歳を重ねると、これまで苦でなかったことが急に億劫になることも(写真:Fast&Slow/PIXTA)

91歳の樋口恵子さんと75歳の上野千鶴子さんによる「人生のやめどき」対談より、一体何歳まで人は音楽会や海外旅行、同窓会に出かけて行って楽しむことができるか、楽しむためにどんな準備をしておくとよいか、その方法を伝授。
人生100年時代に、身ひとつ軽やかに最期を迎えるための心構えとは。『最期はひとり 80歳からの人生のやめどき』から一部抜粋・編集のうえ、お届けします。

トイレ問題で諦めていた「オペラ鑑賞」

樋口:私は美術と音楽でいえば断然音楽が好きなのよ。若い頃は海外ツアーのおっかけもやってました。

上野:樋口さんはオペラファンですものね。

樋口:ええ。でも年とともにだんだんツアーに行けなくなるの。まず、海外にはわりと早くに行けなくなりました。徐々に収入が減りますから、高いオペラのチケットも買いにくくなるし。

オペラのファンをやっていると、いつの間にか仲間ができるもので、私にも、いい来日公演があるとすぐに連絡をくれて、チケットを手配してくれる方がいたんです。仲間と一緒になって、長い幕間に今日のソプラノは悪かっただのテノールは結構歌っていただの、偉そうに批評をするのがこのうえない楽しみでした。

そんな仲間たちも年齢と共に運動能が落ちて、だんだん海外に行けなくなって。次には、東京文化会館やサントリーホール、NHKホールにも行けなくなって。行けたとしても、トイレが近いものだから落ち着いて観ていられないのね。せめて、今みたいに600グラムも吸収してくれる、いい尿もれパッドがあればよかったんだけど、 残念ながら10年前にはありませんでしたからね。

要するに、オペラは一幕1時間がザラですから、1時間の座位が保てなくなると、仲間との観劇も消滅なのです。

上野:ああいう介護用品、進化しましたよね。

樋口:そのおかげで英国ロイヤル・オペラが来日して『ファウスト』を上演したときは珍しくひとりで行ってきました。うちのスタッフたちに、「行けるうちが花ですよ」と蹴飛ばすように送り出されて。

上野:なんとお優しいスタッフの方たち!

樋口:だけど、行ったのはいいけれど帰りが大変なんですよ。指揮者の手がとまって「ブラボー」が始まる寸前には席を立って外に向かわないとだめ。でないと、長蛇の列で永遠にタクシーを待つことになるでしょう。帰るエネルギーを失っちゃうから。

その日も必死の体で会場を出たんだけど、前の道が工事中でタクシーをどこで待てばいいかわからなかったんですよ。「ここで待っていればタクシーは来るでしょうか?」と工事の現場主任みたいな人に聞いたら、「通行止めではないからじきに来るでしょう」と。そのうちホールから出て来た人たちがゾロゾロやって来て、みんなどこで待てばいいかわからずウロウロしている。

すると、最初に声をかけた主任さんが「このおばあちゃんが一番先ですよ」と叫んでくれて。あんなふうに真っ向から「このおばあちゃん」と言われたのは、87歳にして初めてでした(笑)。

上野:ショックでした?

樋口:それが全然ショックじゃなかったの。なぜなら「このおばあちゃん」という主任の言い方がとっても優しかったから。まわりには自分が先だと思っていた人もいて、 何やら怒ってましたけど、主任が「このおばあちゃんが、さっきから待ってるんですよ」「このおばあちゃんが一番先ですよ」と何度も叫んでくれたので、その声に押されるように最初に来たタクシーに乗りこむことができました。

並んでいた人のなかには、「このおばあちゃんって、結構有名な人だよ」と言ってくださる人がいたり、車に乗ってからバイバイと手を振ったら振り返してくれる人がいたり。まわりの人たちのいたわりの気持ちが感じられて、とてもハッピーな出来事でした。

上野:世の中には、趣味の対象そのものが好きな人と、趣味の人間関係が好きな人がいますね。わたしの場合は昔からひとりで行動することに慣れていて団体行動はほとんどしないから、趣味のスキーもひとりでゲレンデに行ってます。どんなに気持ちがいいことか! でも、男友だちとは行きますよ。そう、男は調達するの(笑)。

樋口:そういえば、上野さんと一度、ばったりオペラの公演でお会いしたことがあったわね。車いすの男性を介助されていて。偉いと思った!

上野:見られていたか(笑)。あのときは、「車いすになっても諦めなくてもいいんだよ」と言って、あのおじさまを連れ出したんです。確かに、優秀な尿漏れパッドのおかげで、趣味のやめどきが延びました。

海外は移動や時差が苦痛に

樋口:私はもう海外旅行はやめました。体力がもたないし、国内はまだ歩けても海外は付き添いがないと心配で。あと税関の行列を立って並ぶ時間が耐えられないのよ。

上野:そういうときは車いすですよ。車いすでもストレッチャーでも使えば、今はどこへでも行けちゃいます。

樋口:それでも行こうという気概があるかどうかよね。上野さん、じいさん、ばあさんのための車いすツアーをやってよ。そしたら、私も応募するから。

上野:気持ちはわかりますが、わたしは団体旅行が大嫌い。それに、最近は時差のあるところに行くのが、わたし自身つらくなりました。だんだん時差が簡単に抜けなくなってきてます。だから海外に行くと、この景色もこれが見納めという気持ちで眺めております。

樋口:まだ早いんじゃない? 80歳までは大丈夫よ。私も上野さんの年齢のときは平気で行ってたもん。

上野:以前は隣町へ行くような感覚で、気楽にホイホイとニューヨークとかに行ってましたが、今は出かける前から面倒だなあ、何でこんな予定を入れたんだろうってうんざりしています。そんな自分にドキッとして、こんな気分若いときには考えられなかったですね。

樋口:私が最後に行った海外は北欧。確か80歳と数カ月だったかしら。年寄りばかりの旅行だったんですけれど、80代は私ともうひとりだけで、あとは70代。80代は70代の人より何となく行動が遅れがちなのよ。ああ、これは足手まといになるなと思って、それが最後になりました。

何かの機会に車いすで旅行する機会があれば行ってもいいけど、いわゆる普通のツアーで行くのは限界ね。寂しいですよ。海外旅行、好きだったから。

80代のクラス会に出てみたら

上野:つきあいはどうですか。わたしは親戚づきあい、近所づきあい、クラス会、法事……全部やってません! 社会活動以外はそっくりやめています。皆さん、年をとってもやってるんですか?

樋口:私は、高校のクラス会にこの間参加しました。でも、87歳ともなりますと、ひとりで出てこられない人がかなり増えるの。全員揃うと120人のクラス会なんですが、結果として集まったのは40人弱。そのうちひとりは車いすに座って、家族の付き添い付きでした。担任の先生が100歳の男性で一番お元気なのよ。だからクラス会は今後もあっさりやめるのではなくて、名簿で管理するという形で続けるようです。ただ、集まるのは80代後半が最後のような気がしますね。

上野:クラス会って、いったい何が面白いんですか? 顔を見ても名前を思い出せないでしょう?

樋口:うん、わからない人がいっぱいいる。


上野:でしょう? そういうところに行って、何が面白いのかしら。

樋口:まわりの親しい人へのつきあいですなあ。それと好奇心。

上野:義理ですか?

樋口:義理ではなくて、一所懸命やってくれる人のなかにはかなり親しい人がいるから──ということは、やっぱり義理ね。でも、それぞれの消息を聞くのがまた楽しいのよ。上野さんは高校のクラス会にも行かないの?

上野:いっさい行きません。でも、クラス会って好きな人は好きですね。何が楽しいのかしら。

樋口:あえていえば、80代後半って、生活の彩りが何もなくなっちゃってるわけです。そんななかで何かあるというのが面白いのよ。そんな人生後半の彩りになっていた集会が、幕を下ろしていくのは寂しいといえば寂しいわね。

(樋口 恵子 : 東京家政大学名誉教授/NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」理事長)
(上野 千鶴子 : 社会学博士。東京大学名誉教授)