結婚相手にはどんな人を選ぶといいか。フリーライターの鶴見済さんは「人間関係は『おたがい対等』という意識がどちらかに欠けていると、喧嘩に突入しやすい。結婚相手にけんかが起きやすい相手を選んで、わざわざ不幸になることはない」という――。

※本稿は、鶴見済『人間関係を半分降りる 気楽なつながりの作り方』(筑摩書房)の一部を再編集したものです。

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■一緒に暮らすなら、けんかの数とダメージの少ない相手を

結婚する相手や一緒に暮らすパートナーを選ぶなら、何を基準にすればいいだろうか?

これもまたあまりにも大きな問題だ。年収だ、価値観が合うことだなどとよく言われるが、ここで自分が言いたいのは少し違う。特にメンタルが強くない人には、別の基準が必要だ。

つまり他の何よりもまず、けんかをしない相手を選ぶことだ。

この世で一番嫌な人物とは、けんかをしている真っ最中のその人だ。もともとその人がどんなにいい人でも、けんかをすればそうなる。何しろ近い場所から、こちらにダメージを与えようとしているのだから。

そして一緒に暮らしていて、まったくけんかをしないなんてことはまずない。それなら外見や収入より、何よりもまず、けんかの数が少なく、そのダメージが小さくて済む相手を選ぶべきなのだ。一緒に暮らすというのは、そういうことだ。

■一度けんかが起きたら、途中で切り上げる

具体的に言おう。自分も相手もけんかなどしないタイプだと思っていても、他のことでイライラしている時はいくらでもある。

そんな時に相手がごみを出し忘れたなど、ほんのささいなきっかけがあれば、口論は始まってしまう。

「そっちだって掃除をしない時がある」「それなら、そっちだって」などと言い合っているうちに、最初は予想もしなかった大ごとになってくる。そのまま「別れる」まで行ってしまうことだってあり得る。

だからこそどこかで、エスカレートしているやりとりを切り上げられることが大事なのだ。自室に行く、外に出るなどして、きっぱりとその場を離れてしまうのがいい。

ここで「もっと言い返してやりたい」という気持ちを抑えるのは、誰にとっても大変なことだ。けれども、その努力もしない相手は選ばないほうがいい。

そして次には、たがいに口をきかない沈黙の段階が来るだろう。けんかの大きさによっては、数日は続くかもしれない。この段階もこの上なく気分の悪いものなので、無駄に長引かせないことが大事だ。

そんな時に話をせざるを得ない何かのきっかけが訪れて、もとに戻って終了。けんかとは大体こんなところではないか。

この過程のすべてが、メンタルが強くない人にとっては不快極まりないものだ。共同生活の居心地の悪さは、このけんかの多さ次第で決まってしまう。

何よりもまずは、このけんかの発端を軽々しく作らないこと。そして一度けんかが起きたら、意地にならず途中で切り上げること。何よりもこれらを心がけられる相手を選ぶべきだ。

■人に向けるのは「好意」にしておく

人間関係の法則について書く以上、どうしても書いておきたいことがある。それは、「人間関係では、人に好意を向ければ好意が返ってくるし、悪意には悪意が返ってくる。だから人に向けるのは好意にしておいたほうがいい」ということだ。

これはこの上ない深みを持った法則なのだ。ここに関する意識が薄い人ほど、けんかを軽々しく始めてしまう。

このことは、古くからある人間の贈り物の文化の研究のなかで、とても大きなテーマになっている。我々は何かを貰ったら、どうしてもお返しをしてしまう。それに対してまたお返しをするという連鎖が起きる。「互酬」という難しい名前がついている。

そして悪意を向ければ悪意が返ってくることまで、この習性に含める専門家もいる。たしかに「お返し」という言葉には、日本語でも英語でも「やり返す」「仕返し」の意味がある。

嫌なことをされたら、同じくらいやり返すとまではいかなくても、好意を向けるのはやめるだろう。こうして今度は悪意の連鎖が起きる。この習性もまた、我々が骨身に染みてよく知っている。だからこそ、軽々しく“開戦”をするのは罪深いことなのだ。

言い方を変えてみよう。もしあなたが人がいいなら、こちらを尊重しているわけでもない相手に、どこまで好意を与え続ければいいのか迷うこともあるだろう。そんな時の目安は、相手が悪意を向けてきたかどうかだ。

悪意を向けられているなら、好意を返さなくていい。そこまでいい人にならなくていい。人間の尊厳はこのようにして保たれるのだ。

■対等の意識が薄いほど、けんかに突入しやすい

好意も悪意も含めた「お返し」の法則は、我々の誰もが対等であり、特別に偉い人などいないというもっとも大切な原理の表れである。

基本的人権という概念が欧米から入ってくる前に、どんな考え方がその代わりになっていたのだろう? それがこの「対等」という考え方だと思うのだ。もちろん身分や差別があるなかでの、まるで不完全なものだったけれども。

基本的人権はわからなくても、「自分が人にされたくないことを、他の人にもしてはいけない」なら子どもにもわかる。これもまた対等の原理だ。

悪意の連鎖を起こさないために、けんかを軽々しく始めないこと。そのきっかけを作らないよう最大限の注意を払うこと。それがいかに大事なことか、ここからもわかるだろう。

「いい天気ですね」などと話しかけても、相手には情報としてなんの価値もない。それなのにどうして身近な人にそんなふうに話しかけるのか。

やはり人は近くで生きている以上、自分に敵意がないことを示して好意の連鎖を起こしたいのだ。だからそこで好意を返さずに無視をしてはいけない。

「おたがい対等の原則」への意識が薄いほど、自分の怒りやこだわりのほうを重視して、けんかに突入しやすい。

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結婚相手、パートナーは、そう簡単には切れない関係を結ぶ相手のなかでは、自分で選べるほとんど唯一の存在だ。けんかが起きやすい相手を選んで、わざわざ不幸になることはない。

すべての人について、そこを評価の第一の基準にしてもいいくらいだ。

■相手を傷つけるのは近すぎる距離

日本は実は世界でも有数の、夫婦が同居するのを当たり前だと思っている国だ。ある調査では主要37か国のなかで日本は、一番夫婦の別居率が低かった(※1)。

けれどもそこにも、もうこだわらなくてよくなってきている。

かく言う自分も、もう15年以上もパートナーと二人暮らしをしている。

そんな話をすると、「私にはそれができない」と言われることもある。確かにその人は、パートナーがいるのに一緒にシェアハウスに住むなどして、二人きりの同居はしていなかった。

まわりを見回せば、相手がいても同居をしていない人はたくさんいる。近くだけれども別々に住みながら、いつも行動は一緒にしていたりする。

確かに自分たちのように、子どももいない二人きりの同居では、向きあう相手はたったひとりしかいない。けんかが起きても、誰かに介入してもらうこともできない。こういう暮らしを怖いと思っても、不思議ではない。

特に我々の場合はたがいにどこかに通う仕事もあまりしないので、朝から晩まで至近距離にいることになる。三度の食事もたいてい一緒にとる。

そんな暮らしが15年以上も続いているのだから、これは少し誇ってもいいだろう。なにか長続きするコツでもあったのだろうか?

しいて挙げるとすれば、あまりちゃんと同居をしなかったことかもしれない。つまり、近づきすぎなかったのがよかったのだ。

自分の両親の家に行ってみると、確かに自分たちと同じ二人暮らしだ。一日中一緒にテレビを見て、一緒に寝床についている。彼らが生きている世界はひとつだなと感じる。そこがまったく違う。自分たちは、各々別の世界を生きているからだ。

■どんな愛情も近すぎれば迷惑

二人暮らしとは言え、我々は常に別の部屋にいる。夜寝る時も別で、世帯も別。それぞれに別の仕事をしていて、相手が何をしているのかはよくわからないことが多い。人前で相手を呼ぶ時は、たがいに旧姓にさんづけで呼んでいる。

ただし食事はどちらかをどちらかが手伝いながら作り、食べている。それすらやらなければ、共同生活はまったく別のものになってしまうだろう。

これを自分の両親のように、もっとひとつの世界に近づけていったら何が起きるかは、少し想像がつく。おそらくたがいが相手に、「もっとこうすればいいのに」と干渉したくなりそうだ。気になって、放っておけなくなると言えばいいだろうか。

相手を放っておけないのは、決していいことではない。

確かにこれまでは、人の世話を焼いたり気づかったりすることは、無条件にいいこととされてきた。けれどもそれも変わってきている。

例えば、子どもに親が愛情を注ぐのは好ましいことだ。ただそれが過剰になると、細かいことまで放っておけなくなる。細部まで指図をしては、その通りにやってくれないと不満になる。

だんだん過干渉という名の虐待になってくる。親が子にあまりに熱心に勉強をさせることは、教育虐待と呼ばれている。

ここには、人間関係すべてについての決定的な真実がある。それは、

「どんなに愛情をもってやったとしても、あまりにも近づきすぎると、悪意をもっていじめているのと同じことになる」

ということだ。ストーカーを見ればいい。好意か悪意かなんて、そこでは問題ではない。問題は近づきすぎた距離のほうにあるのだ。ハラスメントについても言えるが、我々が直面している加害の問題は、むしろ適切な距離が取れないことから来ているのだ。

では、「こうしたほうが、絶対に相手の人生は向上すると思えるのに、どうしてもそうしてくれない」という時はどうすればいいのだろう。

本人がそうしないのであれば、人生が向上しなくても、それはそれでしかたないのだ。そう思ってあきらめるしかない。

「本人の勝手」とはそのくらい大事なことなのだ。

■注目される「前向きな別居」

最近は、夫婦の「前向きな別居」が注目されるようになってきた。結婚していても別居する有名人が紹介されたり、“別居婚”という言葉が肯定的に使われるようになった。“週末婚”という言葉もよく目にする。

いずれも結婚の届けは出しても別の場所に住み、時々会うという結婚生活のことだ。

写真=iStock.com/Vasil Dimitrov
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そんな別居のなかでも特に興味深いのが“卒婚”だ。これは結婚はしたままで、別居も含めて夫婦が独立して人生を楽しむ生き方を言う。主に、ある程度結婚生活を続けた中高年夫婦について言われるものだ。中高年の離婚が増えていることとも関連した動きだろう。

■離婚すると自殺してしまう日本の男性

パートナーに生活を依存しすぎないことは、誰もが心がけていなければいけないことだ。

中高年世代が夫婦関係を何らかの形で解消するうえで、問題が多いのは男性の側だろう。

鶴見済『人間関係を半分降りる 気楽なつながりの作り方』(筑摩書房)

中高年離婚のほとんどは、妻からの申し出で行われる。中高年夫婦で不満を持っているのは、夫ではなく妻なのだ。

また日本の男性の自殺率は、失業率ほどではないにしろ、離婚率とも強く相関している。女性の側には、その傾向が見られない。

もちろん子どもの親権が、ほとんどの場合母親に行くという不利な点はある。とは言え家事全般を妻に頼っているならば、いずれにせよひとりで生きていける気はしないだろう。

誰もがいずれは、パートナーを失う。そして、その日がいつ来るかはわからない。だからこそ人間は、いくら人と一緒に暮らすようになっても、自立心をなくしてしまっては健康には生きていけないのだろう。

※1 “Work Orientation IV 2015” International Social Survey Programme(ISSP)

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鶴見 済(つるみ・わたる)
フリーライター
1964年、東京都生まれ。東京大学文学部社会学科卒。複数の会社に勤務したが、90年代初めにフリーライターに。生きづらさの問題を追い続けてきた。精神科通院は10代から。つながりづくりの場「不適応者の居場所」を主宰。著書に『0円で生きる』『完全自殺マニュアル』『脱資本主義宣言』『人格改造マニュアル』『檻のなかのダンス』『無気力製造工場』などがある。
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(フリーライター 鶴見 済)