私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第22回
日本一のサイドバックを目指した男の矜持〜加地亮(2)

(1)加地亮のサッカー人生を狂わせた1プレー「あれは酷かった」>>

 2006年ドイツW杯。初戦のオーストラリア戦、日本は前半26分に中村俊輔のゴールで先制し、優位に試合を進めて前半を終えた。だが後半、オーストラリアが牙をむいてきた。

 ティム・ケーヒルを筆頭に、交代カードを次々にきって反撃。日本はロングボールを中心とした攻撃に苦しめられ、自陣に張りついた状態になった。

 ベンチから戦況を見守っていた加地亮は、「これ、危ないんちゃうか」と隣に座っていた遠藤保仁と顔を見合わせた。

「日本は(オーストラリアの)パワープレーで押し込まれて、セカンドボールを拾われていた。それが続くと、前に出られなくなるんです。攻撃の選手もディフェンスに回らざるを得ないんで、前にはひとりくらいしか残れない。それで、世界のセンターバック相手に時間を作れるかというと、そこまでの力はなかった。

 本来なら、スプリントができる足の速い選手がいれば、全体を押し上げることができたと思う。でも、この時の代表には中盤でスプリントが利く選手、今で言う前田大然とか、浅野拓磨や伊東純也といった選手がおらず、みんな、セカンドで(ボールを)拾っても足元でつなぐ選手が多かった。

 そのため、ボールを拾っても、また前で奪われて、というのが続いた。それで、どんどん体力が消耗していったんで、『危ないな』と思ったんです」

 加地の悪い予感は当たった。

 後半39分に追いつかれると、44分、アディショナルタイムと立て続けに失点を重ねて、日本は1−3で初戦を落とした。

「(初戦で逆転負けを喫して)いきなりこれは『厳しいなぁ』と思いました。W杯では初戦を獲れば、だいたい80〜90%はグループリーグ突破という確率があったんで、初戦を獲らないといけないというのは、みんな、わかっていた。

 しかも(グループリーグの)対戦相手を考えれば、オーストラリアには絶対に勝たなければいけなかった。でも、最悪の逆転負け。これは、衝撃的だった」

 思い起こせば、世界2位になった1999年ワールドユースナイジェリア大会において、加地もメンバーの一員だったU−20日本代表も、初戦のカメルーン戦で逆転負け(1―2)を喫した。ただその時は、選手たちは敗れてもなお、自信にあふれていた。

「確かにあの時は、敗れても『自分たちのほうが強い』『いいサッカーをしている』という自負があった。でも、W杯とアンダー世代の大会は違う。

 W杯は誤魔化しが効かないので、実力どおりの結果にしかならない。オーストラリア戦もリードしたけど、相手のほうが一枚も二枚も上手だった」

 衝撃的な敗戦を喫したとはいえ、敗戦にうなだれている時間はなかった。すぐに次の試合がやってくる。加地は「次は自分の出番だな」と確信に近いものを感じていた。

「初戦に勝っていたら、続くクロアチア戦も自分の出番はなかったと思う。ジーコさんはたぶん、勝ったまま(のメンバー)でいくでしょうからね。でも、負けたので『次は自分やな』と。ただ(試合に)出るだけじゃなくて、チームのためになれるように準備をしていかないといけないと思っていました」

 クロアチア戦に向けて、ジーコは3バックから4バックへのシステム変更を決めた。守備については、中田英寿を中心に議論となったが、ここでも結論は出ず、クロアチア戦も"なんとなくの空気感"で守備をやることになった。

 加地はこの時、ジーコが絶対的な信頼を置いて、欧州でも違いを見せていた中田英の考えに合わせてみてもよかったのではないか、と思っていた。

「W杯では、ヒデさんに全員が合わせて、ヒデさんのチームにしたほうがよかったんじゃないかなと思っていました。ヒデさんは、世界に出て経験があったし、確固たる考えがありましたから。

 一方で、守備陣は皆、Jリーグの経験しかない。世界を知らないわけじゃないですか。だったら、ヒデさんのサッカー観についていったほうが世界と戦えるだろうし、少なくとも『もうちょっと、まとまることができたんちゃうかな』って思っていました」

 そんな加地の考えとは裏腹に、中田英はチーム内でどんどん孤立していった。

 迎えたクロアチア戦、加地は大会前のドイツ戦以来のスタメン復帰を果たした。だが、右足首の痛みは引いていなかった。前日の練習では痛み止めのクスリを飲んでプレーしたが、ほとんど効果がなかった。

「(試合当日は)痛み止めの注射を打ってもらった。感覚はなくなったけど、久しぶりに痛みがないなかでサッカーができるんで、それって『幸せなことやなぁ』って思いましたね」


ドイツW杯第2戦のクロアチア戦で奮闘した加地亮だったが...

 クロアチアも、日本も初戦を失っており、ともに負けられない試合は非常に堅い展開になった。前半21分、宮本恒靖が相手FWを倒してPKを取られたが、川口能活が好セーブ。失点を回避した。

 流れは日本に傾いたが、ゴールを割るチャンスはなかなか訪れなかった。最大のチャンスは後半6分だった。高原直泰とワンツーでペナルティーエリア内に抜け出した加地がゴール前の柳沢敦に決定的なパスを出した。が、柳沢が右のアウトサイドで合わせたシュートはあえなく外れた。

「ヤナギさん(柳沢)に出したのはクロスじゃなくて、シュートです。シュートの意識で打ったんですけど、当たりどころが悪くて、かすった感じになった。『うわっ、やばっ、ミスった』と思ったら、真横にボールが飛んでいって、フリーのヤナギさんのところにいった。

 ヤナギさんは『急に(ボールが)きた』って言ってましたけど(苦笑)。自分は(そんな柳沢を見ながら)目の前にGKがおらんのに、なんで外したんやっていう顔をして、ポジションに戻っていきました。自分のシュートミスなのに、ヤナギさんのミスみたいになって『ごめん』って感じでしたね」

 大会後、柳沢とプライベートで会った際に「あれって、(世間では)クロスみたいに言われているけど、シュートだよね」と聞かれたという。加地は正直に「シュートです」と言うと、柳沢は「そうだよね」と苦笑していたそうだ。

 クロアチア戦は大きな波が訪れることなく、淡々と進んでいった。そうした状況のなか、加地は(日本代表の)プレーがすごく淡泊に感じられた。

「どっちつかずの状態で、我慢強く戦うことが求められた試合だったけど、(結果的に)打開できなかった。

 日本には、うまい選手がそろっていました。みんな、めちゃくちゃ技術レベルが高くて、すごいなって思うんですけど、きれいすぎるんですよ、プレーが。世界と戦って点を取るには、もっと人のために泥臭く動ける選手、汗をかく仕事ができる選手が必要だった」

 ジーコジャパンには2002年日韓W杯で奮闘した戸田和幸や明神智和のような、人のために"汗をかく"選手がいなかった。ジーコが選出した選手の多くは、技術が高く、それを前面に押し出すプレースタイルの選手が多かった。

 そのせいか、きれいに崩そうという意識が攻撃面では如実に表れていた。アジアではそれも可能だったが、世界相手のW杯ではそれは通用しなかった。

 クロアチア戦は0−0の引き分けに終わった。日本はいよいよ土壇場に追い込まれた。グループリーグを突破するには、最終戦のブラジル戦で2点差以上の勝利が必要になった。

 そうした状況に絶望感を抱いたのか、チームは選手個々の鬱積した不満があふれ出し、さらにまとまりを欠いていった。紅白戦ではサブメンバーがレギュラーメンバーに対してファールすれすれの激しいチャージをするなど、ピッチ上はギスギスした空気が流れていた。

 最悪のチーム状態のなか、加地は見て見ぬふりをして、意見すらしなかったことに後悔の念を抱いたという。

「サッカー人生最大の後悔が、この時です。みんな、自己主張というか、言いたいことを言うだけで、チームとしてまとまらなかった。その時、自分も意見して、どうすれば全体がまとまるのか、発言すればよかった。でも、言えなかった」

 なぜ、加地は意見を言えなかったのか。

「自分は若かったし、自分が意見を言ったところで弾かれる。ヒデさんやツネさんたちの話し合いを聞いていて、『ここで自分が何か言っても無理やな』って勝手に解釈していたんです。

 でも、何も言わずにいるのは、チームのために何もしていないのと一緒で、めちゃくちゃ後悔した。W杯に来て、こんな経験は二度としたくない。この先は、きちんと自分の意見を言おう。これが、W杯で得た大きな教訓になりました」

 最後のブラジル戦は玉田圭司が先制点を挙げるも、個人としても、チームとしてもどうしようもない差を感じた。ドイツW杯、日本は1分2敗でグループリーグ敗退となった。

「あっさりと大会が終わって、『儚いなぁ』と思いました。期待値が高かっただけに、応援してくれた人たちに申し訳ない気持でいっぱいだった。こういう悔しさは、Jリーグでも、人生でも経験したことがなかった。悔しさと後悔しかない大会だった」

 加地にとって初めての、そして最後のW杯は、悔しさにまみれて終わった。

(つづく/文中敬称略)加地亮、最も脂の乗っていた時期になぜ代表引退を決めたのか>>

加地 亮(かじ・あきら)
1980年1月13日生まれ。兵庫県出身。滝川第二高卒業後、セレッソ大阪入り。以降、大分トリニータ、FC東京、ガンバ大阪、チーヴァスUSA、ファジアーノ岡山でプレー。1999年ワールドユースで準優勝を果たした「黄金世代」のひとり。その後、日本代表でも活躍し、2006年ドイツW杯に出場した。国際Aマッチ出場64試合、2得点。