JR山手線で新宿駅の1駅南、代々木駅の西口駅舎(筆者撮影)

代々木は、その名前を冠した予備校や専門学校でも知られているところで、大学を中心とした学生街ともまた雰囲気が少し違う。次世代の文化を担う若者が多く集まる町だ。そのためか、とくに東口側を中心として、新宿より気軽な雰囲気の飲食店も多い。

また、東は新宿御苑、南は明治神宮に挟まれているので、代々木駅周辺は比較的狭いエリアに町が固まっている印象もある。現在の代々木のシンボルは、NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)だろうが、所在地は千駄ヶ谷5丁目になる。

中央線の駅が先に開業

代々木駅もまた、電車の登場によって増設された駅の1つだ。1885年に日本鉄道の品川―赤羽間が開業。続いて1894年には中央線の前身である甲武鉄道の新宿―牛込間(現在の飯田橋駅付近)が開業し、先に営業していた新宿―八王子間と接続するため、新宿駅の南側で日本鉄道をまたぎ越した。


ドコモタワー前を走る埼京線。当初の山手線ホームはこの付近にあった(筆者撮影)

この時点ではこの交差地点付近、つまり現在の代々木駅付近には駅はなかった。どちらもまだ非電化で、蒸気機関車牽引列車の加減速性能では、新宿にごく近い位置には駅を設けられなかったのだ。

今日、新宿―代々木間の営業キロは0.7km。そして、新宿駅でも南へずれて建設された5・6番線ホームの南端と、代々木駅のホーム北端の間はわずか100mほどしか離れていない。

先に駅ができたのは、電化されて電車運転を始めた甲武鉄道のほうで、1906年9月23日に開業。直後に両鉄道は国有化された。山手線の駅が設けられたのは1909年12月16日である。

その時代の山手線の線路は、今は埼京線や湘南・新宿ラインが走る山手貨物線ルートで、ホームは中央線の東側にあった。山手線の電車専用線路が建設されて、現在のような駅の形態になったのは1924年。これで中央線新宿方面行きと山手線内回りがホーム対面で乗り換え可能となっている。


代々木駅北側で山手線をまたぎ越す中央総武緩行線(筆者撮影)

続いて1925年には中央線下り線が新宿―代々木間で山手線をまたぎ越す線路が完成。新宿駅での両線の乗り換えも、ホーム対面で行えるようになっている。JRの各駅は所属路線が決まっているが、こうした経緯により、代々木は今日に至るまで中央本線所属の駅である。

ルーツは現在の明治神宮内

こうして誕生した代々木駅だが、開業時の所在地は代々木村と幡ヶ谷村が合併した代々幡村ではなく、隣りの千駄ヶ谷村であった。ただ、人口は旧代々木村が多かったため、代々木が駅名に採用されたと言われる。また、先に千駄ケ谷駅が1904年に開業していたことも影響しているだろう。

1914〜1919年の間には、京王電気軌道(現・京王電鉄京王線)にも代々木を名乗る駅が存在した。甲州街道の西参道交差点付近にあり、位置的にはそちらのほうが代々木村に近かったと言えたかもしれない。しかし1919年には神宮裏、1939年には西参道と改称。戦時中の1945年には初台駅に近すぎて不要不急と見なされ、廃止されてしまった。

現在でも代々木と呼ばれる地域は、JR代々木駅をほぼ東端として西へと広がっており、代々木公園、明治神宮を過ぎて、小田急電鉄の代々木上原駅周辺までを含んでいる。北は甲州街道。南は富ヶ谷付近までが代々木村であった。


小田急代々木上原駅。この付近まで代々木村は広がっていた(筆者撮影)


「代々木」のルーツは明治神宮内にある(筆者撮影)

代々木という地名は、現在の明治神宮南参道沿い(旧彦根藩井伊家下屋敷)に、旅人の目印として知られたモミの大木が、代々生えていたことに因む。この木は戦時中に焼失してしまったが、戦後、植え直されて、神宮の森の中に立ち、説明看板が添えられている。

代々幡村は町制を施行後、1932年に渋谷町、千駄ヶ谷町と合併して東京市渋谷区となった。東京23区への再編の際も区域は変わっていない。それゆえに現在は新宿の一部と見なされがちな、甲州街道より南、JR東日本の本社や新宿サザンテラスもまた旧代々木村に位置しており、そのまま現住所も渋谷区である。

小田急南新宿駅も所在地は渋谷区代々木2丁目だが、1942年の段階で小田急本社前から改称されて現駅名となっており、新宿の“南下”傾向のもっとも早い例かもしれない。


新宿を出発する小田急の電車(筆者撮影)


都営地下鉄大江戸線との乗り換えに使われるJR代々木駅北口(筆者撮影)

なお、都営地下鉄大江戸線の新宿駅は、各線の新宿駅が新宿区内なのに対し、唯一渋谷区内に駅施設がある。同駅は地下深いところに建設されたので他の路線への乗り換えに時間がかかり、事情がよくわかっている利用客は、大江戸線と山手線や中央・総武緩行線との乗り換えには、新宿を避け代々木を使う。そちらのほうがはるかに移動距離が短いからだ。

農村地帯に創建された明治神宮

明治神宮は1920年に、やはり旧代々木村内にあった南豊島御料地に創建されている。参拝客は開業済みの山手線の代々木駅と原宿駅を利用した。代々木駅前には北参道口を示す石碑が建つ。

国有鉄道時代の統計を見ても、代々木駅の利用客は1920年度から急激に増加している。小田急電鉄小田原線の開業は1927年で、参宮橋駅も同時に開業した。現在は東京メトロに明治神宮前駅、表参道駅、北参道駅もあり、明治神宮の地域に及ぼす影響力の大きさが理解できようというものだ。


明治神宮北参道口を示す石碑(筆者撮影)


小田急の線路沿いに建つ『春の小川』記念碑(筆者撮影)

その小田急電鉄の参宮橋―代々木八幡間に沿って、河骨川という小川が流れていた。今では暗渠になってしまっているが、ここが1912年に発表された唱歌『春の小川』のモデルになったとの説が有力となっており、代々木八幡駅に近い線路際に記念碑が建てられている。作詞をした高野辰之が代々幡村に住んでおり、この川の景色に親しんでいたことが理由とされる。まだ、明治神宮の建設も始まっていない頃であり、一面ののどかな農村風景が代々幡村内に広がっていたのであった。


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(土屋 武之 : 鉄道ジャーナリスト)