着していたのです。

家庭に恵まれていたらここには来ない

毒親という言葉もそのころにはブームになっていて、当時働いていたゲイ風俗の同僚にはその概念に強く共感を示すような、過酷な家庭環境で育った人がたくさんいました。偏見を助長するわけじゃないけれど、家庭に恵まれていたら風俗って世界にはなかなか来ないと思います。

でも、毒親という言葉は、あたいたちに「親の神格化」という常識を取っ払わせてくれたのと同時に、まるでそういう存在がポッとどこからか出現して、とにかく叩き潰せば解決する問題かのようにも誤解させていました。

その存在を「毒親とは単純に悪人だ」というふうに矮小化して、その問題を「悪い親と、無実なこども」という構図だけで簡素化させてしまい、「なぜそうなってしまったのか」という本質的なところにまで触れさせないような危うさがあったと思います。だから毒親育ちは、そして毒親に批判的な人たちはみな「親もかつては子どもで、親の親に育てられていた」ということをスッポリと忘れてしまっていたのです。

いや、見えないようにしていたのです。毒親の毒は、どこからかわいてきたものじゃなく連綿に続く呪縛だったことを。

「毒親」という言葉が覆い隠しているもの

確かにこの事実から目を背けるのは、仕方がないことだとも思います。なぜなら、まるで親も被害者だという論旨は、ますます毒親育ちの子どもの良心を追い詰め、今までの親の仕打ちを許すよう迫るような、そんな考えや空気感にもつながるから。だからその毒が《毒親自身の子ども時代から続いていること》という連続性を無視して、毒親という別の生き物が存在することにする楽さを、世間は選んでしまったのです。


もちろん子どもは、理解のできない親に寄り添う必要はないと思う。でも本来はドン引きして攻撃する必要もないのかもしれない。寄り添うのでも、ドン引きして雑なカテゴリに押し込むのでもなく、もっといい落としどころと、引くべき距離感があるのだと思う――それがこの本では提案してあると思うのです。

毒親という言葉は、結局それは親を神格化して崇めるのと同じくらい、何も見えておらず反射的で軽率で、そして無批判で無条件な盲信に近いのです。本当は親の存在は、そこまでビビるほど大きくもなく、そしてそこまで押し込めて小さくできるものでもない。ただ1人の人間の存在。だからこそ《親としては未熟だった人間》として、そのあり方に想いを馳せることは、彼らに感じていた強烈な期待や憎しみをも等身大のサイズに戻してくれるだろうと思います。

(もちぎ : 作家)