※この記事は2017年05月26日にBLOGOSで公開されたものです

痴漢に疑われて、線路に逃げる人がいることが時折ニュースになる。場合によっては死亡事故となったり、逮捕されることもある。5月15日には、横浜市青葉区の東急田園都市線の青葉台駅で、男性が車両に引かれ、死亡する事故まで発生した。また、19日には、埼玉県川口市のJR川口駅ホームから線路内に立ち入ったことで威力業務妨害の疑いで逮捕された男もいた。それだけ、痴漢に疑われたくない心理が働くのだろう。痴漢をしていない場合、それを証明することは可能なのか。そんなことを考えさせる裁判の判決があった。

2009年12月、大学職員の原田信助さん(当時25)が東西線早稲田駅で電車に飛び込み自殺した。前夜に行われていた新宿署での痴漢容疑の捜査が違法だったとして、遺族の母親、尚美さんが東京都を相手に損害賠償を求めていた訴訟で、東京高裁(大段亨裁判長)は、尚美さんの控訴を棄却。敗訴となった。

訴状や判決などよると、09年12月10日午後11時前後、JR新宿駅構内の階段付近を歩行中の信助さんは、女性に「お腹を触った」と告げられ、同行していた友人らともみあいになった。原田さんは110番通報したが、その最中に新宿駅の駅員が臨場した。信助さんは相互暴行の容疑と思い、新宿署への任意動向に応じた。しかし、取り調べ中、痴漢(東京都迷惑防止条例違反)の容疑がかかっていると知らされる。釈放後に、東西線早稲田駅に行き、電車にひかれて亡くなった。

都迷惑防止条例の第五条では

  何人も、正当な理由なく、人を著しく羞恥させ、又は人に不安を覚えさせるような行為であつて、次に掲げるものをしてはならない。 一 公共の場所又は公共の乗物において、衣服その他の身に着ける物の上から又は直接に人の身体に触れること

となっている。駅構内で「お腹を触った」とすれば、条例違反となり、6ヶ月以下の懲役または50万円以下の罰金となる。衣類や下着の中に手を入れて触る強制わいせつ罪とは違い、親告罪ではない。告訴がなくても起訴できる。

110番通報メモによると、新宿署では、服装の違いから一旦は人違いとしていた。しかし、信助さんの死後、署長の命による「特命捜査本部」を設置。10年1月、同条例違反の疑いで東京地検に送致した。そして、同地検は、被疑者死亡で不起訴とした。

信助さんは新宿駅西口交番で事情聴取された段階から、所持していたICレコーダーで録音していた。内容は、訴訟を支援する会のホームページ内の「ICレコーダーの録音内容」に記載されている。 

遺族側の訴えは東京高裁でも棄却される

一審判決で東京地裁は、尚美さん側の主張を全面的に棄却。警視庁の捜査の違法性を認めなかった。任意同行の際、痴漢容疑について警察官は信助さんに告知してないが、「暴行と痴漢事件が関連している」ことから、暴行事件の被害者として任意同行に応じるように説得したとしても「社会通念上相当」としていた。そして、高裁判決でも尚美さんの主張を棄却。一審判決同様に敗訴となった。

判決後の説明会で、弁護側は「一番問題にしていたのは、痴漢事件の時刻」だとしていた。JR新宿駅に設置された防犯カメラの映像が提出されている。しかし、痴漢の場面は映っておらず、もめている場面でも、画像がはっきりしない。そんな中で、新宿署が主張する痴漢のあったとされる時間に関して、「画像の中に時刻の刻印がなく、映像の枠外に新宿署が書いている。改ざんが可能ではないか」と弁護側が主張していた。しかし、認められなかった。

 「ビデオの時刻のズレについては言及してない。写真の枠外に時間を書いただけで、改ざんではないと判断されている。どうして警察が書いた時間が正しいと言えるのかについては理由は書いていない」(弁護側)。

JR新宿駅の助役が書いた日報でも時刻が訂正されていた。

 「訂正するならば、訂正印が必要だが、それがなかった点について、警察の都合のよい解釈をされてしまった。(警察側の主張が正しいという)結論ありきの判決だった」(弁護側)

痴漢の現場も階段の途中なのか、踊り場なのかが書いていないが、

 「警察が現場を間違えるはずがないという前提のもの。現場は『階段の途中または踊り場』と書かれているが、『または』と書いているから、問題はないとされている。警察が思う通りの判決になっている」(弁護側)

黙秘権の告知がなかったことについては、

「亡くなった信助さんは警察に対して平然と回答していたことから、黙秘権を告げなくても問題がないと、判決が指摘している。黙秘権はそういうものではないでしょう」(弁護側)。

110番通報「駅員が入れば、警官が臨場しなくてもいい」

110番通報の際に警視庁の通信司令センターが記録する「110番通報メモ」では【処理てん末状況】として、痴漢の犯人と信助さんの「服装が別であることが判明」とまで書かれている。信助さんは痴漢の犯人ではない、としていたのだ。しかし、この時点では疑いが晴れたことになるが、釈放時にそれを告げていない。それも違法性はないとしている。

また、110番の通信記録として、以下の通話内容が残されていた。

信助さん 駅員に囲まれている状況なんですが。
通信指令室 いまどこにいるんですか?JRですか?

6分近くやりとりをしている。〈駅員に囲まれている〉のは、相互暴行が起き、駅員が信助さんを取り押さえようとしている様子を指している。しかし、通信指令室は、信助さんが通報している場所を特定してない。電話が切れた後に次のような会話がなされている。

 上司と思われる男性 どのあたりかな?
 通信指令室 何も言わないんですよ。JR新宿駅か京王線か聞いているんですけど。

警察は現場を特定できなかった。警察官が現場に到着したのは、信助さんからの110番通報によるものではない。にもかかわらず、【処理てん末状況】で詳細が書かれているのは不思議だ。

「駅員が臨場しているために、緊急を要する事態ではない。あとで警察官が駅員に聞けば事足りる、として、必ずしも警察官が臨場しなくてもいい、と判決で書かれている。そんな警察官の事務処理はない。それに、信助さんの110番通報に応えていないのは問題にしていない」(弁護側)

新宿署は、信助さんの死後、痴漢を訴えた女性らと裏付け捜査をした。現場検証を行った結果、都迷惑防止条例違反で書類送検した。もともと、被害を訴えた女性が、被害届けを出すつもりはなかった。

<私は御茶ノ水駅で飲食した後、中央線各駅停車新宿駅のホームの階段を降りる途中に、スーツを着た男性に腹部をまさぐられ、その男性をつかまえました。その後、友人男性と駅員とつかみ合いになりました。私はこの件において、男性にあやまっていただきたいです。被害届を出すつもりはありません>

しかし、一転して、10年1月、被害届を提出した。

<階段を降りて行く途中、逆方向から階段を上って来た男女数名がいました。私の記憶では、この中に、濃いグレー色のスーツ姿の男性が目に入ったのです。この濃いグレー色のスーツ姿の男性が私と擦れ違い様に、右手を伸ばし、私のお腹あたりをワサ・ワサという感じで軽く撫でて来たのです>

訴えたことで、わかった真相も

結局、新宿署は、迷惑防止条例違反の疑いで、信助さんを書類送検した。ただ、検察庁は、被疑者死亡で、不起訴とした。この裁判では東京地裁、東京高裁でも尚美さんの訴えは棄却された。しかし、信助さんへの捜査、書類送検などで明らかになった事実も多かった。弁護側はこう言う。

「当初はもともと証拠がなかったが、刑事記録が出てきた。そのため、真相に迫るものになっていた。高裁でも新たな証拠が出てきた。その意味では、わかりやすい形での、あまりにも乱暴な判決ということだ。日本の裁判所は、証拠に基づいて裁判が行われているのかということを問題提起できた」

判決後、尚美さんはこう話した。

「提訴から6年1ヶ月で高裁での敗訴。判決言い渡しのときに法廷に行ったが、同じ時間帯に複数の判決が並んでいたので、棄却されるのは、ある程度、予測していた。司法の壁が厚く、国賠訴訟で勝つのは難しいことを実感した。息子の月命日もすでに89回を過ぎている。いい報告をしたかったが、息子がどういう目にあっていたのか、警察の対応はどうだったのかを問題提起はできた。息子の事件の真相を知ってほしい。今後のことは、判決文をじっくり読んだ上で考えたい」