2019年から運行休止中で、2024年7月までに廃止されることが決まった上野懸垂線(写真:tenjou /PIXTA)

東京都交通局は2023年7月、運行休止中の上野懸垂線(上野動物園モノレール)を2024年7月までに廃止することを公表した。場合によっては、時期を繰り上げて廃止する可能性もあるという。

モノレールには跨座型(1本の線路にまたがる方式)と懸垂型(1本の線路からぶら下がる方式)があるが、懸垂型はもともと少数派である。広島市のニュータウンにある交通機関で、懸垂型モノレールに分類されるスカイレールも2024年4月の廃止が決定していることから、国内の懸垂型モノレールは、これで湘南モノレール(本社:神奈川県鎌倉市)と千葉都市モノレール(本社:千葉県千葉市)のみとなる。

「鉄道」として初のモノレール

上野懸垂線は、1957年12月に地方鉄道免許により開業した。日本のモノレールの歴史をたどると、戦前においては「単軌鉄道」「懸垂鉄道」「飛行鉄道」といった名目で、十指に余るモノレールの敷設申請が行われた(いずれも却下または取り下げ)。戦後の1951年には豊島園に遊戯物のモノレールが設置されるなどしたが、上野懸垂線は地方鉄道法に基づく「鉄道路線」として最初に開業したモノレールだった。


上野懸垂線開業時の出発式(写真:東京都交通局提供)

この時期に上野懸垂線が建設された理由を知るうえで、興味深いデータが2つある。1つは都内の自動車台数、もう1つは土地の面積に対する道路の割合を示す道路率(道路面積/土地面積)である。都内の自動車台数は、1952年には13万台だったのが、1955年には24万台、1960年には61万台と、10年足らずの間におよそ4.6倍にまで増加している(『警視庁交通年鑑』)。

また、道路率については、ニューヨーク(35%)、パリ(25%)、ロンドン(23%)と比べ、東京23区はエリアによってばらつきはあるものの、全体ではわずか10%にとどまっていた。こうした道路と交通需要の不均衡に起因する大渋滞によって、都電の運行速度も次第に低下し、利用客離れが進んでいた。

このような状況下で注目されたのが、モノレールだった。モータリゼーションの進展の速度を考えれば、地上を走る路面交通と分離した交通手段を導入すべきなのは明白であり、当時、考え得る選択肢としては、地下鉄、アメリカなどの都市で見られる高架鉄道、そしてモノレールがあった。

このうち、本命は地下鉄だった。なんといっても輸送量が大きく、ひとたび完成すれば、路面交通をまったく妨げることがない。しかし、地下鉄の建設には巨額の費用がかかる。1958年8月、東京都交通局は都営地下鉄1号線(現・都営浅草線)の建設に着手したが、その費用は1kmあたり約45.3億円にものぼった。したがって、地下鉄はその対象を幹線に絞らざるを得なかった。

では、高架鉄道はどうかというと、土地の狭い日本においては、都市部で大きな構造物を設置する用地の確保は難しく、日照権などの問題も懸念された。

「新時代の都市交通」期待背負い開業

その点、モノレールは、一般の鉄道の線路に当たる軌道桁と、それを支えるスリムな支柱を設置するだけでよい。建設費用は地下鉄の4分の1程度で済むと試算され、日照権などの問題も少ないとされた。ただし、輸送量が中規模に限られることもあり、地下鉄を建設するほどの需要が見込めない2次的な交通機関(都心から放射線状に延びる国電、私鉄、地下鉄などを有機的に結合する環状路線や地方都市の交通など)として、期待されたのである。


国が東京都に「懸垂鉄道敷設免許状」を出した際の公報(出典:運輸公報)

このような事情から、来たるべき新時代の都市交通としてモノレールが検討されることになり、「都内の路面交通の緩和策として懸垂電車の試験的建設が昭和31年7月3日庁議によって決定され、上野動物園内に建設されることになった」(『東京都交通局50年史』)のが上野懸垂線である。

実験線ということで車両は長さ9283mm、幅1682mm、高さ2256mmと、将来本格的に製造されるであろう実用車よりもスケールダウンして設計。路線の長さは約332mの単線、最急勾配約40‰(パーミル=1km進むごとに40m上る)、最小曲線半径40mというスペックだった。

モノレールにもさまざまな技術方式があるが、上野懸垂線で採用されたのは、現存する中では世界最古のモノレール営業線であるドイツのヴッパータール空中鉄道の「ランゲン式」(ドイツ人技術者のオイゲン・ランゲンにより開発)の改良型で、一般に上野式と呼ばれている。


上野懸垂線の初代車両、H形(写真:東京都交通局提供)

ランゲン式は、車体上部から伸びた1本の懸垂腕によって軌道桁からぶら下がり、バランスを取りながら走行する。また、鋼鉄レールと鋼鉄車輪が用いられている。上野式は、このランゲン式をベースに、騒音低減の観点からゴムタイヤを採用するなどの改良を加えたもので、都交通局のほか、日本車輛、東京芝浦電気(現・東芝)が技術開発にあたった国産技術に基づくモノレールと位置づけられている。


ドイツ・ヴッパータールのランゲン式モノレール。車体上にある鋼鉄のレール上を鋼鉄製車輪で走っていることがわかる(写真:enomoto/PIXTA)

当時、鉄道車両にゴムタイヤを利用した例は、「パリの地下鉄のみで、他にその例がなく、わが国では始めての試みとして、種々の実験・研究を経て採用された」と、都交通局工務部長を務めた塩入哲郎氏が『鉄道ピクトリアル』1970年4月号に寄稿した『上野モノレールの使命』中で述べている。

また、塩入氏はランゲン式をベースに技術開発に当たった理由について、「昭和30年当時はサフェージュ型は実験の段階で、アルウェグ型は鉄車輪を使用した模型が制作された程度の時であり、どちらの形式をも採用することはできなかった」と述べている。

アルヴェーグ式(=アルウェグ型)は、西ドイツ(当時)で開発が進められた跨座型モノレールで、後に東京モノレールなどで採用される。また、サフェージュ式はフランスで開発が進められた懸垂型モノレールで、後に湘南モノレール、千葉都市モノレールなどで採用される。こうした新技術が未完成だった段階において、都市交通としての長年にわたる実績のあるランゲン式を技術のベースに据えたのは、当然のことであった。

「左右非対称」という欠点

しかし、この方式のモノレールには大きな欠点が2つある。まず横風等に弱く、横揺れ時に懸垂腕と軌道が接触しないよう、車体の大きさに比して不釣り合いに大きく、しかも湾曲した懸垂腕にしなければならない。これが重量増、空気抵抗になるのは当然である。また、単純に横揺れを押さえようとすると、カーブ走行時の振り子運動をも制限することになり、その調整には特殊な仕組みが必用となる。

もう1つの欠点は、複線にする場合に軌道桁を支える支柱をT字型にしたときに(道路の専有面積を小さくするにはこれが望ましい)、懸垂腕が左右非対称であることから、終点駅で、そのままスイッチバックして上り線から下り線に移すことができず、転轍機(ポイント)で方向転換させようとすると、かなり複雑で大がかりなものになってしまうことである。そのため、ヴッパータール空中鉄道では、路線両端の駅にループ線を設け、方向転換させている。


ランゲン式モノレールの転轍機。軌道桁を動かす大がかりな仕組みとなっている(出典:『モノレールの技術的諸問題』三木忠直)

上野懸垂線は単線で1編成のみの往復運転であり、この欠点は問題にならなかったが、もし、上野式で実用線を建設するのであれば、やはり両端をループにするしかなかったであろう。

実は、こうしたランゲン式・上野式モノレールの欠点を解決したのが、その後間もなく登場する横揺れに対応する「水平ダンパー」を付けた「左右対称」の特殊な懸垂リンクを採用したサフェージュ式モノレールなのである。

上野懸垂線が建設されたおよそ3年後の1961年2月、運輸省(当時)を中心に私鉄経営者協会(現・日本民営鉄道協会)と公営交通事業協会が協同して、ヨーロッパのモノレールの現状と計画を視察するために、2週間のスケジュールで「欧州モノレール視察団」を派遣した。小田急の渋谷専務を団長に、京阪の上林常務、名鉄の香高施設局長(いずれも当時)ほか、10名が参加するという大がかりなものであり、私鉄業界がいかにモノレールに注目していたかがわかる。ちなみに、名鉄は翌1962年に犬山遊園モノレール、小田急は1966年に向ヶ丘遊園モノレールを開業させている。

この欧州視察団の報告書を見ると、アルヴェーグ式とサフェージュ式を視察した結果に基づいて、技術的な詳細がまとめられている。当時、アルヴェーグ式は1952年にドイツ・ケルン郊外のヒューリンゲンに当初1/2.5サイズの試験線(鋼鉄車輪・レール)がつくられ、1957年にフルサイズのもの(ゴムタイヤ・コンクリート軌道)につくり替え、試験走行が行われていた。

また、サフェージュ式は、1960年にフランスのオルレアン郊外のシャトーヌフに試験線がつくられ、試験走行がはじまっていた。この試験線は、映画『華氏451』に登場するのでご存じの方も多いだろう。サフェージュ式は前述した特殊懸垂リンクの採用に加え、ゴムタイヤがケーソン型(箱形)の軌道内を走行するため低騒音かつ登坂力が高く、さらに風雨雪にも強いという特徴も兼ね備えるなど「懸垂型モノレールの決定版」とも評された。


サフェージュ式モノレール(湘南モノレール)の軌道と転轍機(筆者撮影)

技術開発進展で「上野式」は過去のものに

このように上野懸垂線が建設された後、わずか数年の間に「近代モノレール」とカテゴライズされる技術が、次々と萌芽した。欧州視察団の報告書を見れば、すでにアルヴェーグ式とサフェージュ式こそが、その後の都市モノレール推進の本命であると目されていたことがわかる。

また、メーカー各社の動きも早く、日立製作所は1960年にアルヴェーグ社と技術提携を結び、少し遅れて1962年には三菱グループがサフェージュ社、川崎航空機がアメリカのロッキード社(ロッキード式モノレールは向ヶ丘遊園モノレール、姫路モノレールで採用)と提携し、技術導入した。

そして、1970年に大阪万博会場内で運行されたアルヴェーグ式の改良型である日本跨座式モノレール、および同年に開業したサフェージュ式の湘南モノレール(2023年6月16日付記事「湘南モノレールは『海岸』まで延びる予定だった」)の成功によって、日本跨座式とサフェージュ式が、モノレールの標準仕様となることが確定した。

さらに1970年代に入ると、新交通システムの検討・実験も本格化する中、上野式は、技術的にはもはや過去のものとなり、ついに他路線で実用化されることはなかった。しかし、パンダのカンカン、ランランが上野動物園に来た翌年の1973年度には約153万人が上野懸垂線を利用するなど、乗り物としてのその人気は高く、開業から60年以上の長きにわたり運行が続けられたのである。


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(森川 天喜 : 旅行・鉄道ジャーナリスト)