「イチローを外したらチームがガタガタになっていた」打撃コーチだった篠塚和典が証言する2009年WBC秘話
篠塚和典が語るWBC 後編
2009年大会の裏話
(前編を読む:侍ジャパンの二塁手は山田哲人か牧秀悟か ダルビッシュ有には「いい雰囲気作りの能力がある」>>)
篠塚氏へのWBCインタビューの後編では、侍ジャパンの打撃コーチとして帯同した、第2回WBCにまつわるエピソードを語ってもらった。イチローの大会期間中の不振、それを支えた川粼宗則の言動、さらに、お互いに「形はだいたい一緒」だというバットの話も聞いた。
2009年のWBCで優勝し、喜ぶ(左から)青木宣親、イチロー、川崎宗則
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――(インタビュー前編で)選手たちを「気持ちよく送り出すことがコーチの仕事」と話されていましたが、コーチとして、どんな意識でコミュニケーションをとっていましたか?
――バッティングのアドバイスをされることもありましたか?
篠塚 見ていて「ちょっと調子が悪そうだな、違うな」と思ったらひと言、ふた言ぐらいアドバイスすることはありましたが、代表に呼ばれる選手たちは技術がしっかりしていますし、ぐだぐだと言うようなことはありません。2009年は岩村(明憲)にしろ、川粼(宗則)にしろ、片岡(保幸)にしろ、放っておいても練習をやる選手たちでしたから。
アドバイスというよりも、その都度当たり障りのない会話をして、選手の性格を知ろうと心がけていました。あと、状態が悪い選手がいた場合に本人に聞くのではなく、その選手と親しい選手に間接的に聞いてみる、といったことはありました。
――状態が悪かったといえば、2009年大会のイチローさんは第2ラウンド以降に12打席連続無安打となるなど、極度の不振に陥っていました。
篠塚 一番状態が悪かったのはイチローでしたね。東京ドームでの試合ではまずまずの状態だったと思うのですが、アメリカに行ってから状態が落ちてしまいました。ただ、彼はなんとか状態を上げようと、空いた時間を使って違う球場に行って練習したりしていましたよ。
僕はプロに入ってから、バッティングに関して周囲からあれこれ言われるようなことがありませんでしたし、ある程度「自分でやってきた」と自負するものがありましたが、イチローも同じようなタイプだと思っていました。とにかく状態が上向くことを祈りながら見守っていましたね。
――原辰徳監督はイチローさんを代えることはしませんでしたが、篠塚さんも同じ考えでしたか?
篠塚 そうですね。あの時は良くも悪くもイチローが引っ張っていく、イチロー中心のチーム構成でしたから。調子が悪いから下げる、という雰囲気ではなかったですね。仮にイチローを外したら、チームがガタガタになっていたと思います。
――イチローさんが、プロ入り当初から"篠塚モデル"をベースとしたバットを長年使われていたことはよく知られています。大会期間中は選手と打撃コーチという関係でしたが、どんなお話をされましたか?
篠塚 そんなに会話はしていないんです(笑)。基本的に、選手は選手同士で話しますから。あれだけの大人数で行動していますし、たまに話す時があっても覚えていないくらいの会話だったと思います。
――イチローさんのバットと篠塚さんのバットはほとんど同じですか?
篠塚 イチローのバットのほうがグリップが太いですが、全体としては細めでスッとしているような感じで、形はだいたい一緒です。バットといえば、WBCの時ではないのですが、イチローが2002年の日米野球で東京に来た時に少し話をしたんです。
その時に小学校6年生ぐらいだった自分の息子を連れていたのですが、息子も野球が好きなのでイチローのところに挨拶に行ったんです。それで3人で話している時にイチローが「ちょっと待っててね」ってその場からいなくなって、バットを持って戻ってきました。バットにサインをして息子にくれたのですが、その時に「お父さんと同じバットを使っていてね。このバットには本当に助けられているんだよ」とイチローが言ってくれたんです。
――息子さんも喜ばれたでしょうし、篠塚さんにとっても感慨深い言葉だったのでは?
篠塚 あれだけの選手にそう言ってもらえるのは嬉しかったですし、親としても鼻高々でしたよ。
――ちなみに、体勢を崩されてもバットをコントロールして、ヒットゾーンに広角にボールを運ぶイチローさんのバッティングは、篠塚さんのそれを彷彿とさせるのですが、ご自身で似ていると思いますか?
篠塚 そう思う部分はありますよ。ストライクゾーンだけを打つんじゃなく、そこからボール1個、1個半分ぐらい自分のストライクゾーンを広くしてね。やっぱりヒットを多く打って率を残すのであれば、そのあたりまで打てるという自信を持てれば、気持ちも楽になりますから。
いつも同じスイングで打っていると、確率は悪いんです。やっぱり率を残すためには、スイングスピードをちょっと変えてボールをちょこんと当てたり、体勢を崩して打っていったりね。そういうことは、試合になったら必ず起こること。体を泳がせて打ったり、詰まらせて打ったり、バットの先で打ったりすることを練習でしっかりやることが大切です。バッティングというのは、体が覚えるまでやらないといけません。
――カウントによって意識も変えますか?
篠塚 僕は常に真っ直ぐしか狙っていないんで。真っ直ぐのタイミングで待っていて、いろいろな球種にアジャストしていく感覚です。イチローは自分に有利なカウントの時は、そのピッチャー次第で変化球を狙っていくかもしれませんが、やはり追い込まれてからは常に真っ直ぐ狙いでいって、抜かれたボールを対処するっていうバッティングですよね。
――2009年のWBCの決勝でタイムリーを放った打席がまさにそんな感じでした。ちなみに、イチローさんが不振の時期は誰も話しかけられるような雰囲気ではなかった、という話も耳にしたことがあるのですが......。
篠塚 それに関しては、川粼がいたことで救われる部分があったんじゃないですか。彼くらいですよ。イチローが打てなくてベンチに帰ってきた時に、励ますじゃないけど、声をかけていたのは。休みの日も練習に一緒に過ごしていましたし、川粼の存在はイチローにとってものすごく大きかったと思います。
――イチローさんは長いトンネルを抜けて復調して、韓国との決勝戦では決勝のタイムリーを含む4安打を放ちました。
篠塚 あの決勝タイムリーは、川粼が打たせたようなものですよ。
――それほど川粼さんの存在が大きかったということですね。ちなみに、篠塚さんはイチローさんのあの打席をベンチからどう見ていましたか?
篠塚 不振の時はボール球を空振りしていましたが、あの打席はけっこう球数を投げさせながら、ショートバウンドの球をファウルにしたりしていて、「これはいけるな」と。それまでの打席とは違う何かを、あの打席では感じていました。センター前に弾き返した瞬間は嬉しかったですね。
――篠塚さんが現役の頃、WBCのような大会はありませんでしたが、もしあれば出たかったですか?
篠塚 正力松太郎さんが作られた教訓に、「巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ」とありました。1988年の日米野球でオーレル・ハーシューハイザー(サイ・ヤング賞投手)との対戦などはありましたが、やはりアメリカの選手たちと真剣勝負の場で戦いたかったという思いはありましたよ。WBCではコーチとしての参加でしたが、アメリカと戦うことになった時は、「戦えるんだ」っていう感情が湧きましたし、試合に勝てた時はちょっと胸をなで下ろすことができました。
【プロフィール】
篠塚和典(しのづか・かずのり)
1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番打者などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。