今では信じられない熟年社員の破格の給料…「サラリーマン+専業主婦」が維持できた日本の特殊事情
■働き方は変わったが、意識と仕組みが取り残されたまま
前回は、戦後の日本企業太平期に作られた「昭和型価値観」について書きました。
それは、男女の心だけでなく、産業構造や教育指導までもシフトさせました。
ところが、バブル不況以降の失われた20年に突入すると、産業界では昭和型を維持することができなくなってきました。そして、働き方は崩れていく中で、「心」は過去のままであり続け、軋みを起こし始めます。
この流れについて、若年層の女性に向けて書いた拙著『女子のキャリア』から、引用して説明することにします。
<以下引用>
日本の社会(ここでは「働き方」)は、少しずつですが、長い時間をかけて相当変わってきました。
ただ、働き方は変わっても、過去の働き方で育った人たちの気持ちや価値観は、(もうすでに作られてしまったものなので)なかなか変わりません。同様に、過去に作られてしまった仕組みや関係なども、なかなか変更することは難しい。だから、そこにギャップが生まれてしまいます。
今の世の中でも、その昔に作られた仕組みが温存されて、軋みを起こしていることがよくあります。女性のキャリアを考えるうえでも参考となるので、今度は少し、この昔の仕組みと今の働き方の軋みについて、話をしていくことにしましょう。
■男性は大卒なら全員管理職になれた
ビジネス街の大きな会社では、女性は30歳までしか働けない。そんな状況でした。ではその当時の男の人は、どんな働き方をしていたのでしょうか?
こちらも、詳しく企業の中身をのぞいてみると、今とはずいぶん違う働き方をしていました。
今、大手の人気企業は高校の新卒者をホワイトカラーとしてあまり採用していません。大学卒業者ばかりが働いています。しかし、1970年代前半までは、こうした大手企業でも高卒でホワイトカラーの正社員を普通に雇用していました。彼らは本社の内勤部門や工場・営業所の事務などの仕事に就き、大卒者のサポート役として働くことが多かったようです。
そのころの日本は、まだ円高などどこ吹く風で、国内に多数の工場を持ち、そこで作られた製品を世界各国に大量に輸出していました。そのため、地方の工場や営業所に行くと、これまた地元採用の高卒社員が多数います。そう、大手企業といえども、社内には高卒の社員が多数、働いていたのです。
逆に言うと、大卒はそれほど社内に多くはなく、少数のエリートであったともいえるでしょう。だから、そんな「エリート」の特権として、将来はほぼ全員が必ず管理職まで昇進でき、退職後は関連会社に天下りができたりもしました。
そう、今のように、誰もが大学に行く時代の大卒とは、大きく立場が異なったわけです。
にもかかわらず、そんな昔に出来上がってしまった常識が抜けないから、今でも「大卒で総合職として採用されれば、みな管理職になれる」と思ってしまうところがあります。これなど、先ほど書きました「軋み」のわかりやすい事例と言えるでしょう。
■昭和時代に存在したヒエラルキー
さて、当時の社内を少し荒っぽく説明すると、「大卒エリート」が一番上に陣取り、その下に「高卒ホワイトカラー」「高卒製造職」が位置し、そして一番下に「女性事務職」の人たちがいる、そんな構成となっていました。
今の人からすれば、大卒エリートは満足するかもしれないけれど、その下の人たちはなぜ文句を言わかないか、と感じてしまうでしょう。
しかし、当時は当時でうまくできていたのです。
高卒で正社員として採用された男性たちには、まず、終身雇用という「安定」が用意されていました。また、昇進についても、細かく階層を区切りながら、最終的に課長一歩手前の「課長補佐」まで出世できるように設計されていました。しかも、著しく業績が素晴らしい好人物は、高卒でも抜擢されて部長や事業部長、少数ながら役員にまで上り詰める人がいたのです。
そんな感じで、「安定」「やや昇進」「時折抜擢」があったため、文句を言う人がなかなか出なかったといえるでしょう(ただ、「課長補佐」で昇進が止まった多くの高卒者は、「結局俺は高校しか出ていないから」とよく不平不満を漏らしていた、と耳にします。彼らの学歴コンプレックスが、子どもたちに大学進学を勧める一つめの理由になったのではないでしょうか)。
■熟年男性社員の年収は初任給の3.5倍
ここまで読んで、女性にはつくづく何もないと感じたのではないでしょうか?
まず、30歳で辞めることが前提だから、安定などありません。もちろん、昇進も抜擢もないでしょう。なのになぜ、女性たちはこの働き方に文句を言わなかったのか?
一つには、時代・社会がそれを許さなかったという部分があるでしょう。
もう一つ。人事や企業経営に詳しい人は、女性に特権的に与えられた権利が一つだけあったと、冗談半分ながら、語ります。
それは、「社内結婚」。
まだ当時は見合いでの縁組もそれなりにあったのですが、それでも戦後30年以上たって欧米文化が浸透していた時期でもあり、社内での恋愛結婚組も普通に生まれていました。
一番つらい立場にいた彼女たちは、エリートと恋に落ちて結ばれると、今度は専業主婦という特権を手に入れることができます。奥さんが専業主婦でも成り立つくらい、当時の熟年社員の給与は高かったのです。賃金構造基本統計調査という統計で計算してみると、大卒初任給を1としたとき、当時の大企業の熟年社員は3.5倍近い年収となっています。現在は2.7倍程度(図表1)なので、その高さがよくわかるでしょう。
■入社数年に人生をかける
「家に入れば三食昼寝付きの上に、カカア天下で旦那は頭が上がらない」だから、女子事務職は、最終的には一番エラくなってしまう、などと揶揄する人もいたそうですが、これは言い過ぎだと思います。
彼女たちは、短期間しか会社勤めを知らず、頭脳明晰(めいせき)でも大学に通ったことがありません。そして、難関大学を出て総合職になった男性社員はエリートである、というかつての常識を、その見返りで自らも専業主婦でいられたという成功体験で、自分の中に取り込んでいます。だからなのでしょう。彼女らは、自らの子どもたちに対しても、良い大学への進学を勧めます。これが、大学進学熱が高まった二つめの理由だと、私は思っています。
さて、こんな周辺状況を知ると、いよいよ「クリスマスケーキ」の意味も理解できるのではないでしょうか?
20代前半でいい男を見つければ吉、さもなくば凶。だからみな入社数年に人生をかけている――少しオーバーに書いたところもありますが、大体は正しい話です。正直に言えば、そのころの多くの女性は、キャリアというものを本気で考える余裕がなかったはずです。
■四年制大学より短大の方が偏差値が高い逆転現象
こんな時代だったから、当時は女性で四年制大学に進学する人が少なかった。だいたい10%強で、多くの女性は、高卒かもしくは短大卒という最終学歴で社会に出ていました(図表2)。
総合職として女性を採用する企業はほとんと見つからず、求人は事務アシスタントの仕事ばかり。だから、四年制大学の経済学部や法学部を卒業するよりも、秘書や事務の勉強ができる、もしくは家事育児が学べる短大の方が人気が高かったのです。
当時、学力に優れる女子高生が、四年制大学に行きたい! と言うと、親も教師も先輩も、例外なく、こんなふうに言ったものです。
「そんなことしたら、就職なくなるよ!」
このことは、60代以上の女性に聞いてみてください。みな、“うんうん”とうなずいてくれるはずです。
余談ですが、こうした優秀な女子が、こぞって短大を受験するため、当時の短大は今とは比較にならないほど、偏差値が高くもありました。立教女学院(短大)が立教大学よりも、青山短大が青山学院大学よりも偏差値が高いという四短逆転は、それほど珍しいことではなかったのです。
それでも、どうしても四大に行きたい、という女性もいたでしょう。そうした場合、四年制の女子大に通うケースが多くありました。そのため、これまた四年制女子大の偏差値も今より相当高く、東京女子大学や津田塾大学などの名門校は、早稲田や慶応に近い数字となっています(図表3)。
この時代に、大体、日本の大手企業で働く女子のスタイルが作り上げられてしまったのでしょう。
短大かもしくは四年制女子大を卒業し、事務職として会社に勤める。それも、たいていは腰かけで寿退職。どんなに長くても30歳が限界。だから、女子を長期的に育てていく、という考えが会社にはなかなか根付きません。当然、厳しく指導することもはばかられていくでしょう。それよりも、女子には難しい仕事を任さず、残業もなるべく頼まず、どちらかといえば、庇護し、そして、重要な仕事は男性社員に……。
今、会社で重要なポジションを占める上席者の多くは、80年代に会社に就職した人たちでしょう。ちょうど、こんな文化が浸透していた時期に、社会人としての薫陶を受けた世代なのです。
■OLモデルのあっけない幕切れ
こうした時代の大手企業では、ともすれば、“お嫁さん候補”的な扱いをされ、女子事務職の仕事が軽んじられる傾向にありました。今でも、時折規制に守られた競争の少ない大手企業に行くと、その当時のままの風景が垣間見られたりします。
部長職以上には、専任職(部下のいない管理職)も含めて、一人に必ず一人秘書がつき、伝票の清算や出張の申請、切符の手配などを任せている、というような感じです。とはいえ、こんな“部長の雑用係”では、大した仕事量にはなりません。彼女たちは手持ち無沙汰であり、昨今であれば一日中、ネットサーフィンに明け暮れている。冗談ではなく、そうした会社が今でもまだ時折見られます。80年代だと、むしろこうした会社が普通で、女子にバリバリ仕事を任せるような会社こそ、希少でした。
女性は短大を出て、事務職として気楽に働き、結婚して退職。こんな働き方を、“OLモデル”と呼んだものです。これは、1985年に男女雇用機会均等法が施行されて、職種名称こそ事務職から一般職に代わってからも、あまり変化は見られませんでした。
このOLモデルに風雲急を告げるのが、1990年代です。たった数年で、女性の働き方は激変するのです。ただし、くどいようですが、働き方は変わっても、会社の仕組みや働く人の価値観・意識はなかなか変わらないために、このころより、連綿と「軋み」が続くことになります。
■「短大卒→一般職コース」が採用削減の矛先に
さて、ではどうして急にOLモデルは壊れたのでしょうか?
答えは意外に簡単です。この時期にあった、経済的にとても大きな事件。そう、バブル崩壊です。1991年4月から、バブル景気は終わって経済は後退期に入りました。株式相場格言にもあるとおり、「山高ければ谷深し」で、この不況は体感的にとてつもなく激しく感じられたものです。
ただ、日本型雇用を長らく謳歌してきた当時の日本企業は、業績が悪化したからといっても、いきなりリストラをするような野蛮な行動には出られませんでした。代わりに、余剰人員を減らしてスリムに経営改革するために、多くの企業は新規採用をストップし、定年退職による自然減員を待つことになります。
ということで、1990年代前半以降、のちにロスジェネ(1970〜1982年生まれ)と呼ばれるほど厳しい就職状況となっていきました。試みに、最悪期だった1996年入社(95年採用)組の新卒求人数をみると、その数はわずか39万件。対して、リーマンショック後の最悪期である2011年入社のそれが58万件です。同じ絶不況でも、当時は今の3分の2しか採用枠がなかったことがわかるでしょう。
こんな新卒採用難の時代に、真っ先に採用削減の矛先を向けられたのが、短卒→一般職というコース。短大卒業者の就職率を見ると、バブル期とバブル崩壊後のコントラストがあまりにもくっきりしすぎていて、興味深いものです。
■「短大を出たら就職ができない」状況に
バブル時代の短大就職率(卒業者に占める就職した人の割合)は常に90%近くとなっています(前出図表2参照)。少し就職事情に詳しい人がこの数字を見ると、異常なほどに高い、と感じるでしょう。なぜなら、卒業した人でも、四年制大学に入りなおす人もいるだろうし、当時なら調理や被服などの専門学校(花嫁学校)に通う人やそのまま家に入って家事手伝いの人も少なくないはずだし、少数ながら留学した人もいただろうし……。こうした「非就職希望者」はいつの時代だって1割程度はいたものです。にもかかわらず、就職率が9割近いということは、現実的には「ほぼ100%」だったと考えられる。だから、驚きの数字なのです。
対して、四年制大卒業者(主に男性)は今よりも3割以上も少なく、しかもバブルで景気は絶好調だったのに、それでも彼らの就職率は7割台にとどまっています。ここからも、当時の短卒の就職率の異様な高さはわかるでしょう。
「四大なんか行ったら就職なくなるよ」という裏側には、これほどまでの短大有利がありました。ところが、景気低迷とともに、一般職採用がこれでもかというほどに削減され、当然、短大卒業者の就職率も、坂道を転がり落ちるような猛スピードで落下していきます。
今度は、「短大を出たら就職ができない」になりました。景気悪化から2年遅れて、短大進学率も下降を始めます。こうして、OLモデルという生き方の終焉(しゅうえん)が始まりました。
90年代半ばには、さざ波景気という緩やかな景気回復期が訪れ、四年制大学の新卒採用(=総合職)については状況が一時的に改善します。ただ、短大卒の就職率の悪化はとどまるところを知りません。そのまま一気に2000年まで下降を続け、6割を割って58%まで下がりました。この間に、短大進学者は4割も減っているにもかかわらず、です。
企業はもう、多少業績が回復しても、かつての「部長秘書」のような働かない管理職を助長する仕組みを復活させはしなかったことが一つ目の理由に挙げられるでしょう。
■一般職が潰えたもう一つの理由
そしてもう一つ、大きな理由が存在します。
90年代の中盤より、一般職の女子社員が、昇進や昇給などで不平等な扱いを受けている、と企業相手に訴訟を起こすケースが相次いだのです(住友グループ/1995年提訴、兼松/1995年提訴、野村証券/2002年提訴、昭和シェル石油/2004年提訴)。その結果、大手企業は次第に、一般職という職制に対して、マイナスイメージを持つようになりました。そうして、事務職を雇う場合も、自社採用することに難色を示し、派遣社員派遣社員(これは雇用しているのは派遣会社なので、待遇に差が出ても黙認される)に置き換えていったのです。
こんな流れで、90年代の終わりには、短大→一般職というかつての女子のメインストリームは完全に潰えていきました。
ここまでで、「昭和型社会構造」が、不況のため産業側から壊れだし、ほんの少々タイムラグを置いて、教育界にまで波及していくのが分かったかと思います。
ではなぜ、このころから「心」の部分は刷新されなかったのでしょうか。
日本の産業界の辿った道筋を大まかに辿れば、「日本型は要らない部分からさっさと切り捨てた」が「本丸については、微修正を加え続ける形で、何とかその命脈を保ち続けたからだ」と言うことができるでしょう。
まず、ここにある通り、事務職正社員(=一般職)を切り捨て、量を減らして非正規化しました。続いて、製造・販売・サービス・運搬/清掃といった非ホワイトカラーを、非正規化していきます。90年代から2000年代初頭にかけて、こうした形で非正規化が進んだことで、リーマンショックの数年前から、「貧困」「格差」問題が頭をもたげるのです。
ただ、この当時、マスコミを中心に大きな誤解も生まれています。実はこうした流れの中でも、ホワイトカラー職務に対しては、非正規化はほとんど進んでおらず、しかも、少ない非正規の多くが、定年退職者の再雇用だったりするのです(図表4)。
つまり、日本型の本丸は保たれ続けることになります。
それでも、かつてほどの大判振る舞いはできないから、課長になれる率は下がり、年功昇給も、前述の通り、緩やかなものにした。そうした形で、マイルドに日本型を維持し続けたと言えるでしょう。
その結果、大学を出れば「給与は高く、偉くなれる」という幻想が、細々と現在まで残り続けるのです。
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海老原 嗣生(えびはら・つぐお)
雇用ジャーナリスト
1964年生まれ。大手メーカーを経て、リクルート人材センター(現リクルートエージェント)入社。広告制作、新規事業企画、人事制度設計などに携わった後、リクルートワークス研究所へ出向、「Works」編集長に。専門は、人材マネジメント、経営マネジメント論など。2008年に、HRコンサルティング会社、ニッチモを立ち上げ、 代表取締役に就任。リクルートエージェント社フェローとして、同社発行の人事・経営誌「HRmics」の編集長を務める。週刊「モーニング」(講談社)に連載され、ドラマ化もされた(テレビ朝日系)漫画、『エンゼルバンク』の“カリスマ転職代理人、海老沢康生”のモデル。著書に『雇用の常識「本当に見えるウソ」』、『面接の10分前、1日前、1週間前にやるべきこと』(ともにプレジデント社)、『学歴の耐えられない軽さ』『課長になったらクビにはならない』(ともに朝日新聞出版)、『「若者はかわいそう」論のウソ』(扶桑社新書)などがある。
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(雇用ジャーナリスト 海老原 嗣生)