インフレ加速の先に見える世界秩序の大変化
ウクライナ戦争を契機に、世界的なインフレが押し寄せている。これには、世界的な体制の変革をもたらす可能性がある(写真・CORA /PIXTA)
つい最近までインフレを起こしたいといって悩んでいた人々が、今度はインフレだと騒ぎ始めている。長い間デフレ不況が続く中、インフレターゲット論が浮上し、アベノミクスはインフレによる経済成長を目論んだが、それはある意味当然であった。しかし、インフレはまったく起きなかった。
にもかかわらず、今になってインフレがひたひたと押し寄せ始めている。それもたんなるインフレではない。ハイパーインフレーションになるかもしれない危機的インフレである。
ハイパーインフレ到来の可能性
ハイパーインフレーションとは、物価の上昇に歯止めがかからなくなる現象だ。私は1989年、当時のユーゴスラビアですさまじいインフレーションを経験した。一息吸うごとに物価が上昇するとは、こういうものなのかということを初めて知った。
自国紙幣の価値がどんどん落ちていき、どの店もほぼ自国紙幣を受け付けなくなり、外貨による支払いが優先されていった。自国紙幣が使えないということは、すでにその国の経済的独立は存在していないということでもある。給与はどんどん上がるが物価はそれ以上に上がり、発行される新紙幣の額面はどんどん上がっていく。電車に乗るのさえもお札の束が必要になってくる。
こんなインフレを体験することは好ましいことではない。しかし、こうしたハイパーインフレーションが近々来るかもしれない。
物価の上昇が貨幣量の増大によって起こることを初めて明確にしたのは18世紀のイギリスの哲学者、経済思想家として知られるデーヴィッド・ヒュームだが、それは貨幣数量説といわれる議論で貨幣の多寡が物価を決めるという理論だ。もちろんこれには波及するまでのタイムラグがあるので、それほど単純なものではない。
経済成長期に起こる成長インフレは、成長期の子どもと似ている。つまりいくら食べても体が大きくなるので体に吸収され、決して健康を害することはない。通貨の発行量はその国の経済の大きさを現わす。通貨量が多いとそれだけ、その国の経済力は高い。昔から貨幣を獲得することの意味は、まさに貨幣によって富が増えることにある。経済成長とは貨幣量が増えることでもある。当然貨幣量が増えれば、インフレとなる。しかし、その分生産量も上昇することで物価は上がるが、インフレが加速化するわけではない。これが成長インフレだ。
しかし、1973年に世界を襲った石油ショックは成長インフレではなかった。石油という天然資源の供給量が減少したことでエネルギー資源が高騰し、それがすべての物価に波及していった。石油資源を供給する産油国は、先進国の外にある。中東諸国が、石油を生産調整したことで、先進国のエネルギー供給量は一気に減少した。
石油を求めて先進国は狂奔し、それを見ていた人々は石油とは直接関係のない商品まで買い占め、物不足現象が起き、物価は一気に上昇した。幸い、石油ショックの原因となった第4次中東戦争(1973年10月6〜24日)が長引かなかったことで、石油ショックは物価上昇をそれほど引き起こさなかったが、長引いていたらどうなったかわからない。
GDPの貨幣的成長がはらむ致命的欠点
今回の状況は、これまでとはかなり違う。確かに戦争がエネルギー生産国で起これば供給が絶え、インフレが起こる。50年前に比べて、世界がグローバル化し、石油などのエネルギー資源だけでなくあらゆる産業製品が後進諸国に分散しているという決定的な違いもある。
皮肉なことだが、1991年に冷戦が終了したのと同時に起こったグローバル化は、世界の経済を相互に、かつ密接に結びつけることになった。冷戦下では自国生産を優先するという防衛上の必要性があったのだが、それが不要となったことで、先進諸国はより安い賃金、原料、エネルギー資源を求めて後進諸国に工場を建て、そこからより安い製品を輸入することで、コストを大幅に下げた。
自国にある石炭や石油の生産をやめ、安い海外産の石油や農作物などに頼ったことで、自国の工業や農業は空洞化していく。このグローバル化によって後進諸国の産業生産や農業生産が発展し、後進諸国の経済発展が進み、先進諸国はこうした国々から安い製品を輸入することで、莫大な利益をあげていった。
世界経済はドルを中心として動いている。豊かな国はアメリカとの貿易でドルを稼ぐことで、世界中から商品を購入できる。豊かな国とはこのドルを持っている国のことだ。アメリカが豊かであるのは(本来の豊かさは生産力の高さにあるはずだが)、実際にはそのGDP(国内総生産)を示すドルという貨幣量の多さにある。
これは自国でドルを発行するのだから当たり前のことだが、ドルで自由に海外から商品を購入でき世界中に投資できるので豊かなのだ。たとえ工業や農業を海外に頼っても、自国で発行したドルで購入できるので問題はない。他の先進国も黒字であればドルが豊富であり、海外からどんなものでも購入できるので豊かである。
しかし、先進国の経済は次第にものをつくることをやめ、海外に工場を移し、金融や商業に特化していく。それも世界の貿易通貨がドルであり、世界が平和であれば何ら問題ではない。いや、ドルを強制的に維持するためにIMF(国際通貨基金)や世界銀行、WTO(世界貿易機関)などを先進国が支配し、軍事力によって先進国優位の体系をつくっているかぎり問題はない。
しかし、いったんこの体系が崩壊したらどうなるであろうか。グローバリゼーションの結果、WTOによる世界市場の形成の結果、非西欧諸国の生産力は次第に上昇している。農業、工業などにおいて非西欧諸国の力は大きくなっている。これらの国がつくる部品がないと今ではどんなものも作れなくなっている。農作物、工業製品、燃料資源など、先進国は完全な依存状態である。
GDPのドルによる総額は、確かに先進国が多い。しかし実際の実体経済の面から見た農業や工業生産量は、非西欧諸国の方がもはや多いのだ。もっとはっきりいえば、グローバル化によって世界の分業化は進み、多くの商品を生産しているのは非西欧諸国ということになったのだ。
ウクライナ戦争と経済制裁という諸刃の剣
西欧諸国は非西欧諸国がグローバル体制に対して反抗しないように、軍事基地を世界中に置き、つねにパトロールを行い、サプライチェーンが乱れることがないように監視している。例えば部品の供給を怠り、債務を不履行すると途端に厳しい制裁を加える。これによって、成長しつつある非西欧諸国の経済は衰退したり破綻したりする。その意味で絶対的な権力者として西欧は今も世界を支配している。
とりわけ勃興する中国とロシアを中心としたBRICsなどがG7(主要7カ国)に楯突こうものなら経済制裁が加えられる。今回のロシアのウクライナ侵攻においても、経済制裁が次々とロシアに一方的に加えられた。19世紀以来、西欧諸国は世界の主人よろしく、アジア・アフリカ諸国が少しでも抵抗すると彼らに厳しい制裁を加えるか、そうでなければ軍事的な示威行為を行ってきた。冷戦崩壊以後、対抗勢力がなくなった今では、この制裁または示威行為は秩序維持のための必須の手段となっている。
しかし、この経済制裁は諸刃の剣でもある。たとえばSWIFT(スイフト、国際銀行間通信協会)でドル決済を停止させることは、IMF体制が堅持されている限り有効だ。とりわけ、ドル不足に悩む債務国に対しては有効である。しかし、そうした債務国グループ同士が連携して独自の通貨圏をつくれば、SWIFTが持つ効力はなくなる。それどころか、ドル体制をも揺らぎかねないのだ。
かつて旧ソ連・東欧圏はIMF体制の外で、「振替ルーブル」という制度を構築していた。これは、ドルではなく預金口座上のルーブルを使っての貿易決済であり、いわば旧ソ連・東欧版のIMF体制であった。ソ連東欧圏はこの体制を維持することで、西側に左右されない強力な経済体制を誇っていた。これがコメコン(経済相互援助会議)である。
現在、デジタル通貨が発展しつつある。デジタル通貨の制度化が進んでいるのは、中国やインドだ。先進諸国は遅れている。デジタル通貨制度を構築すれば、ドル体制は脆弱化する。そうでなくとも、2国間の通貨を使った決済制度を利用すれば、たとえば中国元とロシアのルーブルのようにドルはいらない。ドルが必要となるのは西側との貿易であり、西側が科学技術や生産力において秀でているという前提がなくなれば、ドルは必要ではなくなる。
ウクライナ戦争はその意味で、新たな時代をつくったといえる。西欧側のウクライナと非西欧側のロシアが代理戦争を行っている間に、2つの世界が分離し、非西欧が新たな通貨構築を考え始めているからだ。しかも、重要なのは、経済において非西欧抜きに、西欧は何もできないということだ。
1973年の石油ショックのときにわかったのは、弱小国といえどもエネルギー資源を握っている国を敵にまわすとたいへんなことになるということだった。ロシアはEUへのエネルギーの供給基地である。一見、西側の技術と資本はロシアをたんなる原料供給基地にしているようにみえる。しかし、実際には完全に急所を捕まれているのだ。農業においても工業においても、原料やエネルギー、部品、ひいては100円ショップの商品などいずれも非西側から供給されている。はっきりいえば、非西欧がなければ毎日の生活すらままならない。
これまでうまくいったのは、“西側連合”がアメリカ軍によってこれらの国を支配し続けていたからだ。アメリカ軍が張り子の虎であり、非西欧諸国が互いに協力すれば西欧に抵抗することが可能だとわかればこの体制は意外に脆い。
欲しがりません、勝つまでは
まさにその抵抗が、先進国自らが加えた経済制裁によって起こった。経済制裁に抵抗すべくロシアやインド、中国などのBRICs諸国、さらにはアジアやラテンアメリカ、アフリカ、中東諸国が連携をとり、西側に対して石油や天然ガスなどの供給を制限し始めたのである。今では、通貨や経済協力などにおいて非西欧諸国は連携を取り始めている。そうなると、石油ショックのとき以上のインフレーションが西側世界で起こるかもしれない。
貿易赤字と財政赤字を抱えるアメリカは世界に大量のドルを過剰供給し、つねにインフレを創出してきた。そんなドルが、世界から閉め出されたらどうなるか。ルーブルや人民元による支払いとなれば、アメリカは支払い不能に落ちる。そうなると輸入は不可能だ。だからこそドル体制を維持し、世界経済を牛耳るしかなくなる。それが端的に現れたのが、今回のウクライナ戦争ともいえる。
だからこそ、アメリカはロシアに譲歩して停戦することなど許されない。先進国の国民は、迫り来るハイパーインフレーションと第3次世界大戦への可能性におののきながら、とはいえ、なすすべもなく戦争継続と勝利の夢に酔いしれるしかない。敗戦など、ありえない。敗戦となれば200年の西欧による世界支配の時代がいよいよ終焉を迎え、アジア・アフリカの時代が始まるかもしれないからだ。
となれば第2次大戦中、日本で繰り返し言われてきた「欲しがりません、勝つまでは」というプロパガンダの言葉が現実味を帯びてくる。ただアジア・アフリカの新しい時代を受け入れれば、インフレなど終わるかもしれない。しかし、これまでの栄光を持続するには、かたくなに今の体制に固執するしかない。これまで西欧だけに有利であった世界経済のゲームがチェンジするだけのことだが、先進国の国民はこのゲームチェンジを何よりも恐れているのだ。
(的場 昭弘 : 哲学者、経済学者、神奈川大学経済学部教授)